第3話 それはカラスの勝手でしょ
第一章
海から山へと進むうち、眼下の景色は藍色から緑へと変わっていく。
山々に沿い広がる緑の葉の連なりは、夏の太陽を受けふっくらと膨らんで見える。そこへ飛び降りたとしても、きっと柔らかく受け止めてくれそうだ。更に進むと木々の連なりがそこだけ途絶え、四角く緑が切り取られたような場所が見えてきた。空に向かってぽっかりと口を開けているようだ。その口の底にある地面は、薄暗い中に茶色く見えている。
(ちょっとあやしいけど、きっと何かがある)
そう期待して、急降下を始めたハシブトガラスのケア。
地面が近づいたところで速度を落とし、開いた口の間際に立っている木のてっぺんに降り立ち中を覗きこむ。
(アブナイ、アブナイ。いきなり飛び込むと恐い事が待っているかも)
狡猾なカラスが生き延びてこられたのは、こうした注意深さがあってこそなのだ。
じっくりと中を見回す。中には木が一本もない。
(あやしいなあ。でも、なんかうまいものがありそうだなあ)
地面には土が掘り起こされた痕があり、色が変わっている辺りには何か食べられるものがありそうだ。よく見ると、土の中から突き出ているモノがある。
こうした知らないモノに好奇心を持ってしまう、それがカラスの性分でもある。
注意しながらも留まっていた枝を離れ、ふわりと地面に降り立つ。そしてそろりそろりと掘り返された場所に近づく。
(この突き出てるモノは・・・。あれは魚のしっぽじゃないか。あー!やったね・・・)
とケアの気が緩み、近寄ったその時だった。
頭上から黒くて大きなものが、覆いかぶさるようにどさりと落ちてきた。
その気配をいち早く感じて、ケアは近くの枝まで一瞬で飛び下がった。
『出ていけ』
ケアはこの声を頭の中で聞いた。
そして見下ろすと、そこには自分の身体より数倍もありそうな真っ黒で大きなカラスが地面に立っている。驚いてじっと見つめると、そのオオガラスは羽を広げた。確かに大きい。そしてその足下には三本の脚があるように見える。
そのオオガラスは、大きく真っ黒な目でケアをにらみながらこう伝えてきた。
(二度とここに来るな。ここはお前の来るところじゃない)
そして広げた羽根を大きく羽ばたくと、枝に止まったケアに向かって真っ直ぐに突進してきた。
まるで目の前に大きな岩が迫ってくるように感じたケアは、
(うわあ、恐いよ。殺さないで)
力の限り羽根を振り、必死でこの場所から飛び上がって逃げ出した。
(三本脚のヤタガラスだ。ホントに大きくて怖いなあ。でも美味しそうなものを独り占めなんてひどいよなあ)
羽ばたきを続けながら首を回して振り返った。あのオオガラスはその空き地の脇の枝の上に留まりこちらを睨んでいる。でもそれ以上は追ってこないようだ。ケアはとりあえずこの場所から離れようと、羽根をより大きく振って飛び去った。
逃げたカラスを見送ったオオガラスは、枝から地面にすとんと降りた。
しかしその目には先ほどの迫力はもうない。大きく息を継ぎながら、カラスが飛び去った空を見上げる。真っ黒な瞳の中に青い空が映っている・・・。
第二章
三石正三は、生まれ育った福島県双葉町へ向け車を走らせていた。
ここ双葉町は五年前に起こったあの大震災の後、原子力発電所の事故のため吹き飛ばされた放射性物質をあたり一帯浴びてしまった地域である。あれから五年が経つ今も、帰還困難地区と指定され立ち入りが厳しく制限されている。元々の住民だけに許されている自宅の見回りの許可を受け、自動車で実家へと一人で向かっている。車内の助手席には、先ほど通過した検問所で貸してもらった白い放射線防護服が一揃い置かれている。
検問所からここまで進んで来て正三は思い出した。この辺りは二十年以上も前、毎日高校へ自転車で通っていた通学路だった。懐かしい思いはするのだが、あの頃より住宅や歩道は整備されているようにみえる、しかし何かしっくりこない感じがしていた。ここまで走ってきてその違和感の理由が分かった。
検問所からここまでまるで自動車の往来がなく、ましてや誰一人として人に出会っていないのだ。それに、道路や歩道のアスファルトの隙間からは草が伸び放題になっている。よく見ると時々見かける住宅の周りや庭にも、雑草が伸び放題になっている。
正三はこの町の高校を卒業し、東京の大学に進んで以来この地に戻っていなかった。就職した商社の仕事で世界中を回っていたことも、故郷と疎遠になった原因だろう。
実は正三には大きな変化がその後にあった。
赴任中の東南アジアで急性の脳梗塞を発症した。現地の病院に緊急入院して手術を受けたのだが、その術後の手違いで思いもかけない能力を身につけたのだ。なんと動物が考えていることが分かるようになった。そして頭の中でその動物に語りかけると、その動物も正三の言葉を理解出来たのだ。全く不思議な能力である。
そんな不思議な能力を持っていることをどこで知ったのか、ある機関が正三に接近してきた。それは絶滅生物研究所ESIと呼ばれる研究機関だった。正三はその機関からの申し入れを受け研究員となった。それ以降数年にわたり研究所の指令を受け世界各地に派遣され、現地で出会う野生の動物たちとかなり奇妙な体験をしてきた。
そんな正三は研究所の仕事が一段落したところで休暇を取り、久しぶりの帰郷をしたのだった。正三の父は福島県双葉町で中学校の教員をしていたのだが、あの原発事故の避難命令で親戚のいる郡山へと母と共に疎開していた。そして同じくこの郡山の仮設住宅に非難している子供たちを対象とする特設の小中学校で教員をしている。あれから五年が経過するが、一向に双葉町へは帰還できないでいた。
しかし最近になって日帰りのみと言う制限付きだが、一時帰宅が許可されるようになった。そこで父は久しぶりに帰って来た正三に、双葉町の自宅へ戻り保存してある生徒たちの資料を持ち帰ってくれるように頼んだのだった。
検問所までの道路際には、除染作業で詰められた放射性物質汚染土の黒いパックが山積みされていた。外見は黒くて大きなプラスチックの袋であるこのパックは、いつまで経っても増え続けているという。それに引き換え検問所から先にはこのパックの山が見られなくなっている。この辺りは除染作業さえ進んでいないようだ。
少し先の道路では、一頭のイヌが歩き回っている。何か食べられるものが落ちていないか、あちらこちらへと顔を向けながら見回っている。
そのイヌは茶毛の柴犬で、六才ほどになるオスである。子犬のころは人の飼い犬で、ジョンと名付けられていた。しかしある日突然飼い主ばかりでなく、周辺のすべてのヒトがいなくなってしまったのだ。
それ以来ジョンはこの辺りを一匹で歩き回り、食べ物を見つけて生き延びてきた。
(今日も食べるものが見つからないなあ。お腹がすいて目が回りそう)
その時遠くで、以前には聞き慣れていたのに最近はめったに聞こえなくなっていた音が聞こえてきた。
(ご主人のお帰りの音だ。急げ)
ジョンはその音のする方向に走り出した。
突然、正三が走らせていた車の前に一頭の茶色い柴犬が走り出てきた。正三は慌てて車を停めた。
そのイヌは車の前でぴたっと立ち止まると、そのままじっとこちらを見つめている。運転している正三を見定めているようだ。そして正三が車から出て来るのを待ち受けているようだ。よく見るとそのイヌの首輪は汚れていて、痩せているせいかだぶだぶで今にも抜けそうである。
正三は心の中で語りかけてみた。
「どうした。お前はここでナニをしているの?」
頭の中に聞こえたその声に驚き、周りを見回すイヌのジョン。周りには誰もいない。
「だれだ。他にイヌはいないぞ。どこだ」
「私は車の中だよ」
と、正三は運転席のウィンドウを降ろして、顔を外に出して見せた。
「なんだヒトか。なんでお前の言葉が分かるの、変だなあ。でもまあいいか、
なんか食い物持ってないか?」
ジョンは少し腰が引けながらも、正三に食べ物を求めた。
正三は助手席にあるビニール袋の中から、先ほどコンビニで昼食用に買っておいたウインナードッグを取り出した。袋から出して窓の外に突きだし、
「こんなもんでも食べるかい」
と振って見せた。
ジョンはじろりと手元を見つめたが、警戒しているのかそのままの姿勢で見つめている。正三はイヌが欲しがっているのは分かったので、ウインナードッグを道路の上に落とした。ジョンは素早く近寄りそれをあわてて咥えると、すぐに横にある民家へ向かって走り出そうとした。しかしすぐに立ち止まるとふり返り、
「いただくよ。あんたも気をつけろ。あいつらがすぐにやって来る。怖い奴らだよ」
そう正三に話しかけると、すぐに家の裏手へと走り込んでいった。
あっけにとられた正三がドアを開けてそのイヌを追いかけようと思ったその時、前方の畑地から何かが道路へ飛び上がって走ってくるのが見えた。
それは五頭のイヌたちだ。車の前まで来たイヌたちは先ほどのイヌとは少し様子が違っている。首輪をしているのは三頭だけで、そのうちの一頭のシェパード犬だけは体格も良く毛並みも悪くないが、他の四頭は体毛のケアをしていないのかみんなぼさぼさの毛並みをしている。シェパード以外はどの犬も雑種のようだ。目つきが険しい白と黒のブチ模様の一頭は、口の周りが不気味に赤い。五頭のイヌたちは今にも飛びかからんばかりの体勢で正三の車を囲んだ。
正三は降りかけていた車の運転席にあわてて戻り、ウインドウを素早く閉めた。座ったまま様子を見ていると、シェパードが近づいて来た。そこで立ち止まると周りを見回す。そして鼻先を道路に落とし匂いをかぎ始めた。そこは先ほどウインナードッグを放り落とした辺りだ。周りを見まわし鼻先を宙に向ける。走り去ったイヌの行った先に顔を向けた。そして小さくうなると、その方向へ走り出した。残りの四頭もすぐにその後を追って走り去った。
今度は声をかけるタイミングを正三は失っていた。このイヌたちは何を考えているのかがとても分かりづらかった。どんな動物とも話が出来るわけではないのかと気づいた。
それというのも、正三は商社員として世界をめぐっているとき脳梗塞の病気を患った。現地で開頭手術を受けた際、手違いで脳の中に微小な針金が置き忘れられたまま頭が閉められてしまった。それ以来、その針金がアンテナの役割をするのか、脳波で相手とコミュニケーションが取れるようになっていた。言葉を発しなくても相手の意思を感知できるようになったのだ。最初にそれが分かったのは病室の横を通りかかったネコだったのだが。この能力を見込まれて、それまで勤めていた商社を辞め、現在の絶滅生物研究所の研究員として様々な動物たちと会話をしてきたのだ。
しかし相手がコミュニケーションを求めなければこの能力も使いようがないようだ。
その時、『キャイーン』と大きな声が聞こえた。
その声はイヌたちが走り込んでいった家の裏手から響いてきたようだったが、その後は聞こえなくなった。何となく想像はつくが、具体的なことは知りようもない。
正三はあきらめて実家に向けて車を走らせた。
第三章
正三は車を走らせ双葉町の実家に到着した。
建物自体はしっかりと立っているようだ。しかし二階の窓ガラスが数枚割れている。あの地震で割れたのだろう。それほど大きい被害ではないように見える。
玄関の錠はしっかりかかっていた。持ってきた合鍵で扉を開け中に入る。かび臭い匂いがする。あの地震の時に倒れたのか靴箱の上にあった人形が土間に落ちたままになっている。地震の後すぐに原発事故が起き、慌てて避難した様子がうかがえる。廊下にはうっすらとホコリが被っていて、そのまま靴を脱がずに上がった。
玄関横の書斎に入り、父親に頼まれた書類を探す。きちんと整理されていてすぐにそれと分かった。その書類を袋に入れていると、『ゴトリ』と二階から何かが床に落ちたような音が聞こえた。
廊下へ出て玄関の横に回り、階段を上がろうとした。しかし薄暗い階段の上から何か強い視線を感じて、正三は立ち止まる。階段上の上がりがまちを見上げた。
そこに黒いモノがあるのが見える。初めは黒い人形が立っているように見えたのだが薄暗い中で目をこらすと、その黒いモノが少し動いた。顔とみられる辺りに黒く長いものが現れる。その上に丸いものがあり少し光って見える。それは鳥のくちばしと目、それもこの黒さには見覚えがある。
それはカラスだ。と気づいた時
