33嫁 元魔王アンリ(3) ナガサキ

 アンリは日本について知っている。




 世界第三位のGDPを持つ経済大国で、アメリカほどではないが地球の中でもトップクラスに裕福な国の一つだ。




 アンリの住んでいるアメリカとは親密な同盟関係にあり、『アメリカがくしゃみをすれば日本が風邪を引く』と言われるように経済的にも極めて密接につながっている。




 もちろん、投資をするにあたってはもっと細々とした知識が必要だが、日本についての基本認識はそんな感じだ。




 これが長崎となるとぐっとアンリの知識は浅くなる。




 日本の九州地方にあって、大きな港を持っている。




 アンリはその程度のことしか知らない。




 はっきり言って、長崎という都市の世界経済に占める重要度は低く、優先して勉強する対象ではないのだ。




「ここが長崎ですか……。なんだか気持ちのいい街ですね」




 でも、そういった経済的なこととは関係なく、アンリは一目でこの街の空気感が気に入った。




 開放的な明るさと穏やかさが同期した海の街。




 アンリの故郷もまたそうだった。




 アンリの黒髪が強烈な日差しを最大限の効率で吸収する。




 エアコンの効いた室内では分からない『夏』の感覚。




 釣り合いをとるように、涼風を胸いっぱい吸い込む。




 どこか潮の香りを含んだそれが、肌に心地よい。




「うん。いくつもの顔がある深い街だよ。長崎は。道も歴史も入り組んでいて、複雑だけれど、でも、それがいい」




「それで、アイスクリーム屋さんはどちらに?」




「移動式のアイス販売車がいるはずなんだけど……、タイミングが合わなかったみたいだね」




「では、ちょっとお散歩しませんか? とっても気持ちのいい陽気なので」




「うん。そうするか」




 世界は穏やかだ。




 日本は黄色人種が多い国なので、アメリカではマイノリティーなアンリも浮かずに落ち着く。




 ジャンの優れた容姿はどこでも人目を引くけれど、この辺りにはそこそこ観光客とおぼしき白人もいるから違和感というほどでもない。




 コロッセウム状の噴水では、鳩が無心に水を飲んでいる。




「本当にのどかで平和なところですね。歴史ある観光地なんですか?」




「古さという意味では全く。公園ができて六十年だから、日本という国の歴史の長さを考えれば、観光名所としてはかなり新しい方なんじゃないかな」




「それにしてはかなり力を入れて整備されているように見受けられますけど」




「そうだね……。ここは日本の歴史上でも、一、二を争う惨劇が起こった場所だから、記憶が風化しないように力を入れているんだろう」




「……惨劇? どういうことですか?」




「日本とアメリカが戦争していたことは、アンリも知っているだろう?」




「はい。一応は。あまり詳しくはありませんけど」




 戦争や国同士のいざこざは市場に重大な影響をもたらすので、現在進行形の国際情勢には常に気を配っている。




 だが、過去の歴史となると、いまだこちらの世界に来て数年しか経ってないアンリの知識には限界があった。




 もちろん、現在の国際関係を理解するのに必要な最低限の世界史は把握しているが、それもヨーロッパ史が中心で、極東のそれとなると自信はない。




「その戦争の末期、アメリカ軍によってここで原子爆弾という大量破壊兵器が使われて、たくさんの人々が一瞬の内に亡くなったんだ」




「原子爆弾……。確か、日本の広島に前のアメリカ大統領が慰霊に訪れていましたが」




「うん。広島の方が有名なんだけど、長崎にも原子爆弾が落とされているんだよ。二つの都市に落とされたたった二つの爆弾で、二十万人以上の人が一瞬の内に死んだんだ」




「そんなに……ですか」




 アンリは絶句した。




 アンリが魔王だった時代、いくらたくさんの命を奪ったといっても、これほどの虐殺をしたことはない。




 もちろん、地球とアンリのいた世界で総人口の差があるだろうが、それでも常軌を逸した惨劇だ。




「ああ。世界が便利になるとその分危険性も大きくなる。中々世界はいいとこどりって訳にはいかないみたいだ。悲しいことにね」




「ある意味で、原子爆弾はこの世界の魔王のような存在なのかもしれませんね……」




「そうかもしれない。でも、魔王と違うのは、原子爆弾には意思がないということだ。どこかの心優しい魔王がしたみたいに、殺すのが嫌だと言って、避けることもできない。殺意のある者が望むがまま、たくさんの人を殺せてしまう」




「……だからまだ私の方がマシだとおっしゃるのですか? そのことで私の心が軽くなると思って長崎に連れてきてくださったなら、お気持ちは嬉しいですが、受け入れられません。20万人が千人になったとしても、一人が贖うには重すぎる罪です」




「いや、そういうつもりじゃないんだけど。でも、よく考えたらデートでくるには重た過ぎたかもな。ごめんな」




「いえ――私こそ早とちりしてしまったみたいですみません」




「んー、にしても、全然アイスクリン屋見つからないなあ。やっぱり家に帰ってアメリカのどでかいアイスクリームを食べに行くか?」




「そうですね……。――いえ、せっかくだからもう少し、辺りを見て回って原子爆弾がもたらした被害がどれほどのものか知りたいです」




 ジャンの言葉に頷きかけてから、アンリは意見を翻した。




 どうしてわざわざそんなことをしたいと思ったのかは分からないけれど、それはある種の自罰的な代償行為だったのかもしれない。アンリはもう、元の世界に戻って魔王の犠牲者たちの怨嗟の声を受け止めることはできないから。




「なら近くに資料館があったはずだから、そこに行こう」




「はい」

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