二、暗闇に融ける

 浅草にほど近いある下宿宿で、罵声が飛び交っていた。下宿宿は瓦葺きの木造二階建て、つまりごく一般的な民家で、罵声はだだ漏れであった。門限をきっちり守って帰ってきた学生帽を被った少年が、中に入れずにため息をついている。

「貴様、貴様がみささんを誑かしたんだろう!」

「兄さん、言うことに事を欠いて……!みささんの前でそんなこと言わなくていいだろ!だいたい俺は――」

「うるさい、うるさい、うるさい!貴様のような■■如きに!」

「お、お二人とも落ち着きなさって……!」

所謂、色恋沙汰である。どうやら三角関係にでもなっているようだ。周囲の住民が野次馬根性で集まってくる中、書生はどうやって入るかを必死に考えていた。

 現在この下宿宿の主である夫婦は、お伊勢参りに行っている。本当かどうかはわからないが、その間に次男が長男の許嫁と浮気したらしい。そして、なぜか少年の借りている二階の部屋で揉めているようだ。もちろん、少年は一寸も関わっていない。

 野次馬の中から出てきた少年の同窓生が、ニヤニヤしながら肩を叩いた。

「Truth is stranger than fiction(事実は小説より奇なり)だな!」

「こんなTruthはお断りだ」

「今日うちの下宿にこっそり泊めてやるから荷物とってこい。な?」

「ああ、できるだけ穏便にとってくる。はあ……」

 なるべく大事にしたくなかった少年は、玄関戸をゆっくりと開ける。その瞬間、二階の罵声が止んだ。野次馬が息を呑む。そして、怖くなって玄関から離れた少年の上に、なにか大きな物体が落ちてきた。野次馬の一番前で見ていた同窓生が声を上げる。

「ちょ、人、人だ! 高崎、受け止めろ!」

「無茶言うな!」

咄嗟に動いた少年は、見事に降ってきた人を体全体で受け止めることに成功した。しかしそれは、先程浮気者と罵声を浴びせられていた次男だった。頭に見慣れた酒瓶の破片が刺さっている。思わず玄関を見ると、二階から降りてきた長男と目が合った。長男は、鬼のような形相をしていた。

「高崎!」

「は、はい!」

「貴様もそいつの仲間だったのか」

「え、ちが――」

「出ていけ!」

「荷物――」

「後でそこの同窓生に渡す!」

ピシャリと玄関が閉まる。野次馬が、徐々に瓦解していく。呆然と血まみれの次男を抱えていると、同窓生が町医者を連れて戻ってきた。

「いいか、高崎。俺が戻ってくるまでここにいろよ。絶対に動くんじゃないぞ。先生、お願いします」

「はいはい。じゃあ高崎さん。あんたも後で診ますんでね。待っててね」

同窓生と町医者の周りに、野次馬が群がる。野次馬に弾き出された少年は、世界においていかれた気持ちになった。

 入居金代わりに渡した酒瓶で、人が死にかけた。それが下宿先を追い出されたことよりも、少年に重くのしかかっていた。

「やっと、帝都に来れたのに……」

少年が、脱げた学生帽を持ちふらりと立つ。それを咎める者はいない。皆、血に濡れた怪我人に夢中なのだ。少年は、腫れた手足とぶつけた頭を庇い歩きだす。そして、浅草の暗がりへ融けていった。

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