(まずい、ヒトだ)
正三の頭の中で、そのカラスが驚いているのが分かった。このままだとばたばたと騒がれそうだ。カラスの気持ちを鎮めようと
「落ち着け、私はヒトだけど何も恐くないよ」
正三はそう話しかけてみた。
「?」
カラスのケアは身体が硬直するのを感じた。しかし気を持ち直しヒトに話しかけてみる。
「あんた話ができるの?おいらの頭の中で考えてる事が分かるのか?」
正三は驚いた。このカラスはしっかりと話ができる。今までは相手の動物の考えを読み取るのに苦労したのだが、こんなに対話できるほどの動物と会うのは久しぶりだ。
「お前の気持ちはわかるよ。ここで何をしているの」
「上の穴から中に入れたから、ここをねぐらにしてるんだ。あんたはだれ」
「ここは私の家だ。前はここに住んでいた」
それを聞いて、ケアは慌てて奥の部屋へ走り込んだ。
正三が追いかけて階段を上がり部屋に入ると、窓のガラスが割れているところを無理やりくぐってカラスが飛び出していくのが見えた。
正三は驚いた。これまでも他の動物と話をしたことはあったが、皆ほ乳類だった。人間もほ乳類の一種だから、脳の作りが似ていて話もできたのだろう、そう理解してきた。しかし今、鳥類であるカラスと話ができた。それもかなり鮮明に意思を感じられた。改めて自分が持ったこの能力を恐ろしく感じる。
正三はあることを思いだした。
それは以前アフリカで、ある組織の人物と合ったことだ。その組織は活性脳波研究所ABIと名乗り、動物のコミュニケーションを研究している機関であった。究極的には人間の考えていることを脳波から察知する、いわゆるエスパーになれる方法を開発している機関だと、その時会った人物から聞かされた。
正三はアフリカで不思議なシマウマと遭遇した。行方不明の動物たちの捜索を依頼されて探しているときだった。そのシマウマと正三はひょんなことからコンタクトする機会があり、かなりはっきりとコミュニケーションができたのだ。その以前にもボルネオで、同じようにオランウータンと確実にコミュニケーションができたこともあった。
そのどちらの動物にも脳波の増幅器が埋め込まれていたのだ。その時ABIのエージェントからコンタクトがあり、詳細までは教えられなかったが、その組織では研究のために様々な動物に対し脳に増幅器を埋め込む実験が行われていると知らされた。
正三は彼らの研究対象に今のカラスも入っているのではと感じたのだ。
(あーびっくり。あんなに話が出来る人間は初めてだ)
ハシブトガラスのケアは、慌てて家から逃げ出し、とりあえず空に飛び上がって考えた。
(あのねぐらに人がいるなんてびっくりだ。このあたりでは人間に滅多に会わないのに。あそこが自分の家だと言われたのには驚いたなあ)
ケアたちカラスにとって、他のカラスの縄張りを侵すことは重大なルール違反であり、このルールを破ると手痛い反撃を受けることになる。そんな恐れからあの家を大慌てで飛び出してしまったのだ。
落ち着いて考えると、あのヒトは優しそうに話しかけてくれていた。それにあんなにはっきりとヒトと話ができたのは初めてだ。
(もう一度あのヒトに会って話をしてみたいな)
ケアはそう思うと空中で方向転換し、今出てきた家の近くの電柱の上に止まった。
あの人間にまた会えるか様子を見ることにした。
正三は父親から頼まれた資料をかき集め、部屋の中にあった父のカバンに収めた。
これで当分はここへ来る理由はなくなる。それでなくても放射能汚染による立ち入り制限区域なのだから、もう来ることはなくなるかとも思う。家の中を見回って大きな異常のない事を確認した。これで郡山の父の元へ帰ろうと思うが、しかしさっきのカラスはとても気になっている。もう一度ここへ帰って来ることを何となく予感した。
ケアは電柱のてっぺんに止まって、あのヒトが出てくるのを待っていた。
その時電柱三本ほど向こうの道を、何かがこちらへ走って来るのが見えた。
一頭の犬が必死で走ってくる。そしてその後ろのほうから何頭もの犬が追いかけている。
カラスのケアにとってイヌは身近だが無関係の動物である。こんな時は災いが降りかからぬようその場を離れるべきだ。しかしカラスならではの好奇心が湧いてきてしまった。ケアはもうしばらくの間、安全な電柱の上からこの騒動を観察することにした。
第四章
柴犬のジョンは必死にここまで逃げてきた。
なぜか言葉がわかるへんなヒトから運良く食べ物をもらえたのに、またあいつらが嗅ぎつけて追いかけて来た。ほんとに嫌な奴らだ。
前はあいつらにもそれぞれに飼い主がいた。そしてこの辺りで急にヒトが消えた後も、しばらくはそれぞれが自分の食べ物を探す生活をしていた。
でもあの強そうなイヌ、ジョンはそいつを勝手に『ガルル』と呼んでいたのだが、あいつがこの町にやって来てから事情が変わってきた。
シェパードのガルルは自分より弱そうなイヌを見つけると、猛然と追い詰める。そして大きな牙を見せつけて唸り声を上げる。これには大抵のイヌはビビってしまう。そしてすぐに地面に身体を伏せ、相手に腹を見せて服従の姿勢を取ってしまう。下手に戦って怪我をしたくはないのだ。中にはプライドが許さず立ち向かったものもいたのだが、ガルルに一瞬で組み伏せられ首根っこを咬みつかれて痛い目にあった。
もともとイヌ達は仲間と一緒に行動することを厭わない。いわゆる群れを作る。そしてその群れの中で力量に合わせた順位が付けられていく。この順位をもとに集団行動が統率されていく。これはオオカミなどイヌたちの祖先も持っている習性である。
ガルルは瞬く間に群れを作りそのリーダーとなった。今ではこの辺り一帯にいる大抵のイヌはガルルの配下となっている。
ジョンも何度かガルルに威嚇された。でもなんとなく好きになれず服従するふりはしてきたが、なるべく行動は共にせずガルルから離れているようにしてきた。
ところが今日は、せっかくおいしい食べ物を手に入れたところで見つかってしまった。陰で食べようとした矢先にガルルが現れた。そして食べ物を強引に奪い取ると、さっさと食べてしまった。一緒に来ていたほかの四頭はおこぼれを期待していたのだが、少しばかりの食べ物では皆に回ってはこなかった。その腹いせに一頭がジョンに吠えかけ、前足に噛みつかれてしまった。食べ物を横取りされて腹を立てていたジョンは、反射的にそいつに反撃をした。また噛みついてきた相手の口元をかわすと、その鼻先を思いきり噛みついてやったのだ。そのイヌは悲鳴を上げながら後ろへ飛び下がった。その時それを見ていたガルルが唸り声をあげた。
「なにをしやがる。お前は下っ端のくせに逆らうのか!」
頭の中で、確かにそう聞こえた。
(なんだ?こいつ、おいらの頭の中で声がしたぞ)
ジョンは驚いた。ガルルはただ力が強いだけの乱暴者と思っていたのに、こんな力もあるのか。
「俺に逆らうと痛い目にあうぞ。無駄に暴れないで俺の手下になれ」
ガルルはそう伝えてきた。
ジョンは
「なんだよ、さっきはヒトとしゃべって驚いたばかりなのに、次はお前か」
「何だとお前、ヒトとしゃべったのか。どこでだ?」
とガルルがひるんだ隙を見逃さず、ジョンはそこを走って逃げだした。
正三は父親に頼まれた資料をすべて鞄に収め、玄関から外に出ようとしていた。その時外で音がした。うなり声と悲鳴のような動物の声。
ゆっくりと玄関の戸を開けてみると、家の前の道路でそれは繰り広げられていた。
一頭のイヌを四頭のイヌが囲んでいる。近くには一頭のイヌが腹ばいになって、鼻先を真っ赤に染めている。
囲まれているイヌは、さっき出会った柴犬のようだが右前足から血を流している。口元の毛には赤い血がこびりついているようだが、これは相手を攻撃した時の返り血か。
四頭の中でも一番身体が大きく筋肉隆々のシェパードが、柴犬の方へゆっくりと向かっていく。威嚇を越えて戦闘モードに入っている感じだ。
とうとう囲まれてしまった柴犬のジョンはうんざりしている。一匹で食べていくだけでも大変なのに、こんな傷を受けたくなかった。
噛まれた前脚は血がまだ止まっていない。こんな事になるのが嫌で、彼らには出くわさないようにしてきたのに。
「こんな喧嘩は辞めようよ」
ジョンはガルルに話しかけた。
「これじゃどっちも傷つくばかりだ。誰のためにもならないよ」
「うるさい。俺の言うことを聞け。」
ガルルは、ジョンの言い分を聞く気はない。
「痛い目に会う前に聞かせろ、お前はさっきヒトと話をしたといった。それは本当なのか」
「ああそんなことか。さっきお前が横取りした食べ物は、そのヒトがくれたもんだよ。」
「そのヒトはどこにいる」
「多分その辺にいるよ。あの時のハコがそこにあるから」
と止まっている自動車を振り返ったジョンは、家の前でこちらを見ているヒトに気づいた。
「あいつだよ!」
ジョンはガルルに鼻先で示した。
ガルルもそちらに顔を向ける。こちらを見ているヒトがいる。じっとその顔を見ると思い出した。少し前に出会った、箱の中に逃げたヒトだ。
すぐ近くの電柱の上でカラスのケアもこの様子を見ていた。
(あ、あのヒトが出てきた。何かしてくれるのかなあ)
正三は犬たちのやり取りに驚いた。
さっきのカラスだけでなく、今まさに襲おうと威嚇しているこのシェパードもしっかりとした会話をしている。さっき少しだけ会った時にはそんなそぶりも見せなかったのに、今は相手の柴犬と話をしている。あの柴犬ともさっきは話をしたが、こちらの意思を伝えるだけが精一杯だった。しかし今話をしていたシェパードは、相手から情報を聞き出そうとしている。この能力には驚きだ。
一般に人間以外の動物のコミュニケーション能力は、一方的なことが多い。自分の意思を相手に伝えようとはするのだが、ほとんど相手の意思は聞こうとはしないのだ。
『おれはここにいるよ』
『私は食べてる』
『おれはお嫁さんを探しているよ』
『私は子供が居るから近寄らないで』
等々、自分の意思を一番に伝えようとする。
それがこのシェパードは相手の知っていることを聞き出そうとしているのだ。
その会話の内容を理解している自分自身も不思議な感覚ではあるのだが。
正三は思い切ってこの会話に介入してみる。
「私に用があるのかい?お前たちの話は分かっているよ。喧嘩はやめなさい」
正三の声が聞こえてシェパードのガルルはびっくりした。こんなにはっきりと頭の中に声が届くヒトと出会うのは初めてだ。ガルルは警戒心を強めた、このヒトは敵なのか味方なのか。
「またあんたか。あんたに貰った食い物は、こいつに盗られちゃったよ」
「あんなもんならまだあるから、欲しけりゃまたやるよ」
正三は睨みつけてくるシェパードを警戒しながら、柴犬と話し始めた。
「おまえはあいつに襲われているのかい?」
「ああ、おれは戦いたくないけど、こいつはそうじゃないみたい」
「私に出来ることは何かあるか?」
「うーん。よくわからないよ」
そんな話し合いをしていると、ガルルが話に加わってきた。
「おい勝手に話し合うな。ヒトのお前、なんでお前はそいつと話が出来るんだ」
真っ直ぐ正三に向かって近づいてきた。
「おまえこそ、どうしてそんなに話が出来るんだ?さっき会った時にはそんな事が出来るとは気づかなかったぞ」
電柱の上でこの様子を見ていたカラスのケアには、少し距離があるせいか話の内容がはっきりとはわからなかった。もっと聞きたくてふわりと飛び降り、正三たちの側に近寄った。
正三はここで冷静になった。
「私はショウゾウという名前だ。お前に名前はあるのか?」
横から柴犬のジョンが入り込む。
「おいらはジョン。逃げちまった飼い主が付けてくれた名前だ。」
「お前は黙ってろ、こいつとおれの話し合いだ。」
とガルルは視線をショウゾウに戻して
「おれが居たイエの中では、おれはドッグワンと呼ばれていた。イエの中にいたヒトはお前みたいにペラペラと話をしてくれなかった。でもおれのことをドッグワンと呼んでいるのは分かっていた。」
「そのイエとは何のことだ?どんなヒトだったんだい?」
するとジョンがこの話に割って入る。
「おれはこいつのことガルルって呼んでる。うなり声がいつもそう聞こえるからね」
「そうかガルルか、私もそう呼ぼう。じゃあジョンはどうしてここに居るの?」
