22嫁 獣娘ナミル(8) そして日は昇る
「はあ。はあ。はあ」
夜空に、女の吐く白い息がのぼっていく。
短い呼吸音だけが、周期的にナミルの耳へと届いていた。
距離的には山頂まであと少しとはいっても、ここから傾斜はさらにきつくなる。
体感的には、随分と長く感じることだろう。
「……」
ナミルは敢えて、これ以上女の登り方に口を出さないことにした。
もちろん、女の登山技術はあまりにも未熟だし、本当に危ない時は大声で指摘はする。
しかし、細々とした改善点をいちいちあげつらうのはやめたのだ。
急な勾配の道では、今までのそれよりさらに滑落の危険性が増す。
ナミルの指摘を気にして、目の前の一歩一歩への注意が薄くなる方がかえって危ないと考えたのだ。
そしてなにより、女の山に対する姿勢が、前よりずっと真剣になったことを肌で感じていたから、その勢いに水をさしたくなかった。
「と、鳥居が、見えて、来たわ。これは、あとすこしって、ことよね」
女が息も切れ切れに言う。
「おー、あの雪に埋まっているやつな」
ナミルもあまり詳しくはなかったが、確かジンジャとかいうこの国の教会の目印だったはずだ。
前にジャンと地球に来た時に何度か見かけたことがある。
二本の柱は八割方雪の下に沈んで、今はアーチ状の上の部分だけが頭を覗かせている状況だ。
「なんか、不思議な、感じだわ。神様の、上を、超えていくなんて。これで、私も運命を――っ!」
ズルっ、と。
最後まで言い終わらない内に、女が足を滑らせる。
「――っ。危ないのだ」
ナミルは素早くトロールの皮を脱ぎ、細く長く伸ばしてロープ状にする。
そのまま投げ縄の要領で、トロールの皮を『トリイ』の柱とアーチの間に引っかけた。
それを支えにして、滑ってくる女をがっしりと受け止める。
トロールの皮にしまいきれなくなったお菓子の袋が飛び出して、そこかしこに散らばった。
「ご、ごめんさい!」
「気を抜いちゃだめなのだ」
「え、ええ。でも、あなたの荷物が」
「人のことを気にしてる余裕があるなら前を向くのだ」
「わ、わかったわ」
女が再び登り始める。
(うー。ナミルのお菓子はおあずけなのだ)
ナミルは再びトロールの皮を着込みつつ、散乱する袋を名残惜しそうに見つめた。
お菓子のことは残念だが、この滑りやすい斜面で遠くに飛び散った袋を一々回収している余裕はない。
もちろん、ナミル一人ならば余裕だが、今はこの女のバックアップについている状況だからだ。
「すごい音がしたけど、大丈夫かー!?」
「問題ないのだー!」
振り向くジャンに叫び返す。
ツガイの信頼に応えることが、今のナミルにとっては最優先だった。
一歩一歩、終わりの瞬間が近づいてくる。
空が瑠璃色に染まり始めた。
夜明けが近い。
ザツ。ザツ。ザツ、と。
棘のついた靴で氷を砕きながら。
焦ることも、急ぐこともなく。
冷静に、着実に。
ナミルたちは頂いただきへ足をかけた。
「よしっ。到着だ! 二人とも、お疲れ様! 日の出までは後、5分くらいだ。中々ベストなタイミングだったんじゃないか!」
ジャンがほっとしたように大きく息を吐き出す。
「おー! やったのだ! お前もよく頑張ったな。どうだ。てっぺんまで登り切ったらやっぱり気持ちいいのだ?」
ナミルは女の顔を覗き込んで言う。
「まだよくわからないわ。……でも、さっき、滑り落ちそうになった時ね」
「おー」
「『死にたくない』って思ったの、私。おかしいわよね」
そうぽつりと呟いて、女は笑った。
それは、何かを諦めたようなあの寂しい笑みじゃない。
素直で自然な、おかしみの溢れ出た笑顔だった。
「そんなことないゾ! 死ぬのが怖いのは生き物として当たり前のことなのだ」
ナミルも嬉しくなって笑い返す。
もうこの女は大丈夫だ。
直観的にそう思えたから。
「……日の出、見ましょうか」
「おー! 見るのだ! でも、その前にー、ナミルはお腹が減ったのだー。ジャンー」
しゃがんで何かがさごそやっているジャンに、ナミルは猫撫で声で近づいていく。
「はいはい。じゃあ、これ持って三分待ってな」
