二、囲炉裏火に手負う
男が食材を買い終わる頃には、日はすっかり傾いていた。止んだ吹雪の間から、赤い夕日が顔を出す。それから鬱陶しげに目を背け、あばら家への帰路を急いだ。吹雪が無いと紛れにくく、誤魔化すことができないからだ。わざと雪に埋もれながら進むと、松林に武者たちが屯していた。
「汝は……さきの旅人殿?」
「こんな雪山にいかがなされた」
武者たちが一斉に男の方を向く。干し肉を頬張る者、手に息をかけ温める者など様々だ。皆一様に雪山へ行くための準備をしている。腰には業物であろう太刀を下げ佩き、数珠を持っていた。ひどい匂いがする。
「古里に帰ろうかと思って、山越えをしている次第でございます」
「山越えか……。この雪山には今、鬼がいる。ひとりで行くのは危ないかと」
「おに、ですか」
「ああ、鬼だ。これからは人ならざるものの時間。もし登るのだとしても、用心召されよ」
武者たちは、男に魔除けの匂い袋と松明を持たせた。匂い袋と言っても、男にとっては先程から漂っている醜悪極まる腐臭にしか感じられなかったのだが。
渡された松明は、あまりの熱さに火傷を負い雪の上に落としてしまった。訝しがる武者たちに、男は火傷を見せながら霜焼けを負ったと誤魔化した。
松明を断ってあばら家に急ぐ男に、若武者が無理矢理同行した。男の代わりに松明を持ち、襲いかかってきた獣を太刀で排除しながら先へと進んだ。ふたりの間に会話は無く、ただ雪を踏みしめる音と深い暗闇のみ残った。
ふと、積もり積もった雪の先、温かい光が見えた。ゆらゆらと揺れるそれは、男のあばら家から漏れた光だった。空いた戸に、女がいた。
「まあ、おまえさま。お帰りが遅うございますよ」
「お前、なぜ、外に出たんです」
「なぜって――ぇ?」
女の浮かれた声が、上擦って止まる。男の後ろ、若武者がカチリと鯉口を切った。女が、一歩下がる。雪の中からぞろぞろと、武者たちが現れた。
「おい、その香は何でできていると思う」
「さあ、私はてんで詳しくありませんで。あまりいい香りではありませんね」
「――ぁ、お、おまえさま、伽羅でございます……! 香は沈香の伽羅でございます!」
「湯をもて!」
とっさに逃げようとした男の、笠と蓑が無理矢理剥ぎ取られた。掴まれた長い髪に、湯気立つ湯がかけられる。髪の黒がさらさらと落ちていく。女が、少しずつ水になっていく男を恐怖の眼差しで見つめた。ぐっしょりと湯に濡れ浅く息をする男は、そのことに少し失望しながら重い体を引きずってあばら家に逃げ込んだ。
囲炉裏には、まだちろちろと火が灯っている。それを避けるように部屋の隅に座り込み、部屋中を雪で満たした。普段は容易に消せる囲炉裏火すら消すことはできず、溶けていく体を雪にあずけ、冷やして元に戻していく。男が頼れるものは、雪のみだった。
そのまま持ってきてしまった匂い袋からは、沈香の香りが漂う。そしてその香りが、男の体力をじわじわと削っていった。人間にとっては至福の香りであるそれが醜く感じることに、男は一抹の寂寥感を覚えた。雪の壁の向こうからは、湯や火で雪を崩そうとする武者たちの喧騒が聞こえてくる。
朦朧とする意識の中、男は一筋の光を見たような気がした。突如、左眼が焼けるように痛む。男が左眼を触ると、手に、熱い金属が触れた。
「届いた! 届いたぞ!」
武者たちの、歓喜の声が聞こえる。男は金属の棒を引き抜くと、雪に身をあずけて金属の棒――熱された槍を床に突き立てた。
男は、雪に向かって手を伸ばす。雪に縋り、祈る。白い波が、あばら家も、槍も、武者も、女も、すべてを飲み込んでいった。
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