「少し向こうのイエがおれの住処だ。そこのヒトに飼われてたんだ。でもだいぶ前、地面がぐらぐらと揺れたすぐあと、飼い主たちは急に居なくなっちまった。それからずっと帰ってくるのを待ってる」
ジョンにとってはこんなに自分の過去の話をするのは初めてのこと、飼い主と居た時でもこんなに話し込んだことはなかったのだ。だんだん頭の中がくらくらしてきた。たまらず座り込んでしまった。
「馬鹿なヤツだ。おとなしくしてりゃあいいもンを」
とガルルが正三に顔を向けた。
「おれはこいつとは違う。今も何回かヒトとは会ってる。」
「そのヒトというのはそのイエの中で会っていたヒトなのかい?」
「そうだよ。ここへ来てからも、そのヒトが会いに来てる」
シェパードのガルルは何故か正三に自分の話を始めてしまった。
「そいつのことは、ゴシュジンって呼んでるがな」
「それはガルル、今のお前の飼い主なのか?」
「まあな。時々食い物なんかは貰ってる。でもゴシュジンと会うのはその時だけだ。その時はおとなしく座ってないと、せっかく貰った肉さえも取り上げられる」
「ガルルは他のイヌとは違うようだな。そのゴシュジンはどこにいる?」
と正三が聞き出そうとすると
「なんでお前にこんな話をしたんだろう」
ガルルは我に返って、正三に警戒の姿勢をとった。これほど感情を込めて話をしてくれるヒトに初めて会ったせいだろうか、つい警戒心が薄れていた。
近くの垣根の上に居たカラスのケアも同じように感じていた。
(このヒトは普通じゃないな。おいらもいろいろ話したくなってきた)
正三はもう少しガルルのことを知りたかった。
しかしガルルは気を許したことを反省した。正三をしっかりと睨みつけ、戦闘モードのスイッチを入れた。ガルルの目に残忍な光が灯った。
見ていたケアも嫌な雰囲気を感じ取った。これはまずい。
その時、正三の家の向こうから大きな音が響いてきた。そして屋根を飛び越すように小型のヘリコプターが突然姿を現し、低空飛行のまま道に沿って先へと進んで行く。
『ピピピー』なにかの信号のような音が聞こえる。その上正三はガルルの首輪の一部が光っているのを見た。どうやらその音もガルルの首輪から発せられているようだ。
ガルルは一瞬嫌な表情を見せたが、くるりと向きを変えヘリコプターが去った方向へ走り出した。ジョンに鼻先を噛まれ座り込んでいた一匹以外の三匹のイヌたちも、ガルルを追って走り出した。
第五章
正三はあっという間に取り残された。ガルルに理由を聞く間もなかった。
その足元へカラスのケアが舞い降りてくると、正三の目を見つめる。
「あんたは本当に話が出来るんだなあ」
正三はそれがさっき家の中で出くわしたカラスだと分かった。
「お前はさっきのカラスだね」
「あんたはショウゾウっていうんだろ、さっき聞いてたよ。おいらの名前はケア」
「ケア?」
「おいらの鳴き声はヘンなんだって、ケアって聞こえる。だからケアなんだって」
「そうなんだ。ところで今のガルルっていうイヌのこと何か知ってる?」
「ああ、あいつとおいらは同じヒトに連れてこられた」
「どこから連れてこられたんだ?」
するとしゃがみ込んでいたジョンが
「あれこのカラスも話が出来るの?どうなってるの」
と、割り込んできた。ケアは驚いて飛び上がる。
正三は話の腰を折られてしまい、しかたなく座り込んでいるもう一匹のイヌに向かう。
「おまえはガルルと一緒に行かないのか?そんなに噛まれたとこが痛むのか?」
そう真っ直ぐに聞かれたイヌは驚いて後ずさりする。
「こいつが先にかかってきたんだ。そんなにひどく噛んでないよ」
ジョンは自分のせいじゃないと言い訳をする。
正三は近づいてそのイヌの顔を見る。鼻先に流れ出た血は噛まれている傷からではなく、鼻の奥から一筋流れ出ている。いわゆる鼻血のようだ。
「その鼻血はどうしたんだい?」
優しく聞く正三の態度にそのイヌは心を許した。
「あいつに噛まれたとこはそんなに痛くない。走りたいけど身体が動かない」
そのイヌは答えた。
「おいらも同じだよ。走りたいのにまるで身体が動かないことがある。前はこんなんじゃなかったけどね」
ジョンも同じように元気がなくなる時があるという。
正三はそれを聞いて、単なる栄養不足だけが原因ではないような気がした。父親に頼まれてこの地域に入って来たのだが、その時に聞いた話がある。かつてこの地域一帯に降り注いだ放射能の影響だ。不用心に放射線に晒されると体調不良になり、何でもない時に鼻血が出ることがあるという。放射線のまだ未確認の症状だ。犬とは言え人間と同じ哺乳類の仲間、同じような症状が出てもおかしくない。
近くの元学校の校庭に向けてヘリコプターは降り始める。走り出したガルルたちは、そのヘリコプターを追いかけた。
校庭に着陸したヘリコプターから人が一人降りてくる。手に荷物を持っている。
そのヒトの前にガルルは歩き寄る。他の三匹は少し離れた場所で見ている。
袋から出した肉塊をガルルの前に落とす。ガルルは腹ばいになってその肉を食べ始める。するとそのヒトは、ガルルの首輪から何かSDカードのようなモノを抜き取り、また別のモノを差し込んでいる。
ガルルはこれをゴシュジンが欲しがっているのを知っている。
そのヒトは、ガルルの首輪に着いている小さなスイッチを押すと立ち上がり、さっさとヘリコプターに乗り込み飛び去った。あっという間である。
ガルルは肉塊を半分ほど胃に収めると立ち上がり、近くの校舎の陰に入り込み座り込んだ。そして身体を舐めて毛づくろいを始めた。
(ゴシュジンはどうしても好きになれない。さっきの話が出来るヒトと、もう一度会わないとなあ・・・)
そう思っていた。
ガルルが肉片から離れたのを見て、残っていた三匹のイヌたちは素早く走り寄り残った肉を食べ始めた。
第六章
カラスのケアは、ショウゾウの家の屋根の上に止まって考えていた。いつのまにかあのショウゾウというヒトを好きになっていた。
カラスにとって好きか嫌いかは、毎日の生活の中でとても大切な判断材料だ。自分の思いより相手が自分をどう思っているかで、餌場(往々にして人間のゴミ置き場)での行動が決まってくる。相手が自分を好きでいてくれれば、後から餌場に入って行っても食べ物にありつける可能性は高い。しかしこれが違った場合、少し近づいただけで大きな鳴き声を上げられ威嚇される。その上何かで相手の機嫌を損ねようものなら、上空を通過しただけで突進され追いかけられる羽目になる。カラスにとって好きか嫌いかは大切な判断基準になる。
ケアは昨日のショウゾウとの会話を思い出していた。
ガルルたちが走り去った後、正三は残った者たちの健康状態を聞いた。そのあと、正三自身はとりあえず遠くのイエに帰ると言っていた。ガルルの言っていた『ゴシュジン』が気になり、正三はもう一度ここへ戻ってくる事になりそうとも言っていた。
「私は近いうちにここへ戻って来る。その時は君たちのことをもっと詳しく聞きたい。戻った時にはどうか私を覚えておいて、きっと集まってくれ。頼むよ」
こう正三はケアとジョンに告げて去って行った。
カラスのケアは、そう語りかけたショウゾウのことが大好きになったのだ。
(本当に帰ってくるかなあ?あの様子ならきっと帰って来るね)
そう自分にも言い聞かせた。
しかし正三が去った後、残ったジョンともう一匹のイヌはなんだかカラスのケアに対して素っ気ない態度を取りだした。イヌたちはそれまでのように、カラスとは出来れば近づかないで距離を置いた方が良いと決めたようだった。
「ジョン、どうしたの?」
と呼びかけてみたのだが、ちらりと一度はこちらは見たものの、さっさと歩き出しそのまま去ってしまった。
(ショウゾウがいないと話は出来ないのかなあ?残念)
ケアはそう思った。
そしてケアは、食べるものを探して飛び回るいつもの生活に戻った。
ハシブトガラスは本来森に住んでいたカラスである。よく似ているハシボソガラスは、枝が入り組んだ森の中は苦手で、河川敷や野原、畑など開けた場所を住処にしている。
ハシブトガラスはだんだんとヒトの生活圏、特に都市部へと進出した。その最大の原因は、ヒトの生活圏に出来たゴミ集積所ではないかと言われている。元々の記憶力の良さは、ヒトが定期的にゴミを外に出す場所や時間を把握するのに役立った。
そしてビルが立ち並ぶ都会の構造は、カラスが飛び回るのに適した空間を作り出している。それまで得意としていた森の中の空間移動と同じ感覚がある。ハシブトガラスとハシボソガラスはこうして生活の場を別々に選び、それぞれが生き残ってきた。
ケアがこの双葉町に放されたのは、大きな失敗であったようだ。農地と住宅ばかりのこの地域は、ハシボソガラスの生活場所だった。そこへただ一羽ハシブトガラスのケアが連れてこられたのだった。
最初の頃、ケアはあまり気にしていなかった。
ケア自身は都会の中の、高圧線を中継している塔の途中に親鳥が作った巣の中で卵から出てきた。ひと月後には他の二羽の兄弟と共に巣立ちを果たした。
そしてまたふた月もした頃、親から自立して自分の食事場所を探している時に、餌でおびき寄せられヒトが仕掛けたワナに捕らえられてしまった。その後は他のカラスとの交流がないまま、ヒトの元で暮らすことになってしまった。その場所でもいろいろあったのだが、やがてこの町に放された時には、ハシブトガラスもハシボソガラスも見分けがつかなくなっていた。
放された直後、偵察もかねて町の上空を飛び回っていると、大きな川の河原にたくさんのカラスが集まっているところに行き会った。やっと同じカラス仲間に会えたと嬉しくなって鳴き声を上げて近づいた。すると河原のカラスたちは一斉に鳴き声を上げ始めた。最初は良くわからなかったが、どうもこのカラスたちの鳴き声はケアのそれと調子が違うようなのだ。少し距離を取った場所に降り立ち、鳴き続けるカラスたちの方を伺っていると一羽が低空飛行でケアに接近した。そしてケアの頭上でホバリングし、また鳴き声を上げてきた。
「よそ者は出ていけ」
そう聞こえる。そこでケアも鳴き声を上げて答えた。
「おいらはここに来たばかりなんだ。仲間に入れてよ」
「変な声のヤツだなあ。おまえはやっぱりよそ者だ。出てけ」
そう言うと、河原のそばの林へと飛んで行く。それにつられるように、河原にいた二十羽あまりのカラスたちも林の方へと飛び立った。
ケアはもう少しお近づきになろうと、カラスたちが移動した林の近くの一本だけ離れた木の枝に止まった。そこでもう一度彼らにお願いしてみた。
「仲間に入れてよ」
「ここはわたしたちのねぐらなんだ。あんたは私たちとは違うんだから、これ以上近づかないでくれ」
林の中で休んでいたカラスに、そう厳しく断られてしまった。
ハシブトガラスとハシボソガラスは人間から見るとほとんど見かけは同じだ。しかしよく見れば、くちばしの形や額の膨らみなど違いは確かにある。そして鳴き声も、身体の大きさがわずかに違いくちばしの大きさも違うからか、音質や響きが違う。
ケアはこの時に出会ったカラスたちが皆自分とは違うのだと感じ、仕方なくその河原を後にした。
それ以来ケアは食べ物探しをする時には、なるべく森の中に入るようになった。森の中へはあのカラスたちが入ってこないからだ。
第七章
柴犬のジョンはケアやショウゾウと分かれた後、一㎞ほど離れた自分のイエに向かって歩いていた。
同じ種であるイヌや、今までに付き合ったことのあるヒトと接することにあまり抵抗はないが、あの騒々しいカラスとはどうも付き合いづらい感じがする。
あのカラスには別れ際に呼び止められたが、聞こえないふりをしてさっさと帰ってきた。あいつに引っかかり面倒になるより、自分のお気に入りのイエに戻った方が良いと思ったのだった。でも帰ったところでそこにかつての飼い主はいない。ただ自分のねぐらはそこだと決めていた。飼い主の顔をそろそろ忘れかけてはいるが、家の裏手にある飼い主が作ってくれたハウスとその中にある使い慣れた毛布は心を落ち着けてくれる。
イエに戻りながら少し気になっていたのが、ジョンの後をとぼとぼと歩いてくるイヌのブチだ。先ほどジョンが脚を噛まれたあのイヌだ。走り去ったガルルたちに取り残されていたあの一匹は、何とか立ち上がり歩き出したジョンの後を追ってくる。どこまでも付いてこられジョンは少しいらいらしていた。角を曲がりブチが見えなくなったところで立ち止まり、待ち伏せの体勢を取った。
