二、後を担う

 浅草の外れを、ふたりの男が歩いていた。昼下がりの賑やかな定食屋を通り過ぎて、一軒の下宿宿の前で足を止める。ひとりが手に持ったステッキに体重をかけ、たまたま庭を通った夫人に呼びかけた。

「失礼。こちらで人探しをしているとお伺いしたのですが」

「なんだい。冷やかしなら帰っとくれ……あ! あの時の学生さん!」

 下宿宿の夫人が、ステッキを持った老紳士の隣、分厚い手帳を持った青年を見て声をあげる。青年はにこりと品のいい笑みを浮かべた後、夫人に向かって軽く会釈した。

「あの後、少し事情があって離れてしまいましたので。ご心配おかけしてすみません」

「いえいえ、ご無事ならそれでよろしゅうございます。それで、こちらの方は?」

「ああ、ここ2週間お世話になっていた田端暮雪さんです」

「あら、そうなんですね。どうぞよろしくお願いします」

「こちらこそ、よろしくお願いいたします」

 庭にはまだ微かに血痕が残っていた。夫人が、それに急いで砂をかける。昼下がり、温かい風が吹くが、下宿宿の空気は冷ややかなものだった。

 青年があたりを見回して、わざとらしく首を傾げる。

「ところで、ご長男は? 彼に確認したいことがあるのですが。」

「あの子ならとっくにお縄につきましたよ。まったく、とんでもない事をしでかして」

 夫人が、素知らぬ顔でため息をつく。青年の手に力がこもり、手帳がみしりと鳴いた。そうとも知らず、夫人が下宿宿の中に招く。屋敷の奥から、口喧嘩が聞こえてきた。

「さあさあさあさあ、お上がりください。ちょっと、あんた! お客さん来てるんだから静かにしてくんな!」

「奥さん、ご次男のお怪我はどうです?」

「ああ、おかげさまで。今はもう元気なもんですよ。みささーん! お客様にお茶をお出しして!」

「はーい!」

 通された居間には、賞状や勲章が飾られていた。そこそこの名家のようだ。廊下から足音が聞こえ、頭に包帯を巻いた青年が居間に入ってくる。彼が、件の次男のようだ。

「阿形さん! 先日はありがとうございました!」

「いえいえ、元気になられたようで幸いです。こんな若輩の知識が役に立って良かった」

 青年が次男と談笑している間、老紳士は茶を飲みながら部屋を静かに見つめていた。そして何かを見つけて、薄っすら微笑む。

「ところでお二人共、今日はどんなご用で?」

「ああ、先日お宅に下宿していた高崎が失踪したでしょう? こちらの方でも探していたのですが、彼を見つけたので荷物を取りに伺いました」

「た、高崎が? 両親からは外泊と聞いているのですが。なぜ荷物を?」

「あれ、ご存知ない?」

「ええと――」

 次男が答えようとした時、居間の襖が開いて下宿宿の主人が入ってきた。何かに焦っているようで、主人はしきりに貧乏ゆすりをしている。

「お、お引き取りください! お引き取りください!」

「なぜです? 荷物を取りに来いとおっしゃったのはそちらのご長男ではないですか。それを良しとしたのはご主人でしょう」

「い、いいからお引き取りくださいってば!」

 主人が青年の腕を引っ張る。その拍子に、手帳が落ちて開いた。偶然にも、この下宿宿で怪我を負った少年の容態について書かれたページのまま、次男の前に転がる。

「ああ、失礼。それは田端さんの知り合いの元軍医と診ている、友人のカルテでしてね」

「これは高崎の? ……右耳の鼓膜及び、な、内耳の損傷? な、なぜ――」

「や、やめろ! いいからお引き取りを!」

 青年が、カルテの備考欄を指差す。それを見た次男は、勢いよく立ち上がって二階に向かった。

 その後を追おうとした主人の前に、勢いよくステッキが飛び出る。老紳士が、のんびりと階段の前に立った。

「おやめになったほうがよろしいかと」

「な、何がだ! 他人には関係のないことですので、お客人は口出し無用ですぞ!」

「高崎くんの怪我は鼓膜の損傷だけではありません。四肢の捻挫に、右内耳損傷による目眩、発熱、右耳からの出血……。ああ、それと本人は捻挫のせいだと思っていますが、右足に麻痺が残っていましたな。このままここに下宿させていては、かなりの治療費がかかりましょう」

「何がおっしゃりたいんです」

老紳士はにこりと笑みを浮かべ、主人に紙の束を差し出した。それは、先程老紳士が居間で見つけた、借金の借用書であった。そこに書かれている額は、とても下宿宿をしている人間が返せるものではない。

「賭けに負けでもしましたか。いっそのこと、下宿ごと辞めてはいかがです」

「で、ですが――」

「人脈は後でも築けるでしょう。高崎くんは私がお預かりしますよ。そうすればあなたも心置きなく借金を返せる。どうです?」

「……ええ、そのように。高崎のこと、よろしくお願いいたします」

「ええ、もちろんです」

 自らの手の中にある膨大な借用書を見て、主人ががっくりと肩を落とした。2階から、3つの風呂敷包を持った次男が降りてくる。そのうちふたつを青年が受け取り、中身を確認した。

「阿形さん。高崎の荷物はこれで全部です」

「確かにそうです。ありがとう」

「あの、田端さん。高崎に、今度謝罪しに行くとお伝えください」

「わかりました。その時は阿形に電報を」

「はい。よろしく、お願いいたします」

 下宿宿の住人に会釈して、ふたりの男は下宿宿から出た。のんびりと歩くふたりの横を、自転車に荷物を積んだ次男が追い越していく。住人の減った下宿宿から、誰かの金切り声が聞こえた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る