三、恋をする
ひんやりとした手が額に触れた気がして、少年は目覚めた。体がゆらゆらと揺れている気がして、すぐそばのひんやりとした何かに体を寄せる。ひんやりとした手に、ゆっくりと、頭を撫でられた。
「高崎くん、まだ眠いでしょう。もう少し寝ていなさい」
少年はその優しい声に首を振って、半ば無理矢理目を開ける。日はとっぷりと落ちていて、暗い廊下を移動しているようだった。左耳に伝わる老紳士の鼓動が、とても心地よい。体を起こして首にしがみつくと、ふわふわとした笑い声が聞こえてきた。
「眠いのなら、寝てしまっても良いのですよ?」
「いやです。お仕事手伝います」
静かな廊下に、老紳士の控えめな足音とふたり分の息づかいが響く。少年は老紳士の穏やかな鼓動を聞きながら、不安そうに老紳士を見上げた。老紳士の色違いの瞳が、気遣わしげに細まる。
「あなたは怪我人なのですから、もう少し休みなさい」
「でも、ここで働くことを条件に住んでいるのに」
「ああ、そのことですか」
少年の部屋の前についた老紳士が、少年を抱いている腕を器用に動かしてノックする。すると、扉が開き、普段は毛むくじゃらの医師が整った格好で出てきた。医師は少年の顔色を見て頷くと、ベッドを指差す。老紳士は少年をベッドの上にゆっくりと寝かせて、そばの椅子に座った。
「暮雪、どうだった?」
「ふふ、首尾は上々ですよ、万緑」
「それは結構だ。お前、本当に怖いな」
「ハハハ、まさか!」
医師が少年を診察し、カルテに細々と書いていく。居眠りして食後に来なかったことは、なぜか咎められなかった。
「暮雪、今日の夕飯は野菜を多めにしてやってくれ。俺は他の診察があるから、今日は家で食べるわ」
「ええ、わかりました。」
「高崎、ちゃんと薬飲めよ? じゃ、また明日〜」
医師は少年に毛布を掛け直して、のんびりと出ていった。いつの間に履き替えたのか、下駄のカラコロと鳴る音が遠ざかっていく。
賑やかな人がひとり減って、部屋に静寂が訪れた。老紳士は医師が置いて行った資料を読んでいる。少年が、そっと老紳士に話しかけた。
「あの、田端さん」
「ん、どうしましたか?」
「本当に今日は何もしなくていいんですか?」
「ええ、だってまだ痛いでしょう? それと後で伝えようと思っていたのですが、あなたの下宿先から正式にあなたのことを任されましてね。だから働く必要は――」
「本当ですか!? でもなんで――うわ!」
勢いよく起き上がった少年が、危うくベッドから落ちそうになった。それを老紳士が笑いながら受け止め、ゆっくりベッドに戻す。
喜びのあまり老紳士に抱きつく少年の左耳に、ひやりとした息が触れた。少年の鼻腔が、ほのかに甘い香りを感じ取る。老紳士が、囁きかけた。
「もちろん、高崎くんが特別だからですよ」
柔らかな笑い声が、左耳に手をやる少年から離れていく。少年の心臓が煩く音をたて、じわじわと頬が熱くなった。思わず瞑っていた目を開けると、老紳士は扉の前で困ったように微笑んでいた。
「ああ、困った。自惚れてしまいそうな反応ですね」
「あ、あの、特別ってどういう……」
「そういうことですよ。では、私はお夕飯を作ってきますので。楽しみにしていてくださいね?」
老紳士が部屋から出ていく。その控えめな足音が聞こえなくなっても、少年の心臓は煩いままだった。
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