(おいらを襲うつもりなら、ここで逆襲してやっつけてやる)
と身構えた。
角を曲がってやって来たブチは、そこに思いがけず立ち塞がっているジョンと鉢合わせとなり、驚いて立ち止まった。ジョンは尾を尻にくっつけて下げ、牙を見せて低くうなり声を出す。威嚇モードに入った。するとブチは細かく尾を左右に振り始めた。そして身体を低く下げたままゆっくりとジョンに近寄る。そしてジョンの目の前で寝転び腹を見せた。こちらは完全に服従モードだ。
(なんだこいつ。急に態度が変わったぞ)
ジョンにとってこの行動は本能で分かる。この姿を見せられた相手は、攻撃心が全く押さえられてしまう究極のスタイルなのだ。
ジョンの威嚇モードが消されたことを確認したブチは、立っていた耳を下げて低い姿勢のままジョンにすり寄り口の周りをぺたぺたと舐め始めた。
(あんたの手下になります。仲良くしてね)
ブチはこうしてジョンの手下となった。ガルルへの服従とは少し違った感覚がある。力で押さえ込まれ恐怖で従っていたのとはまるで違う気がしたのだ。
飼い犬たちは、いつもはヒトとの関係の中でこうした主従の絆を作っている。しかし先祖であるオオカミなどは、近くにいる同じオオカミたち(兄弟やいとこなど)との間で接触しながら絆を持つ。そしてそれぞれの個性の中で、好きなタイプ・嫌いなタイプ・苦手なタイプなどを理解しながら縦の関係を作っていく。現代の飼い犬たちの心の奥にも、こうした仲間関係を結びたいと望む気持ちは十分に残っているようだ。
あの時からジョンとブチは連れだって行動することになった。今日も食べ物を探す見回りに出たジョンの後をブチが付いて歩く。ブチは少し体調が良くないようで、さっさと進んで行くジョンに後れを取ることになる。するとジョンは何かを見つけたふうに立ち止まり、ブチが追いつくと様子を見てまた進む。そんなジョンの気を遣った行動にブチは余計に好感を持った。
しかし何度目かにジョンが止まったのは、ブチを待つためではなかった。
妙な地響きがするのを感じ取ったからだ。飼い主がいなくなった時に起こった地面が揺れるあの感じではない。あの大きな揺れがあった後も何回か揺れは起こった。しかしジョンはその揺れにはだいぶ慣れた。あの揺れは少し経つと何事もなかったように静かになる、だからもうそれほど恐いものとは思わなくなっていた。
しかし今感じている揺れはそれとは違っている。次第にどどっ、どどっと音が迫ってくる。後を追いついたブチに道の端に寄るよう促し、ジョンは身構えた。
かつては田んぼだった草原の向こうにある林の間から、それは飛び出してきた。
六頭のウシが草原へ全力で走り出てきた。茶色のウシたちだ。先頭の角の大きな一頭以外はどれもおおきな乳房を持ったメスウシたちだ。中に一頭子ウシもいる。まだ生後数ヶ月しか経っていないのか、大人ウシの半分くらいの大きさしかない。大人たちに遅れ気味だが必死で走っている。角の大きなオスは他のメスより大きな身体をしている。肩の筋肉が盛り上がっていて強そうだ。
このウシたちはかつてミルクを取るためヒトに飼われていた乳牛たちだ。あの震災の後、牧畜農家の人間たちにも避難命令が出て、この土地からいなくなってしまった。その時多くの家畜は囲いから放された。自力で食べ物を探せるようにとの、人間の思いで放されたのだった。その後ウシたちは仲間で群を作って、行動を共にしてきたのだ。
そんなウシの一群が草原の真ん中辺りまで走り出てきたのだ。身体の大きなオスウシは急にそこに止まり、子ウシとメスたちを自分の後ろに置いた。そして今走り出てきた林の方に向き直った。
林の間からまた何かが走り出てきた。それは黒い毛並みの一頭のクマだった。若いツキノワグマのようだ。胸に細く白い線が走っているが、身体はそれほど大きくはない。オスウシの半分より小さい。勢いよく走り出てきたのだが、前方で立ち塞がるように向き直ったオスウシに気づき、つんのめるように急停止する。
オスウシはかなりの興奮状態で鼻息が荒い。野生ウシの時代から受け継がれてきた闘争本能が目覚めたようだ。飼いウシとなってからもオスウシたちのDNAには、自分のメスを確保し敵から守るための荒々しい気力が埋め込まれているのだ。
林から飛び出してきたクマに向かい頭を下げ、四本の脚に十分力を蓄えるとじわじわと正面に進んでいった。クマに対し角を突き出すように見せつける。
驚いたのはクマの方だった。この若いクマは親から離れて間もない時期で、自分の縄張りを探して移動しているところだった。先ほどはヒトのいなくなった民家の中に食べ物がないかを調べていた。民家の庭先に来たところで、ウシたちの群れに鉢合わせしたのだった。襲う気持ちは毛頭なかったが、群の中にいた子ウシが好奇心からクマに近づいて来てしまったのだ。しかしそれに気づいた母ウシが、慌てて子ウシを呼び寄せ走って逃げ始めた。この動きに群の他のウシたちも走り出してしまった。クマもその騒動に驚き一緒に走り出してしまったのだった。
こうしてオスウシと対峙することになって、困ってしまったのがクマの方だった。もともと子ウシの方が興味本位で近づいただけなのに、まるで子ウシを襲おうとした悪役にされてしまったのだ。ましてやこの大きなオスウシが見せつける角は鋭く大きく、へたに戦えば怪我をしかねない。そこでクマはくるりと方向を変え今出て来た林の中へ、一目散に走って逃げ出した。
オスウシはクマを見送ると、鼻息も荒くメスウシたちのもとに引き上げた。
そこまでをジョンはブチと一緒に、ウシたちからは離れた場所から見ていた。
近寄らなくて良かった。巻き込まれて怪我でもしたら目も当てられない。とジョンは思う。ブチも、クマともウシとも今は戦いたくないなあと思う。飼い主がいた頃は、こんなに危険を身に感じたことはなかったのに、自分たちだけで生きるようになってからはひやひやの毎日だ。
ウシたちもクマが去って落ち着き、メスたちはその場で草を食べ始めた。しかしクマと対面したオスウシは、ゆっくりと歩き出そうとしたのだが、そのままペタンと腹ばいに座り込んでしまった。とても疲れた様子で激しく口で息をしている。その鼻からはブチと同じようにとろりと一筋の鼻血が出ていた。
第八章
ハシブトガラスのケアは、あのショウゾウというヒトが帰ってくるのを心待ちにしていた。
少し前までケアにも飼い主ともいうべき人間はいた。ワナで捕らえられてから、ある建物の中で暮らすことになった。そこでは毎日同じヒトがケアの食べ物を持ってきた。そしてあの奇妙な訓練が続けられた。捕まえられたばかりの頃、身体を固定されて気を失った事があった。次に気がついた時には少し頭が痛いと思ったのだが、すぐに慣れて何でもなくなった。その後いつも食べ物を持ってくるヒトが自分に話しかける言葉がわかるようになったのだ。
ヒトの話が分かるようになった当初は、言葉一つずつの意味をすぐには理解出来なかった。何度も言葉をかけられながら絵を見せられたり、その場所を指さしたりしてケアの理解力をどんどん向上させた。ついには文章の意味までも理解出来るようになったのだ。
その訓練の最初の頃、声を出さずとも言葉を理解出来る力があるのに、どうしても声を出したくなった。そして思わず発した鳴き声が『けあ、けあ』だった。その時からヒトからは「ケア」と呼ばれるようになったのだった。自分でもその名前は気に入っていた。
しかしその時の飼い主ともいうべきヒトは、かなり厳しい態度でケアに接していた。ヒトの言葉は分かっていたのに、逆にケアが話しかけてもヒトは理解が出来ないようなのだ。このすれ違いからケアには理解力がないのかとヒトに思われ、ついにはこれ以上の訓練は無駄だと思われてしまった。それからのケアに対する接し方は、かなりいい加減になっていった。だからケアにとってヒトはとても恐い存在でしかなかったのだ。
それに比べあのショウゾウは、優しさがあった。好きと思えた最初のヒトだった。
(もう一度会いたいなあ)
ケアはそう思っていた。
正三は不思議な出会いをした犬のガルルとカラスのケアについて、以前接触したことのある脳波研究所ABIとの関係を調べて見ようと思っていた。これまでも正三が動物たちとのコミュニケーションが出来た時、いつも何かしら関係があった研究所だ。
実家に帰り着き父親に頼まれていた資料を渡すと、正三は早速自分が所属している絶滅動物研究所の同僚であるカノンに連絡を取ってみた。事情を話しABIに直接聞き込みをして貰うことにした。
そしてすぐにも返信があった。思った通りあのガルルとケアは、ABIで脳波に関するある処置が施されている動物だと分かったと。あのケアと名付けられたカラスは、自身でもそう呼ばれると反応する。もともとカラスは脳の活動が活発で、記憶力もかなりある。しかしケアの研究はあまり進んでいないという。どうもカラスは気が散りやすいから困ったモノだと言っていたという。
カラスのケアとコンタクトを取ることは自由にしてくれていいと言う。そればかりかそれもデータの一つとして活用したいと申し出られたという。それがなぜ日本の福島県に居るのか、その事についてはうやむやな説明しか聞けなかったという。
そして犬のガルルの話を持ち出すと、初めは返事に困っていたようだが、少しすると上の人間から了解が出たようで、そのシェパードもABIの研究用の動物であると答えたという。そして逆に相手から、今回現地で会った人物は誰かと問われた。カノンは正三の名を出すと、相手からその人物なら知っているので出来れば直接会ってもう少し情報を伝えたいという。この後の段取りはカノンが付けるというので、正三はその指示に従うことになった。
正三は以前にもアフリカでその研究所の人間と会っている。そしてその研究所で施術を受けたオランウータンやシマウマとも会話をしてきた。この日本でも彼らと関係を持つことになるとは、妙な因縁を感じていた。
第九章
柴犬のジョンはブチと共に、町の中を歩き回って食べるものを探していた。
少し前までは、周りのイエの裏手にある物置を狙っていた。物置の周りのどこかを掻きむしれば入口が見つかり、そこを押し開けるか潜り込めば何かしら食べ物は手に入った。しかし最近はこの辺りで潜り込めることの出来る物置も尽きてきた。ヒトが住んでいたイエの中に入る事が出来れば、もっと何か食べ物があるはずだと思うのだが、これは簡単には入ることができない。
飼い主と暮らしていた頃には、がりがりと入口を引っ掻けば大抵はヒトが開けてくれて中に入ることが出来ていた。あの時に開け方を覚えていればと後悔している。今この辺りのイエには誰もヒトがいないのだから、中に入れさえすれば食べ物には苦労しなかったのに、とジョンは悔しく思う。
町の中にあるイエの一つは外からでも中が見える。オミセと呼ばれていた。以前は飼い主と一緒にこの前まで来て、自分は外の柱に縛られ飼い主だけが中に入って行った。外からでもジョンの大好きな食べ物を袋に入れている様子が見える。それだけでよだれが出ていたものだ。そのお店に入ったことはないが、そこはお気に入りだった。
そのオミセと呼ばれていたイエの前にやって来て、中をのぞき込むジョン。
前ほど中がよく見えない。身体を汚れたガラスにこすりつけてホコリを落とすと、やっと薄暗い中の様子が見えるようになった。棚の上にいくつか袋が並んでいる。ジョンの好きだった食べ物が入ったあの袋もそこにあるのが分かる。よだれがじわりと湧いてくる。見えているのに手に入らないのはとてもつらい。付いてきたブチものぞき込む。
その時、
「何か欲しいものでもあるのかい?」
と声が聞こえた。
ジョンは周りを見回した。ブチ以外は誰も見えない。
「ここだよ」
と、あのカラスが空から目の前に滑り降りてきた。ジョンはびっくりする。
「何を覗いてるの?」
「おまえには中が見えるか?ほら、あの上にあるあの袋、中身は美味しい食べ物だ」
「ああ、あれが欲しいのかい?」
「お前に言ったところでしょうがないけど、あの袋の中身を昔よく食べてたんだ」
「ちょっと待っててね」
そう言うとカラスのケアはまた飛び上がり、そのイエの屋根にあいた穴から中へ潜り込んでいく。ジョンはあっけにとられ見ていると、そのオミセの中にカラスが飛び降りて入って来た。そしていくつか袋が置いてあるところまでぴょんぴょんと近づいていく。そこで中をのぞき込んでいるジョンに向かい
