第12話
王子の部屋のバルコニーで、ロレッタは夜空を見ていた。
星の並びは元の世界と同じで、どれが何座か知識の乏しいロレッタでもわかるほど、くっきりと見えている。
王都とはいえ町の灯りは強くなく、月のない夜空はまるでスパンコールを散りばめた黒いドレスのようで、ロレッタの心を奪っていた。
優しいメロディの静かな曲を、誰にも聞こえないように口ずさむ。この夜空に相応しい曲を、星に捧げるように。
足元に先日拾った猫が、可愛らしい鳴き声を上げながらまとわりつく。
怪我も随分よくなって、見た目もどんどん可愛らしくなっていた。全体が黒く、足元と口元だけが白で手袋と靴下を履いたような模様だ。
ロレッタはこの猫に、いまだ名前を付けていない。
ふいに背後に気配を感じて振り返る。
金髪碧眼の美男がそこにはいた。
「夜風は体に悪いよ、いとしい人」
王子の手が彼女の頬に触れると、夜気にさらされ、ひんやりとしている。
ロレッタは特に返事をしないまま、王子に促されて部屋に戻った。
王子はロレッタを膝の上に乗せ、冷たい額にキスをする。
キスは頬に移り、そして唇へ。
最初は軽い、ついばむようなキスだったが、やがて濃厚な大人の男女の口づけへと移行していく。かすかな息遣いが、静かな部屋に響く。
王子の手は、ロレッタの長いスカートのすそから滑り込み、その太ももを撫でまわす。スカートはたくし上げられるような形になった。
男の手が下着にかかった瞬間、ぴしゃりと女は王子の手の甲を打った。
「それ以上は、ダメ。結婚するまで。約束したでしょ?」
甘えるような口調なのに、目には軽蔑の色さえ浮かんでいるようだ。
そのような目線でお預けをくらった王子は、まるでエサをもらい損ねた大型犬のようななんとも言えない表情をした。
王子は早く彼女を本当の妃にしたかったが、国王は未だに話すら聞いてくれず。騎士団長ヘルも難色を示している。王子の婚姻は政治的意味も大きいため、さすがにこればっかりは、個人の我儘でどうにかなるものではなかった。
ロレッタは王子の膝上から降りると、スカートを手早く直して猫を抱き上げた。
いつもの強い眼差しは、猫を見る時は鳴りを潜め、話しかけるでもなく、ただ静かに撫でている。
「その猫に、まだ名前をつけないのか?」
こんなに可愛がっているのに、何故だろうかと王子は疑問に思う。
「つけたりしないわ」
きっぱりと言い放つ。
その目線はどこか遠くを見ているようで、王子を不安にさせる。だがそれ以上聞くと、美女の機嫌を損なう予感がして、何も言えなかった。
「ねえ、王子さま。あたしのお願いを聞いてくれる?」
「私にできる事ならなんなりと、お姫様」
いつもの誘惑めいた目線ではなく、真剣な光をたたえているのが、アリステアには新鮮に写った。
「結婚したら、王子さま以外の男性と二人きりになったり、というわけにはいかないでしょ?」
「それは当然だ」
彼は怒りを持って返答をした。
束縛の強い男だ、絶対にそんな事は許さないだろう。
「あたし、一度だけ、二人きりで話をしてみたい人がいるの。聞きたい事があるだけなんだけど」
「どこの誰なんだ」
「あたしと、同じ世界から来たという人。騎士団にいる短い黒髪の」
アリステアの脳裏に、異世界人の副団長の顔が浮かぶ。少年のような面立ちを残した好青年だ。直接雑談を伴うような会話をした事はないが、仕事もでき、人望もあるきちんとした人物と聞いている。騎士団長ヘルも、手放しで褒めていたあの男か。
アリステアはキリカ妃の事が原因となって女性に対しての視野は狭いが、男性に対しては素直に評価を下していた。
清潔感のあるあの青年が、二人きりになったからといって、ロレッタとどうこうなるようには思えない。でもロレッタの魅力に、男の方が溶けてしまって、という可能性もある。ロレッタが話をしたいと思う相手という事で嫉妬心も沸き、すぐには返事ができなかった。
「無理?」
上目遣いで、可愛らしくねだるように言われると、王子には許可する以外の選択肢がなくなってしまった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
数日後の夜、コーヘイは、王子の自室に呼びつけられていた。
明らかに、業務とは関係ない個人的な事由があると感じ、さすがのコーヘイも王子の行動には怒りに似た感情が生じていた。
上に立つ者がこのような事をして、良いはずがないだろうと。
部屋の壁添いで、立位姿勢で待機するよう王子に命令されていた。そこから一歩もロレッタに近づいてはならないと言う。
コーヘイは姿勢良く立ち、足をやや開いて、手を後ろで組んだ。
美女は対面の壁に置かれた長椅子に座り、無表情にそんなコーヘイを見ている。
「ロレッタ、何かあったら絶対に私を呼ぶんだよ、隣の部屋にいるからね」
頬に軽いキスをし、コーヘイを強く睨みつけてから、ロレッタの足元をウロウロしていた猫をすくい上げるように抱きあげて、王子は部屋を出て行った。
王子が退出しても、しばらくロレッタもコーヘイも口を開かずにいた。
静寂。
コーヘイは目前の彼女の事を、造形の整った人だとは感じていた。しかしセトルヴィードと過ごしているうちに、美形という物を見慣れてしまったのか、圧倒されたり惑わされる事はなかった。
彼女の上っ面な、見た目だけの色香にも男として惹かれない。正直なところ、演技なのではないかとすら思える。芝居じみた、いうなれば舞台女優のような大げさな印象すら受ける。
