三、光に解ける
暖かな光で、少年は目覚めた。ぼんやりとする意識に、おだやかなバリトンの歌声が聞こえてくる。その歌声は、少年を優しく包み込んでいるようにも思えた。少し開けられたドアから、歌声が漏れている。
いのち短し 恋せよ乙女
流行りの歌だ、と少年は気がついた。少年が初めて帝都に来たとき、街で遊ぶ女学生たちが歌っていたのを思い出したのだ。色恋沙汰に巻き込まれて下宿先を追い出されたことまで数珠つなぎに思い出したが、それもすぐにこの穏やかな歌声に解かれてしまった。
紅き唇 褪せぬ間に
熱き血潮の 冷えぬ間に
狭い裏庭で咲いている、蒲公英のような声だった。美しくけれどひっそりと、ほんの少しの人にしか見つけて貰えないような、寂しさを含んだ声だった。春の日差しで溶けていくような、美しい儚さがあった。
明日の月日は ないものを
肺に溜まった息を吐き切り、ゆっくりと息を吸う。体を起こして背伸びをすると、下宿先で傷めた手足や頭がズキンと痛んだ。なんとなく見た手足には包帯が巻かれている。包帯の下には湿布が貼ってあるようだ。腹の虫がぐぅと鳴る。
「や、起きたか?」
いつの間にか、部屋の扉の近くに白衣を着た男が立っていた。どこかで見たことのあるような風貌だ。少年は、彼が包帯を巻いた医師だと判断した。
「あの、ありがとうございます」
「硬いなぁ。さっき会ったろ?ゲタ履いてた方だよ」
少年は唖然とした。けむくじゃらのゲタとは同一人物とは思えないほど、とても整った姿だったからだ。
あのけむくじゃらのゲタはくるくるとした巻き毛をボサボサと遊ばせていたが、この医師は丁寧に梳かしてオールバックにしている。さらに、あのけむくじゃらにあった無精髭がない。不清潔な着物は清潔な白衣になっている。これを、どうして同一人物と言えようか。
なので少年は、最大限警戒することにした。
「はじめまして」
「おっと〜? もしかして信じられてない?」
「治療ありがとうございました!」
「あ、お礼はしてくれるのね……」
グルルと唸る少年の耳に、コツコツという足音が聞こえてきた。その足音を聞いて、医師が扉をそっと開く。その向こうから、ヘテロクロミアの老紳士が現れた。手には卵がゆを持っている。
「やあ、起きたんですね。もうちょっとで危ないところだったんですよ?」
「危ないところ、ですか」
「ええ、詳しくはこの医者が説明するんですがね、あなた、安心して寝たでしょう」
ベッドサイドの机に、ことりと卵がゆが置かれる。その時、少年は言いようのない違和感を感じた。何かが奥に詰まったような、気持ちの悪い感じだ。思わず右耳に手を当てる。触れたのは、耳ではなくガーゼだった。ガーゼに触れた時の音は、しない。
「ああ、気が付きましたか」
「みぎ、みみが」
「いいか、冷静に聞いてくれ。お前が何をしたのか知らないが、右耳に強い圧力がかかって、鼓膜が破れたんだ」
「こまく」
「お前も学生だから少しは習ったろ。お前の右耳は、場合によってはもう使い物にならない」
「つかいものに、ならない」
「ちょっと、もっと言い方を考えなさい! こんな子供にそんな言い方は酷でしょう!」
「こいつも学生だ。大丈夫だろ、きっと」
少年は、もう限界だった。家族のために来た帝都で、ひとり下宿先から追い出され、人を助けたのに取り残され、果てに右の耳が使えなくなっていた。
また、世界においていかれたように思えた。目の前で言い争うふたりの音が、遠ざかったように感じた。瞳から、勝手に水が落ちてくる。呼吸が浅くなって、心臓の音がやけに大きく聞こえた。もう全てが嫌になって、そっと目を閉じた。
手に、ひやりとしたものが触れた。目を開けて見ると、それは美しい老人の手だった。
「書生さん。行く宛がないなら私のところで働きませんか」
「おいおい、俺は厄介者扱いなのにそいつは歓迎するのかよ?」
「お前より数百倍素直で良い子ですよ。お前だってこの子の世話したいんでしょう」
「いや、まあ、そんなことも、あるけど」
「さあ、あなたのお名前を教えて下さいな。なんと呼べばいいですか」
ヘテロクロミアの老紳士が、少年の手を握り微笑む。医師が、少年の頭を撫でた。口に差し出された卵がゆは、ほかほかして優しい味をしている。
「高崎敬太郎、家族を養うために勉学を学びに来ました。これからお世話になります!」
これは、ただのありきたりな思い出話だ。今は資料も建物も焼け崩れて残らない、憩いの場だったかもしれない場所で、翻弄されながら生きたただの少年の回想録だ。
それでも少年は、僕は、この世で一番愛しい人と、かけがえのない家族を手に入れた。それまでにはかなり紆余曲折があったのだけれど、それはまた別のお話だ。
ひとまずは、少年と老紳士の穏やかな日々を見ていってほしい。
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