21嫁 獣娘ナミル(7) 吹雪Ⅱ


「――ジャン!」




 前方のジャンに向かって叫ぶ。




 風の匂いが変わったのを、ナミルの鼻は鋭敏に感じ取った。




 毛がずっしりと重くなる感覚も、天気が変わる時の合図だ。




「ああ。天気が怪しいな。吹雪になるかもしれない。ちょうどもう少しでこの山の一番高い所にある小屋につくから、そこで長めの休憩をしながら様子を見よう」




 ナミルの意図を汲んだジャンが、振り向いて言った。




「吹雪? こんなに星が綺麗なのに?」




 女が天を仰いで呟く。




「山の天気は変わりやすいのだ。右の方から急速に雲が近づいて来てるゾ!」




 女は信じられない様子だったが、無理もない。




 ヒューマンと獣人では視力が全然違うのだから。




 やがて、パラパラと振り始めた粉雪。




 それはすぐに、風と仲良くなって、凶悪な吹雪へと変わる。




 そうなる一歩手前で、ナミルたちは山小屋のある、比較的平坦な土地に辿り着いた。




「そんな、まさか――」




「山小屋の陰に避難しよう」




「わかったのだ」




 建物を風除けにして、ナミルたちは腰かける。




 その間にも、吹雪はどんどん強さを増していく。




 今は建物があるからいいが、このまま登山道に出れば視界が一面真っ白になって、まともに歩けない状況になるだろう。




(これはちょっと厳しいかもしれないのだ……)




 雪の気配が濃い。




 これはちょっとやそっとのことじゃ収まりそうにない。




「……ごめんなさいね」




「何で謝るのだ? 別にお前は何も悪いことはしてないゾ」




 ナミルは首を傾げる。




「だって、私がいなければ二人とも今頃山頂に着いていたかもしれないじゃない。私のペースに合わせていたせいで遅くなったんでしょ」




「別にいいのだ。ナミルは山に登り慣れているから、一回や二回駄目になったところでどうってことないゾ」




 それは慰めでなく、本心だった。




 山の天気は気まぐれだ。登山の途中で危険と判断して計画を中断するのは、獣人にとって当たり前の日常だったから。




「でも、あなたの恋人と一緒にいられる時間はそう多くないのでしょう? そのせっかくの時間を台無しにしちゃったわ」




「別にそんなことないゾ」




 ナミルは女の言うほど、今回の登山が悪いものだとは思っていなかった。




 そりゃどうせだったら頂上まで登りたい気持ちもないではないが、別にジャンと一緒においしいお菓子を食べて、くだらない話をして、帰るだけという一日もそれはそれで幸せだと思う。




「気を遣わないでちょうだい」




「別に遣ってないゾ。大体、まだ諦めるのは早いのだ! 山の天気は変わりやすいのだ! 急に悪くなったら、急に良くなることもあるゾ」




 今度は気を遣った。




 確かに今はナミルの感覚的にも厳しい状況だが、せっかく女がやる気を出して登っているのに、山頂まで行けないのがかわいそうな気がした。




「無理よ。今スマホで調べたけど、明日の午前中までずっと天気が悪いそうよ。この時間に昇ってるってことは、ご来光を見に来たんじゃないの? だったらもう間に合わないじゃない」




 女は手元の小さな箱をいじって諦めたように言う。




「むう……」




 さすがのナミルもそれ以上何も言うことはできなかった。




 女の言う通り、今のままなら朝日を見ることは難しい。




「……昔からこうなのよ。私。いつもあと少しってところで、悪いことが起こってダメになるの。仕事も、恋愛も、全部そう。これが私という人間の運命なのかもしれないわね」




「急に悪いことが起こるなら、急に良いことがあるかもしれないゾ。どうしてそういう風に考えられないのだ?」




「そんなの決まってるでしょ。一度も、その『良いこと』が起こったことがないからよ」




 女はそう言って、またあの寂し気な目をして笑う。




 じゃあ、例えば、今日偶然ナミルたちに助けられたのは『良いこと』に入らないのか、と女に聞いたところで無駄だろう。




 今日女に会ったばかりのナミルでも、それくらいのことは分かる。




(この女に足りないのは、自分で何かを成し遂げたという達成感なのだ)