コーヘイはかつて、この世で最上の美しき誘惑の姿を目にしている。手を伸ばして力の限り抱きしめ、魂も、心も、体も、全てを自分の物にしたくなるようなあの衝動を、ロレッタに感じる事はできなかった。
王子が念を押さなくても、コーヘイが彼女に何かをする事は、まずない。
「あなたは、元の世界に帰りたくないの?」
ロレッタがやっと口を開く。
「帰りたいと言って、どうにかなるものではありませんから」
「帰れないと言われて、それだけで納得したの?」
コーヘイはこの問に、返答を躊躇してしまった。
「無様だわ」
ロレッタの琥珀色の瞳に、軽蔑の灯が宿る。
彼女は足を組みなおして、コーヘイに言葉を続ける。
「帰れませんよ、と言われて、あなたは、はいそうですか、となったわけね」
確かにそうである。帰る方法はないから、この世界を楽しめと言われ、それなら仕方ないと、ここでの生活の覚悟を決めた。
「本当に方法はないのか?って、あがいても、みなかったんだ」
彼女の瞳は冷え冷えとしている。黒い瞳はそれに対抗できずにいる。
「あなたにとって、元の世界って、そんな簡単に切り捨てられるものだったのね」
「そんな事は……」
「でも、何の努力もしなかったんでしょ!あなたは帰るために、いったいどんな努力をしたっていうの?探してみたの?試してみたの?一体何をやってみたっていうの!?言ってごらんなさいよ!!」
ロレッタは苛立ちの炎を吹き上げた。
コーヘイは何もしていない。フレイアの説明を聞いて、納得してしまい、早々に諦めたのだ。答えられるはずがない。
女は、黙ってしまった黒髪の騎士を、なじり続ける。
「この世界の人間は、異世界からの人間を便利な道具だと思ってるのよ?わざわざ送り返す努力をするわけないじゃない。帰りたいと思う人間が、帰るための努力をしなきゃ、帰れるはずなんてない!どうして何もしなかったのよ!あなたも!あなたより先に来た人も!なぜ、何もやってくれなかったの?少しでも前に進めてくれていたっていいじゃない!どうして方法がないの?どうして、どうしてヒントすら見つからないの!?」
一息で叫び切る。さすがの彼女も肺活量の限界のようで、肩で息をしている。
コーヘイも、帰りたい気持ちがなかったかと言うと嘘になる。でも、この世界に触れてしまったのだ。この世界は、もうすでに自分の世界である。帰る、帰らないと言われても、もはやどちらが自分の帰るべき場所なのかすら、わからない。
この気持ちをどう言葉にすればいいのかも、わからない。
「あたしは帰りたい、みんな待ってるもの。あたしを待ってくれてる人達のために帰らなきゃいけないのよ。帰るためには何だってする、そのためには何だって利用してやる。あたしは、自分の望みは自分で叶えるわ、今までずっとそうしてきたもの、あなたみたいな意気地なしとは違う」
「何でもするって、それは、この世界の人を傷つける事も含むのか!」
コーヘイはあちこちで、彼女の暴言に傷ついた人がいる話を聞いていた。アリステア王子の愛を利用しての暴挙、それに伴う弊害。さすがにこれには反論したい。
「ここは悪夢よ、あたしにとって夢の中なの。夢の中で何をしようと勝手でしょ」
「違う!ここは夢の中じゃない!!この世界の人達だって、元の世界の人と変わらない。心無い言葉で傷つくし、怪我をすれば血だって出る。傷つけていいわけないだろう。多くの人が、貴女がこの世界で生きていけるよう、手を貸してくれたはずだ。迎え入れてくれた世界の人の気持ちを、自分の欲求だけを理由に無碍にするのか!」
コーヘイがこの世界で生きていく覚悟を決められたのは、この世界の人が迎えてくれたからだ。
心配しているであろう、元の世界の人達の事はもちろん気になる。
だがこちらの世界でも、自分を心配をしてくれる人が出来てしまったのだ。自分の事を思ってくれる人に、優劣を付けられるはずがない。
その後は罵り合いの応酬になってしまった。お互いが相手を傷つけあう、不毛な口論。コーヘイは、この世界に来たからには今、目の前にいる人を大事にしろと言う、ロレッタは自分の元の世界の人こそ大切で、この世界の事は知った事ではないという。
平行線だった。
「無能者はそうやって、この世界の人と、仲良しごっこをしていればいいわ!あたしは絶対この世界を好きになったりしない!帰れる方法が見つかった時に、後ろ髪引かれるなんて御免だわ!元の世界に帰る時に躊躇なんてしたくない!あたしは何があっても絶対に帰るのよ!あなたみたいになりたくない!!」
沈黙。
コーヘイは彼女の本音を聞き、絶句した。
ロレッタも、思わず叫んだ自分の言葉の意味に気付き、ハッとした。
叫び合った後の静けさ。
お互い言葉を尽くしてしまい、次の言葉が出てこない。ロレッタは、自分の中に渦巻く感情を処理できずにいた。泣き出しそうだ。でも彼女は絶対に泣かない、泣いたらすべてが決壊する。心の鎧も、身を護る刺も、全て失ってしまう。
「貴女はもしかして……」
コーヘイが、彼女の本質を言い当てようとした瞬間。
「もう聞きたくない!!!」
ロレッタはテーブルに置かれた、王子が使っていたロックグラスを手に掴むと、それをコーヘイに向けて投げつけた。
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