「どの袋が欲しい?」
と聞いてきた。ジョンは驚きながらも鼻先をお目当ての袋に向けた。
ケアは分かったとばかり飛び上がると、棚の上のその袋の一つを咥える。そして少し重そうではあるがえいっと飛び上がり、天井に開いている穴へ入り込んでいった。
ジョンはびっくりするばかりで、中のケアをもっと見ようとガラスに顔を押しつけた。
少しすると屋根の上からケアが飛び降りてきた。脚にしっかり袋を握っていた。
「これでいいか?」
とジョンに聞いてくる。
ジョンはケアのことを尊敬した。きっと自分よりうんと頭が良いんだろうと思う。
ジョンはその袋を渡されると、急いで牙で袋に穴を開け中身を掻き出した。いわゆるドッグフードと呼ばれるものがコロコロと出てきた。ジョンにとっては久しぶりのごちそうである。すぐにこりこりと奥歯でつぶしながら食べ始める。
この様子を身を伏せて見ていたブチも、その懐かしい匂いに刺激され走り寄って食べ始めた。
このドッグフードはジョンにとってもブチにとってもかつて主食だったものだ。匂いと言い噛み心地と言い何とも懐かしく夢中になって食べる。
「あんたたちイヌは変なもんが好きなんだなあ。おいらも似たようなものをゴシュジンから貰ってたけど、どうも好きになれなかったなあ。なにせおいらには歯がないからね、そんなに堅いのは飲み込むのに苦労するんだよ」
ケアにとってはあんまり美味しいものとは認識されていないようだ。ケアはもっとしっとりした食べ物がないものかと思う。活きの良い魚の身をついばんで、少しずつ舌で巻き込み喉の奥へ飲み込む。そう想像するだけでまるでジョンたちイヌのようにだらしなくよだれがしみ出てくる。
(この前、森の中で見たのは確かに魚だった。あれを思う存分食べてみたい)
と、ケアは思い出していた。あのオオガラスに独り占めされていたのがとても悔しく思えてきた。今度ショウゾウと会えたら、何とかお願いして一緒にあの場所に行ってオオガラスを追い払って貰おう。そうすりゃあの魚がたっぷり食べられる、とケアは思った。
第十章
正三は検問所を抜けて、またこの町にやって来た。
車の中には、ジョンやガルルにプレゼントしようと肉やソーセージをたっぷり用意してきた。気になっているカラスのケアには何をあげて良いのか分からず、とりあえず生卵を二パックほど用意してきた。
運転しながらも、脳波研究所ABIの担当者からの要請とはいったい何なのか、それが気になっている。とにかく日本の福島でABIの人間と接触するなんて考えてもいなかった。だからあのガルルやケアがABIと関係があった事には驚かされた。そして動物たちはあの場所で何をやらされているのだろうかと疑問は広がっていた。
まずはこの前ジョンやガルルと出会った双葉町の正三の元の実家を目指した。
あいかわらずここに来るまで人とは会っていない。帰還困難地区には放射線の影響が充分残っていることは、マスコミを通じて知らされている。帰りたくても帰れない元の住民は多い。マスコミの情報ではその町に人がいないのを良いことに、空き巣などが横行しているとも言う。それを取り締まる力は今の自治体にはない。放射線の影響がある限り、警察や地元の役人もそう頻繁に入っては来られない。
それならガルルやジョンたちが留守番として見回りをしてくれれば、被害を少なくは出来るのではなかろうかと正三は思った。
正三の実家の近くでケアは待っていた。食べ物を探して飛び回りながら、時々立ち寄るようにしているのだ。電柱の上で待っていると、あのハコの出す音が聞こえてきた。正三が帰ってきたのかと待ち受けていると、この前見たより大きなハコが道をのろのろと走ってくる。それは家の前を通り過ぎて走って行った。ケアは飛び上がりその後を追ってみた。
大きなハコは、この前ジョンの食べ物を持ち出したイエの前で止まった。二人のヒトが出てきてイエの中をのぞき込んでいる。そしてがたがたとイエの戸を揺すって、中に入ろうとしているようだ。どうもあやしい。あげくに持ち出したハンマーで、ガラスの戸を壊し始めた。
ケアは不安になって飛び上がる。少し飛んだところで、イエの庭に休んでいるジョンとブチを見つけた。大急ぎでジョンの目の前に降り立つと、彼に知らせた。
「たいへんだ。ジョンの食べものが盗られそうだ。あの食べ物があるイエに変なヒトが入ろうとしてる。食べものを全部もっていっちゃうよ」
と知らせた。ジョンは自分たちの食べ物が盗られると聞いて、一大事とばかり走り出した。ブチも遅れながらも後を追った。
商店の前ではガラスを割って入り込んだ男が、中からいくつかの袋を抱えて出てきた。そしてもう一人の男がその袋を受取ると、乗用バンの中に押し込める。持ち出した男は割れたガラスの間を抜けてまた商店の中に入り込む。
そこへジョンがやって来た。ハコの横にいるヒトをよく見てみる。そのヒトの顔に見覚えはない。最初はかつての飼い主が帰ってきたのではと、淡い期待を持って走ってきた。しかしこのヒトはまるで知らない奴だった。それに何か危険を感じるものがあった。
後からブチもやって来た。
二頭の犬がやって来たことで、車の横にいた男は驚いた。慌てて家の中にいる仲間を呼び出す。
「おい、ゴロちゃん、犬が来たぞ。こいつら睨んでるぞ。やばくないか」
「なんだよ、こりゃ野良犬だろ。新ちゃん早いとこ追っ払っちまえよ。この店にはまだ盗める物は山ほどあるぞ」
「俺はイヌが苦手なんだよ。ゴロちゃんが追い払ってくれよ」
「しょうがないなあ」
そう言いながらゴローと呼ばれた男はジョンの方向に進み出て、大きく手を振り回しあっちへ行けと言いながら追い払う仕草をした。
少し下がったジョンとブチ。しかしジョンの心に、懐かしい感覚が湧いてきた。
飼い主たちと生活していた頃、自分の役割ともいえる場面があった。それはひ弱な飼い主たちに見知らぬ人間が近づき危険だと感じた時、ジョンは身構えて相手を威嚇した。迫る危機に敢然と立ち向かう勇気が、身体の中から湧いてくるのだ。心の中に膨らむその勇気は、時に大きな声で相手を威嚇することであり、それでも向かってくるものには牙をむき噛みつくことである。決していつでも勝てるとは限らないが、尻尾を巻いて引き下がることはしたくなかった。相手の大きさは関係ない。自分の家族に危害を及ぼしそうなものには、恐れもなく全身で向かっていくのが自分の役割なのだ。
ジョンは今、この「飼い犬魂」がふつふつと沸き上がってきている事を感じている。こうなると怖さは忘れてしまう。ジョンは手を振り回すヒトの前に進み出て口の端を引き上げ、牙を見せるようにして威嚇した。この時なるべく低い声でうなり声を上げる事が効果的だ。がるる!
驚いたのはゴローの後で見ていた新ちゃんだ。子供の頃に犬に吠えられ、追いかけられたのがトラウマとなって、こんな犬に狙われる場面に出くわし心の中は恐怖心でいっぱいになった。慌てて車の運転席へと飛び込み、ドアを素早く閉める。
「ゴロちゃん、恐いよう!噛まれるから相手にするの辞めなよ」
ゴローに大きな声で伝えた。
しかしゴローにとってはこんなの恐くも何ともない。たかが柴犬である。もう一頭のイヌは腰が抜けているようで、襲う元気もないようだと見切った。
「なんだよこんなイヌ、俺がお仕置きしてやる。新ちゃん良く見てな」
と、ゴローは乗ってきたバンの中からスコップを取り出し、ジョンにそれを突きつけて身構えた。
ジョンは少し腰が引けた。あの堅そうなので叩かれたら痛いだろうなと。それでも逃げ出しはしない、低い姿勢を取ったまま思い切り吠え声を上げた。
「そんなことすると噛みつくぞ」
そう相手に伝えたつもりだ。まだ飼い主と一緒に暮らしていた頃、近所の子供たちがたまにいたずらを仕掛けに来たことがあった。そんな時は、この大きな吠え声を出すのが一番効果があったものだ。
しかしこのヒトは、引き下がろうとしなかった。それよりも手に持った物を振り回し始めた。こういうのが一番アブナイ。手に何も持っていないヒトは大抵逃げ出すが、何か堅そうな物を持ったヒトはとても強気でこっちに向かってくる。
ジョンは吠え声を上げ続けながらも、少しずつ下がらざるを得ない。じりじりと後退するとお尻がイエの壁に当たった。これ以上は下がれない。ブチが応援してくれないかと見ると、どうして良いのか分からないらしくヒトとジョンを交互に見ているばかりだ。
ゴローはそこで一発当ててやろうとスコップを振り下ろした。ジョンはギリギリのところでこれをかわす。振り下ろしたスコップの先が道路のアスファルトにあたり音を立てる。その隙に人の手元に飛び込もうとするが、ゴローはすぐに体勢を立て直す。そして今度は本気でスコップを当てようと狙いを定め始めた。
「ゴロちゃん!辞めとけ!」
新ちゃんがゴローに大声で呼びかけた。
「後にまた新しいヤツが来てる!こいつは強そうだよ」
その声にゴローが振り向くと、柴犬より遙かに強そうなシェパード犬が目に入った。
吠えるでもうなるでもなく、いつでも飛びかかれそうな腰を少し引いた姿勢で自分を睨んでいるのが分かった。その後にも二・三頭のイヌが牙をむいて唸っているのが見える。
「新ちゃん、こりゃだめだ、車を動かしてくれ。もう逃げるしかないぞ」
そう言いながらゴローはバンの荷台に飛び乗り、ドアを勢いよく閉めた。
しかし運転席の新ちゃんは、目の前に立ち塞がっている犬たちが恐くて仕方がない。
「新ちゃん!早く車を出せよ。こいつらやばいぜ」
新ちゃんは前へは進めず、バンをバックさせて逃げようとした。
そこへ突然、角を曲がって一台の自動車が走り込んできた。新ちゃんはそれにも驚いた。この辺りは立ち入り禁止区域に指定されているから他の人間は滅多に来ない。だから空き巣が簡単だとゴローに教えられてやって来ていた。それなのに突然人間が現れて、新ちゃんは大いにパニックになった。それにバックでハンドルを操作していたので手元が大いに狂う。よく見えていなかった道ばたの電柱に、バンの後部をドシンとぶつけてしまう。バンの中ではゴローがひっくり返ってしまう。
驚いたのは自動車を運転していた正三も同じだ。近くを通り過ぎようとした時、けたたましいイヌの吠え声が聞こえてきた。慌てて道を曲がり声のする方を探してきたら、見知らぬ自動車が犬たちに囲まれていた。その犬たちはこの前出会ったシェパードや柴犬のようだ。と認識したとたんに、バンが暴走して電柱にぶつかって止まった。
正三は犬たちに話しかけてみた。
「ガルルとジョンだね。何があった?」
「おいらの食べ物をこいつらが盗もうとしたんだ。それにおいらのこと叩こうとしたんだよ」
ジョンはすぐに正三に報告した。
「いったいどうなってるんだ。ガルル教えておくれ」
「たいしたことはない。こいつらは騒ぎ過ぎなんだ。この程度のヒトなら喉をひと噛みで倒せるぜ」
と、ガルルは物騒なことを言う。
車を出た正三は、電柱にぶつかったバンに近づき車内を覗いた。
中では新ちゃんがうしろの荷台に転がっているゴローを呼んでいる。ゴローは少し気を失っていたようだが、新ちゃんの声に気がつくと
「新ちゃんまずい!早くここを逃げ出さなきゃ。捕まるよ」
と助手席へと乗り込み新ちゃんに出発を促した。バンは少し変な音もしているが急発進で走り出した。大急ぎで逃げて行く。
あっけにとられ見送る正三。ジョンはほっとして座り込む。一部始終を電柱の上で見ていたケアが、飛び降りてきた。
「ショウゾウ、また来てくれたな。待ってたよ」
「おうケアか。お前も今の見てたのか?」
「おいらがあいつらを見つけたんだ。そこのイエを壊し始めたからね。それにジョンの好きな食べ物が盗られそうになったしね」
その話の内容が分かったのか、ジョンは慌てて割られたガラスのところへ進みオミセの中を見回した。
「あー、あの美味しいのは盗られてないよ。良かったー」
と安心した。
「ジョン、残念だけどここの商品は君のものじゃないよ。この壊された扉はこれから直して塞ぐよ」
正三はそう言うと、壊されたガラス戸を立て直し、シャッターを引っ張り出して閉めてしまった。ジョンもブチもがっかりである。
ガルルはじっと正三の行動を見ている。
ケアは(どうせ屋根の隙間から入れるよ、ショウゾウは無駄なことやってるな)と思った。
