第四章 歌姫の憂鬱

第13話


 ロックグラスが、鈍い音を立ててコーヘイに当たり、床に落ちて、割れた。



 わずかに顔をそむけたおかげで、目に当たる事はなかったが、右の額に裂傷ができて、静かに血が流れ落ちる。

 コーヘイは手を後ろに組んだまま、拭う事なく血が流れゆくままにして。


 やがて、反射的に伏せていた目を上げると、まっすぐにロレッタにそのまなざしを向けた。


 それを受けて、琥珀色の瞳が動揺で揺れる。


 思わず投げてしまったが、怪我をさせるつもり等なかったし、激情のままに自分が言った事、やった事に怯えて、蒼白になって震えていた。


「あたし……あたし……」


 ロレッタは、そもそもこんな風に言い合うために、コーヘイに会いたかった訳では、ない。しかし、元の世界への思慕をあっさり切り捨て、この世界に馴染んでいる姿を目の当たりにすると、元の世界に戻るために苦しんでいる自分が滑稽に見え、心が挫けそうになってしまったのだ。強い言葉で、心を奮い立たせるしかなかった。


 ガラスの割れる音を聞きつけ、アリステア王子が部屋に駆け込んで来た。脇目も振らずに、一直線にロレッタの元に向かう。


「ロレッタ!どうしたんだ、何をされたんだ」


 どう見ても、何かされたのはコーヘイの方なのだが、王子は彼女以外が全く目に入らないようだ。


「何でもないの、用は済んだから、彼を帰してやって」


 ロレッタは俯いて、震える声で、何とかそれだけ言い切った。アリステアはロレッタの両手を取り、跪いて心配そうにその顔を見上げると、王子はその姿勢のまま、彼の方を一瞥する事もなく、言い放つ。


「副団長、退出を許す」


 コーヘイは一礼して、部屋を出る。

 去る間際に、やや振り返ってロレッタの方を見た。ロレッタもわずかに顔を上げたので、琥珀色の瞳と黒い瞳が一瞬絡み合う。


 無言で、コーヘイは部屋を後にした。



 額から滴り落ちる血は、まだ止まっていなかった。

 廊下ですれ違う人々を、ぎょっとさせてしまったが、構わずに前だけを見て歩き続けた。走り出したい衝動すらあった。それはなんとか抑えたが、自然と速足になる。どこかに行って、大きな声で叫びたい。


「副団長!その怪我はいったい」


 廊下の先で控えていた部下の一人が声を上げる。


「大丈夫だ」

「医務局にご一緒します」

「いや、いい」


 手を上げて断る。


「せめてこれを」


 ハンカチが差し出される。コーヘイは躊躇したが、部下にこれ以上心配を掛けてはいけないと思いなおし、受け取った。


「ありがとう」


 心配そうな視線を背に受けながら、コーヘイは胸に渦巻く感情に苦しめられていた。自分の心だけでは処理しきれなくなり、気づくと魔導士団の区画に来ていた。

 そろそろ夜の担当と交代で、帰る準備をしていた受付のアルタセルタが驚いて椅子から立ち上がる。


「団長閣下にお会いしたい」

「コーヘイさんはいつでも通すように言われています。どうぞ」


 アルタセルタは立ったまま、コーヘイの後ろ姿を見送った。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



「突然すみません、コーヘイです、少しいいですか」


 ドアをノックすると、すぐに許可する声があり、コーヘイは扉を開ける。


 入室した騎士のその姿に、椅子に座って魔方陣の束を数えていた魔導士は驚き、椅子を倒しかねない勢いで立ち上がって駆け寄ってきた。持っていた魔方陣は、バラバラに床に散っている。


「どうしたんだ、おまえ」


 コーヘイは今までにない、苦渋の表情をしており、セトルヴィードを大いに心配させた。


「とりあえず、治療しよう」


 血を流す騎士の手を引いて、やや強引に椅子に座らせる。


 握りしめられているだけで使われていないハンカチを、魔導士は丁寧に手を緩ませて取り上げると、それで頬に流れおちた血をそっと拭い取り、傷の場所を確認する。


 静かに長い指を傷に這わせ、わずかな詠唱で治癒の術を発動させる。

 シャボン玉のような煌めきが見える。


「閣下の魔法は、綺麗ですね」

「そうか?」


 セトルヴィードの魔法は、指の動きの所作を含めて本当に美しかった。夢を見ているような気分になってくる。医務局の治癒術師の魔法を、綺麗だと思った事はない。


 ハンカチを濡らし、残った血を丁寧にふき取って行く。微かな赤みが残ってはいたが、そこには出血を伴うような裂傷はすでになかった。


 魔導士はコーヘイの表情の理由が、傷の痛みではない事に気付いていた。

 無理やり聞き出すような事はなく、コーヘイの心の準備ができるまで、何も問わずに待った。


 やがて黒髪の青年は、ぽつりぽつりと自分の心情を語り始めた。ロレッタとの口論で、蓋をしていた元の世界への思慕があふれ出して止まらない事も。


「父さん、母さん、姉さん……」


 目を固く閉じ、両手を握りしめ、俯きがちに愛する人を言葉にする。

 家族の顔が次々浮かび、仲の良かった同僚、同輩、厳しく尊敬できる上官、友人たちの顔が次々と浮かんで来る。あの人達に、もう会えないなんて。写真一枚、手元にないのだ。自分がこちらの世界で、元気でしている事すら伝える手段がない。自分の力ではどうしようもない事に、青年は苦しんでいた。


 銀髪の魔導士は、静かにその苦しみの告白を受け止め続けていた。


「今更、帰りたい訳じゃないんです。自分はもう、この世界で生きるって決めていましたから。帰れるって言われても、ここに残ると、思います」


 だけど、帰りたくない訳じゃない。心が二つに引き裂かれるほどに辛かった。片方を選ぶと片方を失うのだ。自分の意思で選び切れるはずがない。選べるはずがない。


 運命が強制的にどちらかを選択したら、素直に受け入れる、それしかない、そうでないといけないのだ。


 苦しみに耐えるように、両膝の上で硬く握りしめられていた拳を、魔導士は優しく撫でて力を解かせた。

 そのまま手を取り、心をのたうたせている騎士を立ち上がらせる。


 セトルヴィードはコーヘイの前で、迎え入れるように両腕を軽く開き、静かな笑顔で少し首を傾げて見せる。


「貸してやろう」


 コーヘイは泣いた。


 胸を借りるには身長が近すぎたので、肩を借りて、すがって泣いた。魔導士は子供をあやすように、逞しい騎士の背中をさする。


「お前たちは本当に、いろんな表情で私を驚かせるな」


 労わるような優しい声に、甘えて泣き続けた。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 ロレッタも泣いていた。

 涙を流さずに歌で泣いていた。


 バルコニーに出て、星に向かって歌う。



 後悔と懺悔。



 このメッセージを込めて、空に届けるように歌い上げる。聞いている者の心も苦しくなる。魂が震えるような悲しみに満ちた歌声が夜空に吸い込まれていく。


 黒髪の彼のように、元の世界への思慕を捨てて、ここで生きると決意すれば、楽になるのはわかっていた。

 でもそうするには、ロレッタには元の世界が恋しすぎだ。諦めきれない。せめて自分だけは最後まで、運命に抗い続けたい。今までそうしてきたように。


 楽になるためだけに、この世界を受け入れるのは絶対に嫌だった。



 そんな歌姫の姿を、アリステアは切なげに見つめていた。


 彼は、ロレッタの姿形だけではなく、その傷つきやすい魂に、美しさを感じているようにも見えた。


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