第一章 竹馬の友

一、雑踏に包まれる

 あるひとりの青年が雲ばかりの高所から、まだ人の少ない浅草を見下ろしていた。少し長めの髪が風にさらわれて舞い上がる。愛用の遠眼鏡で下界を眺めてみるが、霧ばかりで探し人は見つからない。彼は、後悔していた。

「お兄さん、いくらここがあの浅草十二階だからって、人は見つかりませんよ。探偵にでも相談してみたらどうだい」

「いや、あいつは俺が見つけなきゃいけないんだ」

遠眼鏡から見える下界は、すでに朝の準備を終えていた。蟻粒のような人々が、広い帝都に散らばっていく。その中に探し人はいない。青年は愛用の遠眼鏡を鞄にしまい、足早に十二階の中に入った。その後を、気まずそうな顔をした男がついていく。

 八階の休憩室でソファにどっかりと座った青年が、偉そうに足を組んで気怠げに口を開く。

「なあ、何か心当たりはないかい。捜し物の手助けをしてくれるような、探偵とは違う何かさ」

「無茶言うなあ。ああ、そういえば娘が妙な噂を言っていたような。たしか、悩みをもって、朝霧に――」

「悩みをもって朝霧に紛れ椿の道を辿るべし、か? ただの噂だろう」

「それがなあ。娘曰く実際に行けたとかなんとか」

「なるほど。それで?」

 青年はいつの間にか手帳と万年筆を取り出していた。角ばった汚い字で、何事か書き付けている。男はこの青年の乱雑な態度が気に入らなかったが、彼が帝大生であることを思い出して渋々話し始めた。未来の官僚に媚を売っておけば、後々役立つと考えたからだ。

「娘の友人がですね、許嫁からの贈り物をなくしてしまった時に見つけてもらおうとしたそうなんですよ。」

「ふむふむ、それで?」

「それでってお兄さんね! まあいいけど。後は噂通りですよ。朝の霧が濃い日に椿のモチヰフを探しながら歩くとたどり着いたんだそうです! あとは依頼して探してもらってお支払いしておしまい! ほら、もう満足ですか?」

「ああ、満足だ。ありがとう!」

 青年が立ち上がり、階段に向かって走った。そして二段飛ばしで階段を駆け下りていく。壁に掛けられた美人画が、風のように過ぎ去っていった。たまたま階段を登っていた観光客たちが驚いた顔をする。

「ちょっとお兄さん! 情報料! 情報料!」

 青年の手から1枚の金貨が投げられる。青年は、手すりに乗ってあっという間に一階まで滑り降りてしまった。男が息を切らせてついた頃には、すでに雑踏に紛れて姿がない。男がため息をついて手の中を見る。

「五円金貨、白米約15キロ分ね。いくらなんでも多すぎやしないかい。……ちょっと、お兄さーん! お兄さーん!」

 青年を追って、男も雑踏に包まれた。後に残るのは、凌雲閣で遊ぶ人たちと、にぎやかな雑踏だけだ。

 今日も浅草に、元気な一日がやってきた。

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