「ケア、わかってるよ。あんまり無茶をするな」
心の声まで見透かされてしまったのだが、そんな言葉をかけてくれる正三をケアはますます好きになった。
第十一章
正三は知っている者たちが皆揃っているのを確認すると、近くの駐車場の空き地へと導いた。そして車に積んできた食糧を降ろし皆に振る舞った。ガルル以外は皆先を争ってむしゃぶりつく。ケアもこの数日はあまり美味しい物が見つかっていなかったので、その飢えを満たすようにただひたすら食べた。自分用だと言われた生卵より、ジョンたち用に持ってきたというソーセージをぶんどって食べた。こうしている時は、ジョンもケアさえも誰ともコミュニケーションが取れないことに正三は気づいた。しかしガルルは立ち去るでもなく、近くに座り込んでこの様子を見ている。
正三はガルルに近づいて話しかけた。
「ガルルはお腹が空いてないのかい?」
「お前の世話にはならないだけだ」
と、ガルルは不機嫌なようだ。
「ところでガルル、お前のゴシュジンと連絡が取れたよ。この後会って話し合いをする予定だよ」
ガルルは『ゴシュジン』という言葉に、ブルルと身震いの反応をした。
「あんまりゴシュジンを好きじゃないのか?」
「聞くな」
不機嫌に答えるガルル。
「あのゴシュジンとは、あんたとほど話が出来ないだけだ」
「そうなの。こんな風に話が出来ないの?」
「あのヒトの言いたい事はわかる。意味もだいたい分かる。でも俺の気持ちをあのヒトは分からないみたいだ」
「そうそう。おいらもそう感じてた。」
と、カラスのケアも話しに入ってきた。
「おいらとガルルは同じところで飼われてたんだ。」
「お前と俺じゃ扱われ方がまるで違うがな」
「そりゃお前さんたちイヌと、おいらたちカラスじゃもともと扱われ方が違ってたからね。それにしてもあのヒトたちは、おいらの気持ち知ろうともしなかったよな」
「ああ。それは今も同じだ。食い物だけはいっぱいくれるけどね」
正三はガルルたちの話を聞きながら、今度会う予定になっている脳波研究所ABIの担当者とどんな話をする事になるのか、何とも先が読めなくなってきた。
「ところで、ねえショウゾウ、お願いがあるんだけど聞いてくれる?」
とケアが正三に話しかけてきた。
たっぷりの食事を終えたジョンやブチたちも集まって来る。彼らも正三の近くだといろんな話が出来る事を理解し始めていた。
「どんなお願い」
「ショウゾウがこんなごちそうをくれるのは今だけだろ?」
「そうだね、次はいつここへ来られるか、わからない」
「だから今のうちに手伝って欲しいんだ。おいら、たっぷり食べ物がある場所を知ってる。でもそこには大きな三本脚のオオガラスが見張っていて邪魔をするんだ。そいつを追い払ってくれないかなあ。ショウゾウなら出来ると思うんだ」
「そんなにいっぱい食べ物があるのかい?それはどこにあるの?」
「土に埋められてるけど、うまそうな魚がいっぱいなんだ。海から近い林の中だよ。ひとっ飛びで行けるよ」
「海までだと少し遠いね。私はケアみたいに空は飛べないからね。まあ一度見に行ってみようかな」
「うれしい。頼むよ」
ケアはとっても嬉しくなった。正三ならあのオオガラスを追い出してくれるはずだと思った。
第十二章
晴れ渡った空をケアはゆっくり飛んでいく。
少し遅れて地上の道を正三の車が追いかけている。助手席にはジョンそして後部座席にはガルルとブチも乗っている。ジョンもガルルも自動車に乗ることに抵抗はないようだ。経験済みであるらしい。ほかの三匹の犬たちは、自動車には乗りたくないようで、町に残った。
ケアは真っ直ぐ飛んで行けばたいしたことのない距離と思っていた。しかし正三から地面にある道に沿って飛んでくれと言われ、地面にある筋を気にしながら進むこととなった。どうも面倒だし、なかなか行きたい方向へ行けない。それにスピードが合わない。
(やっぱりヒトとつきあうのは面倒だね)
そんなことを思いながら飛んでいる。
正三の車の助手席に乗っているジョンは、久しぶりのハコ乗りにうきうきしていた。飼い主と一緒の頃は、ほんのたまにではあったがハコに乗せて貰えた。その時窓の外を走り去っていく景色を見ることにとても興奮したものだ。時々は窓を開けて貰い強い風を受けている時、まるで自分が走り抜けているようでただただ楽しかった。ジョンはその楽しさを思い出している。
一般に嗅覚がとても発達している割に、犬の視力はそれほど良くない。対象物と少し離れてしまえば、それが動かなければほとんど判別できなくなってしまう。そんな視力の弱さを嗅覚がカバーしているとも言えるだろう。そしてもう一つのカバー能力が動体視力だ。静止している物より動いている物を察知する能力が高い。これは獲物を狩る時の能力であり、敵の一撃を躱す能力でもある。そんなことから車窓から飛ぶように去って行く景色を余裕を持って眺められるのかもしれない。ジョンは前方の空を飛ぶケアの姿をしっかりと目で追っている。
後部席の床に伏せているガルルは、なんとも嫌な気分だった。それはこの地へ連れてこられた時の恐怖感が思い出されたからだ。ガルルはこの福島の地へヘリコプターに乗せられて来た。そのヘリコプターは外装に放射線を遮断する特殊なフィルムが機体全てに貼られ、操縦席の前だけしか外を見られなかった。ガルルはその一番奥の場所にかごに入れられて積み込まれていた。その日は嵐が近づいているのか時折強い風が吹いた。そのためヘリコプターは右に左にそして上下にと何度も揺れた。狭いオリの中で何も回りが見えない状態で、ただ揺れるに任せるしかなかったあの時間は恐怖の時だった。そんな嫌な記憶がよみがえり、気分が悪くなってしまった。
(あー、こんな車に乗り込まなきゃよかった)
さっきからそんなことばかり考えていた。
正三は運転しながらジョンとガルルの心を読んでいた。動物たちにそれぞれこんなに個性があるのが驚きであると同時に、楽しく思えた。
そして森の手前の樹の枝の上で待ち受けていたケアに正三たちの車が追いついた。
「ここがケアの言ってた、食べ物がいっぱいある場所なのか?」
正三がケアに聞いた。
「この森の奥にある。もう少しだけ中だ」
「だいぶ暗いね」
「その場所はなんだか周りの木が倒れてて、上から明るい光が入っている」
車から降りてきたガルルは、周りをクンクンと嗅ぎ始めた。
「この道にいくつもの匂いがする。この匂いは魚だな」
なおも匂いを嗅ぎながらガルルは
「おれはこの匂いをたどってこの先に行ってみる」
と正三に告げると森の中へ続く道に進んで行った。
「ガルルはもう車に乗りたくなくて歩いて行ったんだね」
ジョンはガルルを見送りながらそう言う。
「おいらはやっぱり空から行ってみる。着いたら声を出すからショウゾウ来てね」
そう言うとケアは飛び上がり、ひと回り旋回すると飛び去った。
正三はジョンとブチを乗せたまま林の中の道へ車を乗り入れた。
すぐ前をガルルが臭いを嗅ぎながら進んで行く。臭いはもう薄くなっているのか、ゆっくりと進んでいる。林の中の道ではあるが今も使われているようだ、自動車の轍が続いている。最近も車が通過したのか道の端の草には凪倒された跡が残っている。
林を少し進んだ時、後の茂みの中で何か音がする。ガルルは緊張して立ち止まる。ゆっくりと続いていた正三の車も止まる。
「気をつけろ。その藪の中に何かいる」
ガルルは藪に身体を向け正三に注意を促した。
「何がいる?ケアが言ってたオオガラスか?」
と正三がウインドウから顔を出した。その時、その藪の中でまたがさがさと音がする。
ガルルが唸る。すると
(ちっ!見つかっちまった。こうなりゃ攻撃だ)
と声が聞こえた。皆その攻撃に備えようと身構えた。
そして藪の中からバサッと音がすると同時に何かが走り出てきた。
ガルルは飛び下がる。
藪から出てきたのはイノシシだった。しかし藪の枝に脚を引っかけたのか、つんのめってドサリと顔から地面に倒れ突っ伏してしまった。
そのまま立ち上がれないでいる。
(あー、これで食われちまうのか・・・)
となぜか諦めてしまったようだ。少しずつ近寄ってみるガルル。
「どうした。どこか痛めたのか?大丈夫か?」
車の中で見ていた正三はイノシシに声をかけてみた。
その声に驚いたのか、イノシシは身体はそのまま伏せているのだが、首だけを持ち上げて車とガルルを見回した。
「おまえはダレだ?なんでおいらと話しを出来てるんだ?」
正三は車のウインドウを開けてイノシシに話しかけた。
「私だよ。そこにいる犬のガルルとも話ができるよ。そんなに驚かなくて大丈夫だよ」
そう言ってから車のドアを開け、ゆっくりと歩いてイノシシに近寄った。
反射的に逃げようとしたのかイノシシは走り出そうとした。しかし身体が持ち上がらず、また腹から地面に伏してしまった。
「無理をするな。お前を食べたりしないよ。この森に住んでいるのかい?」
そう正三は聞いてみた。
「ここはおれの森だ。この森で生まれて大きくなったんだ」
「何でそんなに弱ってる?」
「自分でも良くわからないんだけど・・・」
そう言うとイノシシはこれまでのことを話し始めた。
この森に生まれ育ったのだけれど、少し前にヒトに森を追い出されたという。その時は住んでいた森の木が倒され、うんと大きなハコがやって来て土も掘り返された。仕方なく森を出て、時々ヒトもやって来る畑のあるところへ行ってみた。そこは何度か行ったことはあった。前はヒトを恐れながら周りの土を掘り返し、すばやく食べ物をかっさらって逃げていた。
しかし今度はそこにヒトが一人もいなくなっていた。だからあちこちを掘り返して、イノシシが大好きなイモを好きなだけ食べられた。あちこちを掘り返しても追いかけられることはなかった。それでもそんな食べ方を続けていたら、いつの間にか食べ物はなくなってしまった。
そこでまたこの森に帰ってきてみると、もうヒトや大きなハコはいなくなっていた。それよりもすごかったのが、木が倒された森の中で土を掘り返してみると魚がいっぱい出てきた。だからまたたっぷりと食べることが出来たのだが、あの頃からどうも身体がうまく動かなくなってきた。
「だからさっきみたいに、枝に引っかかったくらいで簡単に転んじゃうようになった」
というのだ。
正三は少し思い当たることがあった。このあたりに人がいないのは五年前のあの事故のせいだ。この東北一帯を大地震と大津波が襲った。その時海辺にある原子力発電所で大きな事故が起きた。原子炉が爆発して放射線物質がまき散らされたのだ。この非常事態のためこの辺り一帯が危険地区と指定され、全ての住民がこの土地から強制退去・避難させられた。
この場所でイノシシが食べたものに、放射線物質が大量に含まれていた可能性は大いにある。
「それは放射線物質のせいかもしれないな」
「なにそのホウシャ・・・なんとかいうの?食べられないものなの?」
とジョンが聞いてきた。イノシシも
「おれが食べたもののことか?」
と聞いてきた。
「食べたものに危険な放射能が着いていたのかもしれない」
「おれは匂いで食べ物を探す。何の匂いもしなかったぞ」
イノシシはその時食べたものを思い出している。
「いや放射能は匂いも色もないし味だってしないと思う」
「それじゃ食べたかどうかもわかんないよ」
「放射能は少しだけなら食べたって何も変わらないけど、いっぺんに大量に触れるとその場で死んじゃうこともあるんだ」
「恐いよー」
とジョンは思った。
「でも、地下にあったイモなんかなら、それほど濃度はないはずなんだけどなあ」
イノシシがこんなに弱ってしまうほどの放射能が、畑のイモなどに蓄積する事などあるのだろうかと正三は疑問に思った。それより掘り返して食べたという土の中の魚に問題がありそうな気もする。
「木が倒されて魚が埋められていた森はこの近くなのかい?」
「ああこの先だよ。でも最近は変なカラスが邪魔して、近寄るとうるさいよ」
「わかった。おまえは少し休んだ方が良いね。帰りに連れて行ってやるからここで待っていなさい」
そうイノシシに告げると、正三は車に戻った。ガルルも森の奥を目指して歩き始めた。残されたイノシシは思った
(なんだったんだ?なんであんなに知らないヤツに話をしてしまったんだ?それも一番気を付けないといけないヒトなんかに。でもなんだかホッとしちゃったのはどうして?)
