三、がらんどうのゆめ

鉄ノ雨ガ 降ル 

ボトボト 降リ注グ


朋ノ悲鳴 怒号 

痛イ 苦シイ 怖イ ト 泣ク声


命ガ溢レル


塹壕カラ出タ 朋ノ頭 赤ク染ル


命ガ溢レテイク



鉄ノ雨 声 朋 命


全部 赤 ク




寒イ 見エナイ 嫌ダ――――




「万緑!」

 唐突に聞こえた声に、髪の毛ボサボサのけむくじゃら男は飛び起きた。勢い余ってベッドから転げ落ち、強かに頭を打つ。ベッドのそばに立つ老紳士が呆れたように見下ろしているのを、男は妙にほっとした気分で眺めた。

「お前、どうしたんです。そんなにうなされて」

「ああ、いや、たぶん昔のをな」

「昔って、お前に夢見るような記憶はないでしょう」

「ああ、まあ」

 男には、石畔万緑には記憶がなかった。大正の世になる少し前、ただ「石畔」という苗字と確かな医療技術、元軍医という記録だけ持って喫茶店の前に転がっていたのだ。「万緑」とは、この喫茶店兼住宅を所有する老紳士のつけた名だった。

 そのことを思い出して渋い顔をする男を無視して、老紳士が無遠慮に部屋のランプをつける。

「あなたの夜食を持ってきたらこれですよ。医者の不養生も大概になさいな」

「無茶言うんじゃねぇよ」

 男は脂汗を拭った。最近、妙に同じ夢を見る。硝煙と砂塵、濃い血の匂いがする、薄暗くて赤色の夢だ。

 不機嫌そうに細まった老紳士の色違いの瞳に、迷子の子どものような男の顔映りこむ。男は、あまりにひどい自分の顔色を嘲笑った。

「俺はきっと、生ける地縛霊かなにかだな」

「なんです、いきなり」

「どうだ、手も足も透けてたり?」

「お前らしくないですよ。そんなにこたえましたか」

 老紳士の淹れた茶の匂いが、夢で嗅いだ硝煙の残り香を消していく。おにぎりを掴んだ男は、ひとくち頬張って頬を緩ませた。寄る辺のなかった虚ろな瞳が、安心したように瞼を下ろす。

「落ち着きましたか」

「ああ、迷惑をかけた」

「その自覚があるんならあの子の傷をはりきって治しなさいな」

 開けっ放しになっていた窓から、涼しい風と銀杏の葉が入り込む。つまらなそうにあくびをした老紳士の手の上に、銀杏の葉が触れた。

「さ、それ食べたら寝るんですよ。」

「暮雪……本当に丸くなったな」

「さあ、何のことだか? 今日はゆっくり寝なさいね」

空になった食器をおぼんに乗せて、老紳士が部屋を出る。控えめな足音を聞きながら、ランプの灯を落とした男はうとうとと瞼を下ろした。

 少しだけ開いたカーテンから、穏やかな月の光が降り注ぐ。ほのかに照らされた男の寝顔は、久しぶりに穏やかだった。

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