三、珈琲が冷める

 フィルターの上の挽きたて豆の真ん中に、そっと湯が刺し入れられる。美しい老人の手が、湯が小さな円を描くようにケトルを動かして、豆がぶわりと一瞬膨らんでから蓋をした。

 それを見ていた学生服の青年が、不思議そうな顔をしてつぶやく。

「珈琲はそうやって淹れるのか」

「おやお客さん。淹れるのを見るのは初めてですか」

「まあ、そりゃ、普段は興味がないので」

「そうですか」

 老紳士がドリッパーにした蓋を取り、またくるくると湯を注ぎ始める。何回かに分けて注いだ後、珈琲を受け止めていたサーバーを傾けて、カップに珈琲を注いだ。

「さて、書生さん。ご用件は?」

「友人を、探してほしい」

「はあ、ご友人を。警察や探偵には相談したんですか」

「いえ、まだです。あいつは、俺が見つけなきゃいけないんだ」

 青年は相当思いつめているのか、普段生気に満ちているであろう瞳が暗く淀んでいる。老紳士が作り笑いのまま、青年の前に珈琲を置いた。

「はい、どうぞ」

「ありがとうございます」

「見つけなきゃいけない、ですか。詳しいお話を伺っても?」

「3日前、友人が行方知れずになったんです。浅草近郊の下宿宿で殺人未遂があったのはご存知で?」

「ええ、聞き及んでいます。」

 老紳士が席を立ち、カウンター横のラックに手を伸ばす。そして雑誌の群れの中から、適当に新聞を引っ張り出した。長い指がするすると紙面を走っては、捲っていく。指の潤いが足りないのか、指先を時折おしぼりで湿らせている。

 目当ての記事は、売れていない新聞の、長門施工の記事の下に小さく書かれていた。

「ああ、ありましたね。ええと――」


“浅草近くの下宿宿で痛ましゐ殺人未遂事件があつた 住民夫婦はお伊勢参りに行つてゐたので知らぬ存ぜぬのやうだ 殺人を阻止したりつぱな帝大学生達は行方知れずで住民夫婦は行方を探してゐる”


「これですか?」

「ええ、それです」

「この“りつぱな帝大学生達”がお客さんとご友人ということですか」

「おそらく。俺も怪我の対応をした後にすぐ探しに出たので行方知れず扱いになっていますが、真に行方知れずなのは友人のほうなのです」

 青年が手に持った手帳を開くと、汚いメモの横に1枚の集合写真があった。青年が集合写真の一角を万年筆のキャップで示す。そこには、数日前に老紳士が拾った少年が写っていた。横の汚いメモをよく見ると、“高崎敬太郎”と書いてある。

「お客さんは、なぜ自分で探そうと?」

「なぜって……」

「警察に任せてしまったほうが懸命ではないですか」

「それは! ……それは、無駄です。あの下宿宿の兄弟はしょっちゅうああいう喧嘩をしているらしくて……」

「警察に従って下宿先に帰ったらまたこうなる可能性があると?」

「はい。これを見てください」

 青年が手帳のページをめくると、例の下宿宿で起きた兄弟喧嘩がびっしりと書かれていた。様々な理由、様々な方法で、定期的に騒動が起きている。それらが煮詰まって、今回の殺人未遂が起きたようだ。

「俺は、あいつに会えたら下宿先を変えるように提案するつもりです」

「その後は?」

「それは……」

店内に、沈黙が満ちた。珈琲の湯気が徐々にゆるくなっていく。青年には、この店が妙に寒く感じた。それは青年が緊張しているのか、外で雨が降っているからか、それともこの老紳士が――

「おい、暮雪ぼせつ! ……っとすまない。対応中だったな」

「いえ、大丈夫ですよ。どうしました?」

「あ〜、あいつがな?」

「その話ですか。一寸待ってなさい」

 考え込む青年の額を、老紳士のひんやりとした手が突く。驚く青年にチョコレヰトを差し出して、老紳士が淡く笑った。

「なぜ、そんなにご友人に会いたいんですか」

「あいつは大切な友人だから。他に理由はいるか?」

「いいえ、十分です。書生さん、お名前は?」

阿形希仁あがた まれひとだ。阿吽の阿に形、希臘の希に仁」

「ありがとうございます。ちょいと、万緑ばんりょく!」

 老紳士が白衣を着た男を呼び、何事か囁きかける。それを聞いた白衣の男は、ひとつ頷いて従業員専用口に吸い込まれていった。

 ことりと、青年の前に梅ジュースが置かれる。浮かぶ氷がカラリと揺れて、老紳士が口を開いた。

「阿形さん」

「……なんですか」

「大変奇遇なのですが、私先日書生さんを拾ったんですよね」

青年の目が大きく見開かれ、瞳に光が宿る。その変化を、老紳士は面白そうに見つめた。

 珈琲の湯気は、ぴったりと止まっていた。従業員専用口の向こうから、楽しげな笑い声が聞こえてくる。

 窓の外の朝霧は、もう消えていた。

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