イノシシは地面に伏せたまま見送った。
第十三章
ケアは皆より先にその場所に着いていた。空から見ると森が四角く切り取られている。その穴の端の大きな木の枝の上に止まって、正三たちの到着を待っている。
(みんな遅いなあ、ここまでは一本道なのに)
切り開かれた森の奥を覗いてみると、やはりその土の中には何かが埋められているようだ。ぐるりと見回すと奥の一角が特に盛り上がって見える。きっとあそこに食べ物が埋まっているはずだ。
でもケアはすぐには森の中に入って行けない。オオガラスに追い払われた記憶が残っているからだ。このどこかにいるはずだと思い見回す。薄暗い森の中では何も動かない。それより目が薄暗がりに慣れてきて、地面から飛び出している魚の尻尾を見つけてしまった。
(これこれ、やっぱりいっぱい食べ物があるぞ。早く食べたいなあ。ショウゾウは遅いよ、早く来てよ)
とうとう我慢が出来なくなったケアは、なるべく静かに木の幹に沿って地面に降りた。地面から見回しても、あのオオガラスはいないようだ。ぴょんぴょんと両足跳びで、その先の地面から突き出た魚の尻尾らしきものに近づく。確かに魚の匂いだ。こうなるともう我慢が出来なくなり、とうとうその尻尾にかじりついた。
その時だ。真上から大きな黒いモノが落下してきた。あのオオガラスだ。今度は油断していたケアを見事がっちり押さえつけた。オオガラスはかなりの重さがあり、右の脚はケアのくちばしを喉と共にしっかり挟み込んでいる。ケアは鳴き声を立てることも出来ない。
必死で頭の中でショウゾウを呼んだ。
「ショウゾウ!助けて!苦しいよお!」
その頃正三たちはその空き地の近くまで来ていた。
ここまで車が一台通れる程の道が続いていた。その道の両側は深い広葉樹林になっていて、色々な種類の樹が絡むように生えていた。そのため林の中を覗くことがなかなか出来なかった。そして少し斜面が現れ、その傾斜地は適度に整備され植林された杉の林に替わっていた。その傾斜地に沿って回り込むように進むと、突然杉林の一部が切り倒されていた。二十メートル四方ほどの広さの空間が出来ている。
その時正三やガルルの頭の中に「助けて!苦しいよお」という声が聞こえてきたのだった。ガルルはその空き地の中に走り込む。正三はそこに車を止めると、急いで降りて空き地の中へと続いた。ジョンとブチもショウゾウが開けたままにしたドアから外へ飛び出し、ガルルを追った。
走り込んだガルルは、少し先の地面に黒く大きな物があるのに気づいた。その黒いものに押さえつけられているケアの顔が見えた。それを確認すると一気に飛び上がり、その黒く大きなものに体当たりして倒した。
オオガラスはそのまま向こう側に倒れた。下にいたケアはやっと解放された。しかし喉を絞められていたので、声が出なくなっている。ガルルはその押し倒した物が、大きなカラスであるのに気づいた。オオガラスは倒れたままで起き上がれない。ガルルはその喉元に牙を突き立てようと、用心深く近寄る。
正三も遅れてやって来た。
「待て。ガルル噛みついちゃダメだ。もう動かなくなっている」
そう正三に声をかけられ、ガルルは立ち止まった。
オオガラスが首をゆっくりと持ち上げ、周りを見回す。犬のガルルやジョンを見た後正三にも気がついたようだ。
「なんでヒトと話が出来るんだ」
正三は答えた。
「お前と戦う気持ちはない。カラスのケアを追ってきただけだ」
自分に直接話しかけられ、オオガラスは慌てた。何とか身体を起こして正三たちと向き合う。しかしなぜか身体はふらふらと揺れている。それを見た正三は
「どうした大丈夫か?どこか身体の調子が悪いのか?」
そんな正三の気遣いにオオガラスはふっと気持ちを許した。
「私は何かの病気らしい。自分の身体が思い通りに動かないんだ。だからお前たちに大切なことを伝える」
「大切な事って何」
やっとケアはその話を聞く元気が出てきた。
オオガラスは苦しそうに息を継いでから
「ここにある物は何も食べてはいかん。それにこの場所へはもう二度と来てはいかん」
そう言いながらゆっくり立ち上がる。するとその足下には三本の脚がある。ケアが言っていた三本脚だ。しかしよく見ると脚は二本で、その間には肉だれのような太い物が垂れ下がっている。身体の中から突出している腫れ物のようだ。その腫れ物が第三の脚のように見えていたのだ。
「この場所にいれば私のようになる。この場所の魚を食べ続けたら、身体がこんな風に膨らんできた。そしてここを離れる力もなくなり、空も飛べなくなった。この場所に近づいてはいけない」
それだけ言うと、もう身体を立ててはいられなくなったようで、オオガラスはドサリっとしゃがみ込んでしまった。そして黒いくちばしの端には、とろりと一筋の血が流れ出ている。
「だからこの前も、それに今日もおいらを追い返そうとしたのかい」
ケアはやっと追い払われた意味が分かってきた。
正三もこのオオガラスが言いたい事を理解した。
「そこのイヌのブチや途中で出会ったイノシシと同じ症状だね。放射能を浴びた結果の障害だ。このオオガラスの方が重症だ。きっとその魚を食べたからだろう。それにしてもなぜここにそんな危険な魚が埋められてるんだ、それも放射能を含んでいるなんて」
「時々あんたと同じヒトが魚を運んできては、土を掘って中に魚を埋めていく。なぜそうするのかは、私は知らない」
どうやら人間が絡んでいるようだ。正三にはその理由のひとつが分かる気がする。
大地震の後に原子力発電所で起こった事故の影響だ。政府はそれほど大きな影響はないと発表はしたのだが、実際は原子炉からかなりの量の放射線物質が、水蒸気爆発と共に上空にばらまかれている。そして今も壊れた原子炉に地下水が流れ込み、放射能に汚染された水がすぐ側の海へと流れ出ているという。このため近海では、全ての海洋生物に放射線物質が蓄積されている。そんな海で育った魚を、このオオガラスは食べてしまったようだ。それにしてもどうしてこんな森の中に魚を運んでくるのだろう。
「長い間、大空をあちこちへと飛び回ってきた」
オオガラスがつぶやくように語り出した。
「大きな海を渡ったこともあった。そして行く先々でいろんなものを食べてきた。でもこんなに好きなだけ食べられることはなかった。うれしかった。だがなあ、からだがこんなに動かなくなるとは思いもしなかった。欲張りはダメだなあ」
そう語りながらオオガラスは頭を地面に落とした。
第十四章
正三は、ケアやジョンたちにオオガラスと埋められた魚には近づくなと念を押し、車に置いていたペットボトルの水を取りに戻った。ケアは少しだけオオガラスから離れた位置で様子を見守る。正三はオオガラスに持ってきた水を飲ませた。最初は反応がなかったが、数回嘴の中ヘ流し込むと、気を取り戻したのかごくごくと水を飲み始めた。ケアは少し安心した。車の周りではガルルとジョンが見張りをしている。正三はこの後どう対処するのが良いか迷った。このオオガラスはかなり弱っているようだ。しかしどうして良いのかわからない。衰弱の本当の理由が分からない。助けようがない。
それにもましてこの場所の危険性が感じられる。自分ばかりでなくケアやジョン、それにガルルにとってもここの環境はかなり危ないものに思える。この場所は他より放射線量が多くありそうだ。此処に長く留まれば自分を含め皆にも悪影響が出るだろう。だから皆を避難させることが第一のように思える。
しかしその一方で、どうしてこの森がこうなってしまったのかもう少し調べなければならないし、その原因をしかるべきところへ報告すべきだとも思うのだ。
とりあえず正三はこのことを自分が所属する本部に知らせておこうと思い立った。絶滅危惧生物研究所ESIにとっても、この地域の野生生物への放射線の影響は把握しておくべき状況だろう。
本部へ携帯電話で連絡を取ってみた。すると、その連絡のやりとりの中で、同僚のカノンが今こちらへ向かっていると教えられた。詳細はカノンにあって確認してくれとのことだ。正三は何か大きな事が起きているのだと感じた。
少し離れた場所で待っていたジョンは、頭の中が混乱していた。今何が起こっているのだろう?自分は何をしたらいいのかがわからない。あのオオガラスはどうしてあんなに弱っているのだろう。ショウゾウはどうしてあのオオガラスを助けようとしているのだろう。かつて飼い主がいた頃感じた、ヒトと一緒に行動することの楽しさやおもしろさをショウゾウは思い出させてくれている。でもジョンにはあのオオガラスとこの森はとても危険なものに思える。なんだか不安でしかたがない。だから早くショウゾウがこの場所を出ようと言ってくれるのを待っている。
(ショウゾウ早くしてよ)
ジョンは強くそう思った。するとガルルが頭の中に話しかけてきた。
「心配するな。たいしたことじゃない。何も襲っては来ない」
「もっと何か変なことが起きそう。早くここを出ようよ」
「ああ、あんまり長くここには居たくないな」
そんな話をしていると、正三が近づいてきた。
「なあみんな。ここは少し危険な場所らしい。とりあえずこの場所から出ようと思う」
付いて来たケアは
「あのオオガラスはどうするの?それにあの魚は食べられないの?」
「オオガラスは一緒に連れて行っても私では治しようがない。この辺りには他に人も獣医も居ないしね」
「置いて行っちゃうんだ・・・」
ガルルは魚が埋めてあるところに近づいて、少し匂いを嗅いでみた。一部に腐っている匂いがあるが、それにも増して美味しそうな魚の匂いがするだけだ。正三が言う危険な場所とは何のことか良くわからない。とその時、ガルルの首輪に付いていたボタンからピー!という音が発せられた。
ガルルは慌ててその場所から離れて正三たちのところへ戻った。
「この音が聞こえたらその場所を離れろと、前にゴシュジンから聞いた」
そう正三に伝えた。
「とにかくここに長居は無用だ。さあみんな車に乗って!ここを離れるぞ」
正三はそう伝えると車のドアを開け、皆を中へ入れると急いで森を出る。
森の中の空き地にはオオガラスだけが残された。
第十五章
車は森の中に一筋だけある道を引き返す。後部座席にガルルとブチは伏せて乗り、ケアとジョンは助手席に座り込んでいる。
もう少しで森を抜け出るところへ来た時、上空に大きなエンジン音が響いてきた。開けた場所に出たところで上空を確かめると、車の真上に小型のヘリコプターがホバリングしている。機体には星のマーク、アメリカの軍用機だ。ヘリコプターも車を確認したのか、低空飛行のまま少し先にある開けた場所にゆっくり進み出した。正三はそのヘリの方向に車を進めた。
ヘリコプターは、森の一部が切り開かれ畑の跡地らしき草原にゆっくりと着陸した。正三は車をその方向に走らせ、畑への農道らしき道へと入って行った。
着陸したヘリコプターから降りてきたのは、正三の所属する絶滅生物研究所の同僚カノン、そしてもう一人の男が降りてきた。それは正三がかつてアフリカで出会った、脳波研究所ABIのジョンソンという研究員だ。
「カノン、君が来てくれるとは聞いていたけど、彼と一緒だとは驚いたよ。それにこれはアメリカ軍のヘリコプターだよね」
「本部から連絡を取ったら、ABIからすぐに返事があったの」
カノンはこれまでの経緯を正三に伝えた。
シェパードのガルルとハシブトガラスのケアは共に、脳波研究所ABIで研究用に飼育されていた動物だという。彼らの脳にはある装置が埋め込まれていて、彼らの思考を脳波として発信しており、研究員がそれを常に受信している。カラスのケアは鳥に対して初めてこの処置を施した個体だという。鳥類はかなりほ乳類に近い脳の構造を持っているという。しかしケアは、ほ乳類ほどの反応が得られていないというのだ。正三はガルルたちと同じようにケアとも会話が出来ているのだが、研究者たちはケアの脳波の解析に苦労しているらしい。それに引き替えシェパードのガルルはかなり優秀で、首輪に装着したGPSと送信装置がとても良好に働いていて、ガルルの脳波をうまく受信出来ているという。
そして次に明かされた事実に正三は驚いた。アメリカの公的な研究機関であるABIの今回のミッションは、在日米軍からの調査依頼だったというのだ。
あの大震災の後に起こった、福島の原子力発電所の事故は想定外だった。しかしその後の日本政府が発表する事故報告は、どうにも正確性を欠いた情報ばかりだという。最も危険な放射性物質の拡散状況の把握が、まるで出来ていないというのだ。そこで多くの米国人兵士を日本に赴任させている在日米軍が危機感を持った。そこで現地調査を早急に独自に行うミッションが立てられた。しかし現地での活動は兵士の身体に悪影響がある可能性がある。そこでより影響の少ない人力以外での調査を優先させることにした。当然ロボットの活用もされているのだが、それ以外に遠隔操作ができる生物での調査ができないかと検討された。その白羽の矢が立ったのが脳波研究所ABIだったというのだ。
