二、金貨を迎える
その日、喫茶店ミルヒはいつもより静かであった。原因は、かれこれ一時間ほど続いている電話である。ヘテロクロミアの老紳士が電話代を思い浮かべ、困ったようにため息を吐く。それを聞いた電話の相手が、慌てたように謝った。
「す、すみません!」
「お客様、謝らないでください。それで、本当の事なのですね?」
「ええ、本当のことですわ。私がもっとお父様にきつく言っておけばこんな事には……」
電話の相手がしくしくと泣き始める。また長くなる、と面倒くさそうな顔の老紳士を、けむくじゃらのゲタ男が面白そうに見ていた。
壁時計は午前九時過ぎを示している。本来は開店時間だが、そんな余裕は老紳士になかった。書生の少年が従業員専用口から心配そうに顔を出すが、それにすら気が付かない。けむくじゃらのゲタ男が少年を手招いた。
「お気になさらないで。対策を怠っていたこちらのせいでもあります。ほら、泣かないで。また今度、許嫁さんといらっしゃってください」
「はい、はい。ありがとう存じます、ありがとう存じます」
「では、電話を切りますよ? よろしいですね?」
「はい、はい。お世話様でした」
老紳士が電話を切り、足早に店のドアに向かった。それを少年が追う。手足の怪我がまだ治っていないのか、覚束ない足取りだ。
「あの、田端さん」
「ああ、高崎くん。ブランチはもうちょっと後でいいですか。これからお客さんが来ますから、あなたは休んでいなさい」
「なにか、お手伝いできることはありませんか」
扉を開けようとする老紳士の手が止まり、梅ジュースに入った氷がカラリと揺れた。少年が緊張したように、ガーゼの貼られた右耳を触る。けむくじゃらのゲタ男は、相変わらず面白そうに老紳士を見ている。
老紳士がくるりと振り返ってツカツカと少年に近寄り、その肩を掴んだ。
「いいですか、高崎くん。あなたはまだ怪我人なんですよ。ゆっくり休んでしっかり治してください」
「そうだぞ、高崎。まだ安静にしてなきゃもっと動けなくなる。そうなったらこいつが心配で溶けちゃうぞ」
「お前に言われたかないですよ」
「た、確かにそうですね。失念していました。ありがとうございます!」
少年が勢いよくお辞儀をする。それを見て、老紳士が微笑んだ。さっきまで深く刻まれていた眉間の皺はすっかり取れているようだ。
「お前、高崎くんのことを頼みましたよ。」
「俺だって客に興味が――」
「森医師に言いつけますよ」
「それだけはやめてくれ!!」
けむくじゃらのゲタ男が、ガタガタと震えながら店内のソファに隠れる。普段のおちゃらけた態度とは大違いだ。その姿は、いっそ滑稽にすら見えた。
少年が、ゲタ男の震える原因について老紳士に聞く。
「森医師とは、どなたの事ですか?」
「森林太郎、またの名を森鴎外。あなたも聞いたことがおありでしょう?」
「は、はい。『中央公論』に載っていた『高瀬舟』を一度。それと友人が、医学系の評論を読んでいたことがあります。お医者様とどんなご関係で?」
「コレが陸軍軍医だった頃にお世話になった軍医総監ですよ。私は面識がないのですが、やろうと思えば。ね?」
老紳士がいたずらっぽく笑うと、けむくじゃらのゲタ男がソファからそろっと出てきた。そして少年の肩をそっと掴み、従業員専用口に向かう。されるがままにされていた少年が、ハッと気がついてテーブルの上の梅ジュースを手に持った。氷がまた、カラリと揺れる。
「あの、田端さん。とても美味しい梅ジュースをありがとうございます! お仕事、がんばってください」
老紳士はその言葉に微笑み、少年が従業員専用口に吸い込まれていくのを見送ってから店のドアを開けた。
店の外は朝霧で覆われていた。数日前よりは薄いものの、前が見えにくいことには変わりない。札をOPENにして、朝霧に向かって丁寧にお辞儀する。
「いらっしゃいませ。ご来店、お待ちしておりました。」
朝霧の間から、革靴の音が聞こえてきた。霧を割って現れたのは、学生服を着た青年だった。彼の手から、五円金貨が放たれる。老紳士はそれをそっと手で受け止め、にっこりと作り笑いをした。
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