第二章 他人の恋路
一、水滴が滑る
甘いミルクの香りが漂う喫茶店で、ふたりの学生が談笑していた。ひとりは珈琲を、ひとりは梅ジュースを飲んでいる。壁の時計はちょうどおやつ時を示しているが、ふたりの学生以外に客はいない。時折人は通るものの、窓からちらりと中を見て去っていくのみだ。
それもそうだろう。ふたりの学生のうち珈琲を飲んでいる方の青年が、かなり凶悪な笑顔で手に持った手帳をぶんぶんと揺らしているのが丸見えなのだから。
「なあ、なあ高崎! 信じられるかよこんなの! 傑作だ傑作! はははは、笑えてくるぜ!」
「笑う状況か?」
「笑うしかないだろう」
「そんな怖い顔で言われてもなあ。なんか今日は変だよ、阿形」
凶悪な笑顔を浮かべている青年とは違い、梅ジュースを飲んでいる書生服の少年はのんびりとした様子だった。ちびちびと梅ジュースを飲んでいる。
「だいたいなぁ。なんで当事者がそんなにのんびりしてるんだよ!」
「あ、オムネツ!」
「おい聞けよ」
「田端さん! 今日のまかないはもしかしてあのオムネツ入りですか!?」
「聞けよ。オムレツだよ」
「ええ、そうですよ。西班牙旅行で習得したものなので他ではあまり見ないオムレツですがね。お好きなんですか?」
「はい! オムネツ好きです!」
学生ふたりがカウンターに移動する。カウンターの上は、先程少年が反応したオムレツやポークカツレツ、ビーフスープがあった。少年用の皿の飾り花が明らかに豪華なものだったが、青年はそれを見なかったことにしてそっと目を逸らす。最初は驚いていたが、毎回こうなので慣れてしまったのだ。
予備の椅子を引っ張り出して学生たちの向かいに座ったヘテロクロミアの老紳士が、気まずそうな顔をする青年にホットミルクを差し出す。
「どうしましたか、阿形くん。先程何か叫んでいたようですが」
「あ〜、とりあえず、これ見てください」
青年が、先程ぶんぶんと揺らしていた手帳を老紳士に手渡した。しおりの挟まれた頁をじっくりと読んだ老紳士が、貼り付けたような笑顔のまま手帳をパタンと閉じる。店内に、冷ややかな空気が漂ったような気がした。
「あの、田端さん……?」
「ん、どうしました? 今日も高崎くんの髪の毛はつやつやでいいですねえ」
「あ、ありがとうございます」
少年の頭に老紳士の涼やかな手が乗り、いつもより多めにぽふぽふと上下する。それに少年が目を細めるのも、もはや日常と化していた。
一通り撫で終わった老紳士が、手帳を青年の前に置いて立ち上がる。
「高崎くん、阿形くん。私は用事ができたので、先に食べててくださいね。何かあったらあの医者を頼りなさい」
「はい、いただきます!」
硝子のカップにいつの間にかできた結露が、テーブルに向かって滑り落ちる。老紳士は貼り付けたような笑顔のまま、従業員専用口に入っていった。それを、手帳を回収した青年が急いで追いかけていく。
「待って、俺も行きます!いいか、高崎。それ食べたらすぐDr.石畔のところに行くんだぞ」
「阿形の分は?」
「後で食べる!」
従業員専用口が、バタンと閉まる。喫茶店の中、ぽつんとひとりになった少年は、首を傾げながら黙々と昼ごはんを食べ続けた。大好きなはずのオムレツが、心なしか味気ない。
ゆっくりと昼食を食べた少年は、皿を丁寧に拭いみがき粉で皿を綺麗にしていく。以前は全くできなかった皿洗いも、だいぶ板についてきた。美しく磨きあげた皿を掲げ、そこにいるはずの人に声をかける。
「田端さん、綺麗にできましたよ!」
返る声はない。横を見てはっとした少年の腕が、ゆっくりと下がる。そして1時間前まで老紳士が座っていた椅子に座り、ゆっくりと目を閉じた。
昼下がりの日差しが、カウンターで眠る少年を温める。普段は賑やかな喫茶店に、寂しげな寝息が広がった。
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