ジャンはナミルに、ツルツルした材質でできた軽いフォークと、円筒状の入れ物を渡してくる。
「おお! 何かいい匂いがするゾ! なんだこれ!?」
入れ物は暖かく、湯気に混じって食欲をそそるようなスパイシーな香りが漂ってくる。
どうやら入れ物の中は、お湯が注がれてスープみたいになってるようだ。
「カップラーメンっていうんだよ。ニホンでは山頂でよくこれを食べるんだ。よかったら、あなたもどうぞ」
ジャンは女にも、ナミルに渡したものと同じ筒――カップラーメンを差し出す。
「私も食べていいの? あなたの分が足りなくなったりしないかしら」
「もちろんですよ。ナミルは大食いなので、いつも食料は多めに用意してあるんです」
遠慮する女に、ジャンはカップラーメンを押し付けるように渡した。
1、2、3、4、5、6、7――。
……。
……。
「もう待てないのだ!」
ナミルはカップラーメンの蓋を剥がした。
頑張って60秒くらいまでは数えたのだが、それが限界だった。
食べ物を前にしてただじっとしているだけなんて耐えられない。
「おいおい。まだ一分も経ってないじゃないか。それじゃあ多分まだ麺が硬いと思うけど――」
「美味いのだああああああああああああああああ!」
ナミルはフォークに絡まった麺の塊ごと、一気に口に含む。
歯ごたえのある麺と、ふわふわした卵と、何だかよくわからない肉と、塩気の濃いスープと、それら全てが口の中で一体となる。
とにかく美味い。美味い以外の言葉が思いつかない。
「まあ、ナミルが満足してるならいいか。これも食うか? 店で買った『アットホームパァパ』っていうクッキー」
ジャンが丁寧に、クッキーを小袋から出してナミルに差し出してくる。
「食べるのだ! 甘いのだ! しょっぱいのだ! 美味いのだ! おかわりなのだ!」
『アットホームパァパ』は、ナミルの想像に反して、口に入れた瞬間はしっとりとした食感だった。
だけど中はサクサクで、すごく甘いけど、ほんのちょっと苦くてそれがコクになっている。口の中の水分を持っていかれるようなこともなくて、すごくいい感じだ。
甘いものを食べたら、しょっぱいものを食べたくなるのが当然である。
それでカップヌードルのスープを飲んだら、すぐになくなってしまった。
「ほら。次はシーフード味だ」
ナミルの要求を予測していたかのように、ジャンは次のカップラーメンを差し出してきた。
さすがはジャンのツガイである。
大好き。
「おお! 贅沢なのだ!」
山育ちのナミルにとっては、海で取れる魚は高級品扱いだったので、何となくごちそうというイメージがある。
「ほら。そろそろ日が昇るから、メシじゃなくて前見ろ、前」
前にジャンに連れて行ってもらった海の潮風のような匂いがするそれを無心に口に運びながら、ナミルは顔上げた。
地平線の向こうから、ついに朝日が姿を見せる。
ナミルの故郷よりは少し濃いオレンジ色の光が、世界を染めていく。
ひりつくような寒さの中で感じる、一筋の陽光の暖かさは、今日一日がまた幸福であると、保証してくれているように優しい。
(やっぱり山はいいな)
異世界ではあるけれど、ナミルはこの瞬間が大好きだった。
「なー! どうだー! 美味いし! 美味いし! 綺麗だし! 最高だなー! な!」
テンションが上がって、ナミルは女にそう語りかけた。
「――グシュ。そうね。おいしいわ。スンっ。グシュシュ。すごく。おいしいわ」
女はカップラーメンを口に含んだままの格好で、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにして言った。
落ちた化粧とすっぴんがはちゃめちゃに入り混じったその顔は、はっきり言って不細工だ。
でも、汚くはなかった。
(魔法が解けるのだ)
なんとなくそんなことを思う。
清浄なる朝日は、きっとドラゴンの影すらも打ち消す。
本当の自分の顔と向き合えたなら、そこから、新しい世界が始まるのだ。
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