二、灯火親しむ

 ランプの灯が、ちろちろと揺れる。温かい灯火に照らされた喫茶店で、一人の少年がノートに何事か書いていた。テーブルには、神保町で買ってきた教科書が並んでいる。怪我で受けることのできなかった約1ヶ月分の勉強を、なんとか取り戻そうとしているのだ。

 その静謐とした空間に、革靴の音が響き渡る。手にホットミルクの入ったカップを持って少年の前に座ったのは、この店のマスターであるヘテロクロミアの老紳士だった。

「敬太郎、お疲れ様です」

「田端さ――じゃなくて暮雪さん!」

「何を勉強しているんです? ああ、今昔物語集と……数学かな?」

「はい。やっぱり1ヶ月経つと講義の進みが早いですね」

 少年が目元をこすりながらへらりと笑う。かなり長い時間勉強していたのか、その瞳は少し充血していた。

 ランプの灯が、やんわりと揺れる。少年の丸い頭を、ひんやりとした手がふわふわと撫でた。その手に身を委ねた少年が、ほぅ……と息を吐く。

「今日は、なにか面白いことはありましたか?」

「あ、いえ、特には。……あ! そういえば、今日話した教授が元陸軍軍医の方でしたよ!」

「ほう、万緑と同じですか」

「お世話になっている先生のことを聞かれたので石畔先生のことを話したんですけど、同じ名字の人が上司にいたから、そのご遺族じゃないかって」

「ご遺族ですか……」

 老紳士の手が少年の頭から離れる。そしてホットミルクを、いっしょに持ってきたマドラーでくるくると混ぜ始めた。これは、少年が最近発見した、老紳士の癖だ。何かを考えている時、必ず手元で何かを弄りはじめる。今回もそのようで、少年が目の前で手を振っても、ぼんやりとしたまま気が付かない。

 そして数分後、老紳士によってちょうどいい暖かさにされたホットミルクを飲みながら、少年が首を傾げた。

「暮雪さん……? どうされたんですか?」

「ああ、いえ一寸気になることが。いつか全て話しますから、どうか気にしないで」

 老紳士が、薄らとした弱々しい笑みを浮かべる。何かを隠しているのは明白だが、少年は老紳士を信じることにした。

 老紳士の美しい手を少年が上から握る。相変わらずひんやりとした手が、固く強張っていた。

「わかりました、暮雪さん。僕はあなたを信じます。いつか教えて下さいね」

「……ありがとう、敬太郎」

 少年が机の上を片付け、立ち上がる。そして膝にかけていた毛布を老紳士の肩にかけた。少年の背は、この喫茶店に来たときよりも少し高くなっていた。

 少年が、丁寧にカップを洗う。さらに心身共に美しくなった少年を、老紳士はぼんやりと見つめた。

「暮雪さん?」

「ああ、いえ、失礼。大きくなりましたね、敬太郎」

「あはは、まだ1ヶ月しかたってませんよ、もう」

「爺にとって1ヶ月は早いんですよ。これはいつか越されますね」

 少年の皿洗いが終わったのを見計らって、老紳士が席を立った。老紳士が右側に、少年が左側に、それぞれの弱点を補い合うように歩く。ランプの灯る廊下に、ふたつの影が寄り添った。

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