 ナミルは、ジャンがこの女に敢えて厳しい冬山の登山をさせたがった理由がわかった気がした。




 この女は、今まで失敗し続けてきた。




 実際は、できるようになったこともあるだろうし、成功したこともあるのだろうが、ともかく自分には失敗しかできないと思い込んでる。




 その考えを改めさせるには、とにかく何か目に見える形で『成功』を自覚させてやることが必要なのだ。




 そして、それは今じゃなくちゃいけない。




 ナミルがジャンにドラゴンから助けて貰ったあの時のように、人には、一生を変える瞬間がある。




 機会を逃せば手遅れになる、たった一回こっきりのチャンス。




 今が彼女にとってのそれなのだ。




 このまま女を山から下ろしてしまったら、遠からず彼女はまた死のうとするだろう。




 計画性のない衝動的な自殺だとしても、何回かに一回は成功するに違ない。




 ナミルみたいに分かりやすいドラゴンではないけれど、女には今日、倒さなければいけない敵がいる。




 それは、彼女の心の中にいるドラゴンだ。




 それに実体はなく、本当は大げさに拡大されたトゲネズミの影に過ぎないとしても、今の彼女にとってはまぎれもなくドラゴンなのだ。




「じゃあ、もし、今から急に天気が良くなって、山頂まで辿り着いて、ばっちり綺麗な朝日が見られたら、お前は信じられるようになるのだ? 生きていれば良いこともあるって」




 ナミルは女に顔を近づけて、そう疑問を投げかける。




「そうね。もし、そんな奇跡が起きたら、信じてもいいわ。なに? まさかあなたは吹雪を晴れにできる魔法でも使えるとでも言うの?」




「そんなことはできないゾ。ナミルは魔法使いじゃないのだ」




 そう。できない。




 ナミルは、ただの獣人だ。




 いや、ナミルだけではなく、異世界人の誰も、この精霊の加護の薄いチキュウにおいて、天候を変えるような大規模な魔法を使うことはできないに違いない。




 ただ一人。




 ナミルのツガイを除いては。




 ナミルはジャンにそれと分からないように尻尾を立てて合図をした。




 ジャンも、瞬きを多くして、ナミルに応えてくれた。




 それで十分だ。




 二人の間に、言葉は必要ない。




「ごめん。ちょっと裏で携帯トイレを使ってくるよ」




 ジャンはそう言って立ち上がる。




 ナミルもそれに合わせて立ち上がった。




「どうしたの? あなたもトイレ?」




「違うゾ。魔法は使えないけど、故郷に伝わるおまじないを試してみようと思うのだ。山に向かって、思いっきり『晴れろー!』と叫ぶのだ。お前も一緒にやるのだ」




「いいわよ。気休めでしょ」




「いいからやるのだ」




 ナミルはやや強引に女を引っ張って立たせる。




 ジャンの向かった方向とは反対側――つまり山側を向かせた。




 ジャンはこれから魔法を使う。




 天候を変えるほどの大魔法となればかなりの音や光が出るから、女の意識を別の所に向けておきたい。




 もちろん、認識阻害の魔法がすでにかかってるから、そのままでも女に魔法を使ったことがバレるようなことはありえないと思うが、念のためだ。




 それに、どうせ奇跡を起こすんだったら、女に、自分もそれに加わったと思わせた方がいい。




「じゃあ行くぞ。『晴れろおおおおおおおおおおおおおお!』」




「ちょっ。あなた、どんだけ声がでかいのよ! 鼓膜が破れると思ったわ!」




 女が肩をビクっとさせて抗議してくる。




 そんなことを言われても、遠吠えは獣人にとって、仲間と連絡を取るにも、モンスターを威圧するにも必要な基本的なスキルだ。自然と声が大きくなってしまう。




「気にするな。一緒に叫べば、うるさくないゾ」




「どういう理屈よ。まあいいわ。『晴れろー!』」




「それでいいのだ! もっと大きな声の方が、お星さまに届くゾ。『晴れろおおおおおおおおおおおおおおおお!』」




「ああうるさい! もういいわ! こうなりゃヤケよ! 『晴れろおおおおおお!』」




「いい感じだゾ! 『晴れろおおおおおおおおおお!』」




「ああもう! だからうるさいいいいい! 『晴れろおおおおおおお!』」




「『晴れろおおおおおおおおおおおおおおおお!』」




 ナミルと女の叫びが、降り積もった雪に吸い込まれていく。




 そして――




「嘘……でしょ。こんなことって……」




 再び輝きを取り戻した満天の星空に、女は絶句する。




「ほらみるのだ! 良いことがあったゾ!」




 女の肩をバンバン叩きながら、ナミルは破顔する。




「みんな。空を見たか? 晴れてるよ。こんなこと、俺も初めてだ」




(やっぱりナミルのジャンは最高なのだ)




 自分の功績を誇るでもなく、とぼけた顔で戻ってくる愛しいツガイを、ナミルは心から頼もしく思った。

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