第三章 陽光にほころぶ雪

一、秋澄む淀む

 講義が終わった学生たちが、にぎやかに講堂から漏れ出てきた。少し長くなってきた陽が、ベンチに落ちたもみじを照らしている。穏やかな、秋澄む昼だ。

 ある教授の部屋で、右耳にガーゼを貼った少年が、おずおずとだし巻き卵を口にした。硬かった表情が、幸せそうに綻ぶ。その笑顔に、書類の整理をしていた教授が微笑んだ。

「高崎、それはどこの料理屋のものかな?」

「ええと、最近お世話になっている下宿先のものです」

「ああ、そういえば義弟が言っていたね。久しぶりの講義は楽しかったかな?」

「はい、とても!……その、少しついていくのが大変でしたが、阿形が教えてくれました」

「アレはいい先輩だからね。いくらでも頼りなさい」

「はい!」

 少年の手元には、少々豪華な弁当があった。丁寧に整えられただし巻き卵に、流行りの牛鍋が添えてある。少年がアルミ製の水筒を開けると、柔らかなコンソメスープの香りが部屋いっぱいに広がっていった。

 少し開いた窓から秋風が吹き込み、机においてあった本の頁がぱらぱらと捲れる。部屋の重厚な扉が、コツコツと叩かれた。

「失礼します。三年の阿形です」

「どうぞ」

 扉を開けて入ってきたのは、少年にとってもはや親友となった青年だった。二歳年上の先輩だが、その年齢差を感じないほどに仲が良い。

 青年は入ってくるなり、部屋に広がるコンソメスープの香りを嗅ぎとって不満そうな顔をした。

「高崎ィ……」

「なに?」

「また田端さんにおねだりしたな? 最近多くないか? なんでだ?」

「別におねだりしたわけじゃないけど……ふふふ」

 少年の頬が淡く染まる。それを見た教授が不思議そうな顔をした。甘ったるい空気が、そこら中に漂っている。

 青年がそれを払拭するように、少年の向かいのソファに勢いよく座る。机の上に風呂敷に包まれた箱を置くと、疲れたようにぐったりとソファに横たわった。青年の長い脚が、ソファからはみ出して、ゆらりと揺れる。教授の眉間に、深い溝が刻まれた。風呂敷包を右手で持ち上げて、教授がつぶやく。中身は、青年の薬箱だ。

「希仁、またあの医者のところに行っていたのか。 きちんとお礼はしたのか? 今度その医者のところに連れて行きなさい。私も挨拶を――」

「はぁ? いいだろ、義兄貴が行かなくたって」

「いいや、いかなければならない。私は、君のお姉さんに君のことを頼まれているんだよ?」

「はっ!お姉さん、お姉さんって、相変わらずゴム下駄みたいな野郎だな。返せよ、それ」

「希仁! そんな言葉一体どこで覚えて――待ちなさい!」

 青年は教授から薬箱をひったくると、教授を一睨して、教授室を出ていった。青年の肩を掴もうとした教授の右手が、虚しく空を切る。思わず食べる手を止めていた少年の前には、きまずさだけが残った。青年と教授の仲は、あまり良くないようだ。

「すまないね、高崎くん。みっともないところを見せてしまった」

「いえ、お気になさらず。阿形がああなのはいつものことですから」

「あの子は……君の下宿先でも迷惑をかけているのか」

「あ、いえ! そういうわけではなくて……!良くしてくれています」

「そうかい。ならいいんだ」

 遠い階下からは、学生たちの賑やかな声が響いている。その中に、同級生に混じっていく青年の声が聞こえてきた。物悲しい風が、また頁をぺらぺらとめくる。

「そういえば高崎くん」

「なんですか?」

「君と義弟を診てくれている先生はなんと言ったかな? あの子は嫌がるだろうけど、今度ぜひ挨拶に行きたくてね」

「あ、はい。石畔万緑先生です。元陸軍軍医だったそうで」

「元陸軍軍医の石畔……」

「あの、先生? もしかしてお知り合いですか?」

「ん? ああ、いや。私も怪我で退役する前は陸軍軍医だったのだがね。ほら、私には見ての通り左腕がないだろう? その時の上司に同じ名字の方がいらっしゃったんだ」

 教授の右手が、机の引き出しに入れた真鍮製の認識票を取り出す。鈍く光ったそれは丁寧に磨かれているものの、どこか赤黒い。きっと、遺体から取り出した時に染み付いたのだろう。教授の左の袖が、風に揺れている。

「私の知っている元陸軍軍医の石畔さんは上司だけなんだが、彼は殉職したんだ。君の言う石畔さんは彼のご遺族かなと思っただけだよ。気にしないでくれたまえ」

「む、わかりました」

 少年が、コンソメスープの入ったアルミ製の水筒をゆっくりと傾けた。なんとも、穏やかな午後だ。構内に棲むアオゲラのぴょうぴょうと鳴く声が、秋の訪れを呼びかけた。

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