ガルルの首輪には放射線測定計が装着されている。そこで計測された数値は常時送信されている。そして危険な放射線量を感知すると、大きな警告音が鳴るようになっている。その音がしたら早急に現場を離れるようガルルには訓練がされている。その反応も脳波計で検知されている。ある程度の情報は遠隔地で受信出来るのだが、正確な数値と場所情報は首輪に付けられた装置のチップに貯められている。それを定期的に回収するのがジョンソンの役割だというのだ。
正三はこの話を聞きながら、ガルルがかわいそうに思えてきた。これでは危険な実験動物として使われているばかりだ。
カノンも本部からの指令を持ってやって来たという。やはりかなりの動物がこの地域では危険な状況にあるようなので、それを確認して報告せよというのだ。この森の中に居るオオガラスもその犠牲者だろう。それに森の中で出会ったイノシシも放射線の影響を受けていそうだ。その直接の原因となっているらしい、あの埋められた魚の由来も確認しなければいけないだろう。
ガルルはこのゴシュジンが何故か怖い。研究所の訓練でこのヒトがガルルのボスであると教え込まれたため、反抗しようという気にならない。でも彼からは優しさや頼もしさを感じない。それはショウゾウと出会って初めてその違いに気づいた。その二人が話し合っているのを見ていると、「どちらが上なのだろうか」という単純な質問が頭に浮かんでくる。
ケアはこのゴシュジンが嫌いだ。ガルルみたいにただ命令を聞くだけなのは堪えられない。研究所では適当に相手をしていた。そこから出られないのだから、食べ物をもらうためにだけ言うことを聞いていた。だからこの場所に連れてこられてからは、決して彼には近づかないようにしていた。今は一刻も早く逃げ出したい。ショウゾウが早く話を終えてくれないかとじりじりしていた。
その時着陸していたヘリコプターから操縦士が降りてきた。そしてジョンソンと何か話を始めた。
「一台のトラックが今こちらに近付いている。偵察機のレーダーで捉えたそうだ。誰が何を積んでいるのか確認しよう」
ジョンソンがそう伝えた。
正三は、米軍がこの辺りを把握していることに驚いた。日本政府の管轄であるこの周辺をレーダーまで使って出入りを確認している。原発事故の影響はかなり大きなものだったのだと思い知らされた。日本人に対する広報ではこれほど差し迫ったものとは知らされていないのに。
林の中の道近くでしばらく待っていると、一台の軽トラックが走ってくる。皆側溝に隠れてその車を見送った。運転席と助手席に人が乗っているのが分かる。荷台にはシートがかけてあるが、なにかかなりの分量のものを運んでいるようだ。その軽トラックは正三たちが出てきた森への道を、躊躇なく入って行った。
正三の車にカノンとジョンソンが乗り込む。正三はジョンとブチ、そしてガルルとケアにここで待っているよう伝えた。ケア以外はおとなしく従った。しかしケアは
「おいらもあの森の中へ行きたい。あのオオガラスに危険がないか見届けたい」
と、正三に伝えると、さっさと飛び上がり森へと飛んで行った。
第十六章
ケアは軽トラックより先にその森に着いた。枝に止まって中を見渡すと、少し離れた低い木の枝の上にあのオオガラスが止まっているのが見えた。
「変なやつが森にやって来る。その後にショウゾウも来るからそこで見ててね」
とオオガラスに伝えた。オオガラスから返事はない。
軽トラックはその森の中までやって来ると、荷台のシートを一人が外し始め、もう一人は地面を確かめると紐を見つけ引っ張り始めた。その紐は大きな木の板に繋がっていて、その板が引きずり出されると、地面だと見えていた場所に大きな穴が開いた。その穴の中にはかなりの量の魚の死骸がすでに捨てられている。
軽トラックの荷台にはいくつもの木箱と白い発泡スチロールの箱が載せられている。その男は箱の蓋を開け一つずつ持ち上げると、穴の中に中身を投げ入れ始めた。穴の中に新たに魚やエビなどの海産物が放り込まれていく。
「なんだよ。美味そうだなあ、食べられるよね」
思わずそう漏らした言葉がオオガラスに聞こえたようだ。
「ダメだ!さっき教えただろう、あれはダメなやつばっかりだ」
厳しく諭された。
そこへ正三の車が乗り込んできた。素早く車を降りる三人。軽トラックの二人はここで人と会うとは思っても居なかったのでうろたえる。その二人を取り囲む三人。
正三が二人に聞き込みを始める。
「その中身は何ですか」
お互いの顔を見合っていた二人だったが、年配のひとりが観念したように話し出した。
「これはうちの漁港に入った漁船から陸揚げされた魚介です。組合でそれを受取りここに捨てに来ただけです」
「あなたはその港の漁業組合の方なんですか。でもなぜ此処へ捨てるのですか」
「仕方ないから話しますけど、この辺りの海で捕れた魚は今どこにも売れません。そうあの原発事故のせいですよ。放射能汚染の疑いがあるから、水産庁からも流通させないよう通達が出てるんですよ」
そう男は説明をした。
正三もうすうすは気がついていたのだが、やはりここに捨てられているのは放射能汚染を受けた魚介類に違いない。カノンがジョンソンに通訳している。
「それでも一応ガイガー計で放射線の量は測っています。許容レベルギリギリくらいの値ですけどね。試験的に近海で漁をしているんですけど、計測の後に海に戻すわけにも行かないって事でね。ここなら今のところ立ち入り禁止区域だから、地中に廃棄すれば危険はないだろうと、組合で決めたんですよ、埋めちゃえば問題はないだろうと」
そういうことだった。それをあのオオガラスは毎日食べてしまったことで、放射能が体内に蓄積してしまったのかもしれない。
ジョンソンはカノンを通して米軍の調査であることを告げ、二人の連絡先を確認した。漁業組合の二人は後始末を早々に終え帰って行った。ジョンソンが米軍に報告すれば、今後その漁港にも詳しく調査が入ることになるだろう。
第十七章
正三とカノン、ジョンソンはヘリコプターを止めている原っぱへと帰ってきた。
ガルルとジョンそしてブチはじっと待っていた。そこへケアも空から降り立った。
ヘリコプターに乗り込む前に、ジョンソンが正三にあることを頼んだ。
彼らの研究所で育てたカラスのケアとイヌのガルルのことだった。今回の漁協の人間に聞き込みができたことで、ここ福島での調査は一旦終えることにする。ついてはケアとガルルを一緒に研究所へ連れて帰りたいのだが、それを正三が彼らに伝えてくれないか、という依頼だった。
正三がガルルにそれを伝えると、
「今ゴシュジンが言っていたことはわかったよ。でも、一つ伝えてくれないか」
「何をだい?帰りたくないのかい」
「なんとかあの変な空飛ぶハコに乗らないで帰れないか。あれは酷く揺れるから嫌いなんだ」
そうガルルは正三に頼んだ。この町に来る時にヘリコプターに乗せられた時、本当に死ぬ思いだったのだ。
それをジョンソンに告げると渋い顔をされた。ヘリが一番素早く動けるからこれで行くよりしょうがないと言われる。
ガルルは(あーあ)とため息をついたが、主人の言うことには逆らえない様子で、しぶしぶジョンソンの指図でヘリの中へと乗り込んでいった。
次はケアに聞く番になったのだが、いつのまにかケアの姿が見えなくなっている、さっきは確かにみんなと一緒に居たのに。
正三はしかたなく頭の中でケアに聞いてみた。
「おいケア!どうせこの近くに隠れてるんだろ。どうする?ガルルと帰るか?」
「ショウゾウ頼むよ。おいらこのゴシュジンとは気が合わないんだ。あの変なイエも好きじゃない、暗いんだもん。だからどっかへ行っちゃったって伝えてよ」
そうケアの声が頭の中に聞こえてきた。きっとこの近くには居るのだが、姿を見せないようにしているようだ。
正三はケアが近くに隠れていることは告げず、
「どうも逃げ出してしまったようだ。空を飛んで行かれると追いかけようがないしね」
とジョンソンに伝えた。横でそれを聞いていたカノンは何となく察知したようで、唇に薄笑いを浮かべている。
するとジョンソンは
「そうか。あのカラスは研究所でも少し手を焼いていたし、ここへ連れて来てからは飛んで行ったきりでまるで連絡が取れていなかった。ここらであのカラスは諦めるより仕方ないな」
そう言うとさっさとヘリコプターに乗り込んでいった。
(やったね)
正三の頭の中でケアの喜ぶ声が聞こえた。
ヘリコプターが去って行くのを正三とカノンが見送っていると、ジョンとブチが寄ってきた。そして車の陰からケアもぴょんぴょん跳んで現れた。
「ガルルは結局人間のところに帰って行ったね。おいらはもうあそこへは帰りたくないけどね」
「ケア、本当にこれで良いんだね」
「うん。やっぱり大空を飛び回るのは楽しいからね」
「さあそれじゃあジョンとブチはどうするのかな?」
正三がそう問いかけると
「ここではもう食べ物がないよ。どうしたらいいんだろう」
とジョンが答える。するとブチも
「もう身体がうまく動かせない。このままだと倒れちゃうよ」
と弱音を吐く。
正三はそれを聞いて決心をした。
「それじゃあジョンとブチは私の両親の家で飼ってもらおう。頼んでみるよ」
それを聞いてジョンとブチは安心した。
「さてケアはどうする」
「おいらは飛び回れば何か食べ物は探せそうだし、それより何よりもっと空を飛び回りたい。いろんなものを見るのはとっても楽しいんだ」
「わかった。もし助けが必要になったら教えてくれ」
「うん。ありがとう」
そう言うと、ケアは力強く飛び上がるようにして空へ羽ばたいた。そして正三たちの上空を一度旋回した後、一気に飛び去って行った。
見送った正三は、ジョンとブチを車に乗せる。
わずか数日の間に知り合ったケアやガルル、そしてジョンとブチ。正三はなんだか嬉しくなった。これまでも接触出来た野生動物とは、ついには別れる事になった。そこに寂しさはあるが、それより新しい友達が出来たことがとても嬉しい。人間は表情と腹の中で考えていることが時々一致しない。それを知ろうとするととても疲れる。しかし野生の動物たちは、素直に心で思っていることを真っ直ぐに表現してくる。それがとても嬉しいと思った。そんなことを考えながら、森を後にした。
上空では高みからケアが滑空をしながら、去って行く正三たちの乗った車を見送る。ケアはあの森へもう一度行ってみようと思った。放射線が恐いというのは言われたが、今一よく理解出来ていない。それにあのオオガラスのことも気になる。
森への空からの入口にやって来た。枝の上に留まり中の様子をうかがう。静かだ。
「おーい、オオガラス。どうしてる?」
また襲ってくるのではないかと警戒しながら、呼びかけてみる。
返事はない。仕方ないので暗い森の中へ降り立つ。そして周りを見渡した。
「おーい、オイラだよ、カラスのケアだよ・・・」
暗さに慣れてくると、あの魚が投げ込まれていた穴の側に、何か黒いモノがあるのが確認出来た。
恐る恐る近づくケア。
黒いモノはあのオオガラスだった。くちばしで少し突ついてみた。ぴくりとも動かない。オオガラスの命はすでに尽きていた。
ケアには命がなくなることの意味が良くわからない。
(どうして動かないんだろう?)
(気分が悪いんだろうか?)
いくら呼びかけても答えてくれない。もう自分のことも忘れてしまったんだろうかと考えると、とても悲しくなった。そしてこの森がとても嫌な気分がする場所なんだと感じた。このオオガラスはこの場所に捕まって逃げられなくなったんだと思う。
(こういう場所にはもう近づかないぞ)
と、ケアは心に焼き付けた。
この場所がとても恐いところだと思えた。追い出されるように森を飛び出した。
かなり上空まで飛び上がってから、風に乗って滑空しながらあの森を見下ろした。
「サー!オイラはもう自由だ。こんなところから逃げだそう。うんとたくさん飛んで行こう、そこにはきっと楽しいことが待ってる!」
そう叫びながらカラスのケアは新しい旅を始めた
第3話 終わり
きみの声が聞こえる 十兵衛 @S-Jubei
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。きみの声が聞こえるの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます