喫茶店ミルヒ回想録
鮭碕
序 喫茶店ミルヒ回想録
一、朝霧に紛れる
これは、帝都にあったかもしれないある店の話だ。今は資料も建物も焼け崩れて残らない、憩いの場だったかもしれない場所の、ただのありきたりな思い出話だ。
その店――喫茶店ミルヒという雑でどこにでもある名前の店は、たしかあの大地震がある前、つまり大正の頃にあったと記憶している。路面電車の引かれた美しい石畳の上でも、浅草の十二階のお膝元でもない。ふらっと入った路地裏にあったんだそうだ。
――悩みをもって朝霧に紛れ、椿の道を辿るべし。
そんなうわさが、一部の女学生達の間でまことしやかに囁かれたとか。何人もの女学生が探したが、結局誰もたどりつけなかったらしい。
さて、その喫茶店ミルヒに偶然にもはじめてたどり着いたのは、下宿先のくだらない兄弟喧嘩に巻き込まれてとばっちりで追い出された哀れな書生だった。彼は、寝起きのぼんやりとした頭のまま、早朝の浅草をふらふらと歩いていた。随分と長い時間外にいたのか、外套や袴の裾、髪の毛がぐっしょりと濡れている。
寄宿舎か学生アパートに行こうとも考えたが、どうにも気分が落ち着かない。また入れてくれることを願って下宿先の軒下にいても、あの兄弟喧嘩を思い出してしまっていたたまれない。入居金代わりに持ってきた地元の銘酒は例の兄弟喧嘩で凶器として使われてしまったので、他で下宿するあても金も無い。
今のところかなり不幸な部類にあるその少年は、とりあえず浅草の十二階こと凌雲閣の見学に来た。普段は銘酒屋街である凌雲閣のお膝元だが、まだ仄暗い早朝だからか人気が無い。当然のように御堂や見世物小屋は開いていない。
彼は帝都に訪れたばかりだから知らなかったが、その日の朝の霧はいつもより濃いものだったそうだ。街も人も、自分自身をも包み溶かしてしまいそうな乳白色が、彼の袴の隙間からひんやりと忍び込む。塀をつたってたどり着いた凌雲閣の石の門は、訪れる時間が早すぎたのか閉まっていた。あの巨大な十二階建ての塔は、乳白色に包まれていて拝むことができない。
なので彼は、慣れないこの土地で、とりあえず休めるところを探した。カフェーならぎりぎりやっているかもしれないが、女給は正直苦手なので居心地が悪い。今年から帝大に入ったばかりの彼は、普段は働いている思考を半分ほど停止させつつ、宛もなくぶらぶらと歩いた。もはや、自分が浅草にいるかどうかもわからない。
ふと、彼の鼻にうまそうな卵の匂いが届いた。オムレットか卵焼きだろうか。とにかく、朝食も食べさせてもらえずに追い出された彼にとっては、ただの卵の匂いでも甘美な誘惑に思えた。ぐぅと腹の虫が鳴り、口の端からよだれが垂れる。しかし、濃霧のせいでどこから匂いが漂ってくるかわからない。
諦めて路面に座り込み、手巾でよだれを拭う。しばらくうとうとしていると、近くでドアが乱暴に開く音がした。続いて、バタバタという慌ただしい足音が聞こえてくる。
「さあ、帰った帰った! 今日はもう店じまいですよ!」
「そんなあ、もうちょっとだけ居させてくれよ、な? この顔に免じて、な?」
「いい年した爺が何言ってるんだ、気色悪い」
「お前もそこそこ爺だろ!」
いい年をした大人の男たちがなにか揉めているようだ。しかし下宿先を深夜に追い出され、夜も朝も食いっぱぐれた彼にとってはただの子守唄だった。慌ただしい足音がこちらに近付いてくる気もするが、そんなものは眠気の妨げにはならない。
「だいたいね、せっかく帝都に出店したのにお客がお前だけなんて嫌ですよ、私は」
「誰も来ないよりいいだろ!」
「話をそらすのは悪い癖ですよ。」
「そらしてねェよ!だいたいな――」
「はいはいわかりましたよ! またのご来店をお待ちしております!……あら?」
足音は、頭が地面に着きそうなほどうとうとする彼の前で止まった。そのことにかろうじて気がついた彼の目に、ゲタを履いたけむくじゃらの足と、よく磨かれた革靴が映る。革靴のほうが、少年の肩をがっしりと掴んで前後に揺らした。
「ちょっと、書生さん! こんなところで何やってるんだい。風邪引きますよ!」
「酔ってるってわけじゃなさそうだな。……っておいおい、そんなに揺らしちゃぁかわいそうだろうよ」
「ツケも払わないお前に言われたかないですよ。ほら書生さん、起きて起きて!」
革靴のほうに半ば無理矢理背負われた彼が見たのは、白髪交じりの短髪だった。妙に艷やかなそれは、どこかの雪国で見たオオサクラソウのような、ほのかに甘い香りがする。きちんと整えられた髪は、写真で見たアルプス山脈の氷河のような美しさでもあった。
彼が連れてこられたのは、カフェーのような場所だった。赤い絨毯に、外套から落ちた雫が染み込んでいく。けむくじゃらのゲタの方が長椅子に毛布を敷いているらしく、眠たい視界の端に毛布がチラついている。革靴のほうがステッキに体重をかけた拍子に、少年の視界がぐらついた。
「なあ、これくらいのふかふか具合でいいと思うか?」
「雑でもいいからさっさと敷いてくれません?若者って重いんですよ」
「はいはいはい」
外套を剥ぎ取られ、長椅子の毛布の上に横たえられた少年を、色の違う瞳が見つめた。片方が外国人かと思ったが、そうではないようだ。杉の皮のような茶色と雪原のような白色の、色違いの一対が、心配そうな目をしている。少年は、その色合いの違う瞳を教授の雑談で聞いていた。
「本物のHeterochromiaだ……!」
「最初の一言がそれですか。面白い書生さんですね」
「へてろ……なんだそれ?」
「瞳の色がひとつじゃない人のことですよ。まったく、いい年してそんなことも知らないなんて。福沢諭吉に学問のすゝめを叩きつけられますよ」
「うっせえ!」
「それに比べ、書生さんはきちんとお勉強していて偉いですね」
少年の頭を、少しひんやりとした手が撫でる。それがくすぐったくて身をよじった拍子に、腹の虫がぐぅと鳴いた。とっさに学生帽で顔を隠した彼の左耳に、漏れた忍び笑いが入り込んでくる。
「もしかして、おなか空いてるんですか?」
「たまご、たべたくて」
「たまご!たまごですか!」
「おい、こいつお前の飯に釣られてきたんじゃないのか」
「そのようですねえ」
少年は、空腹がバレていたことが恥ずかしくなった。なので、それを誤魔化すべく目の前の男を観察してみた。
雪原のようだと思った左眼は、よく見ると白く濁っているようだ。そちらだけ視力が弱いのか、片眼鏡を掛けている。けむくじゃらのゲタ男に対するきつい言動とは違い、人の良さそうな顔と笑い皺だ。英国出身のお雇い外国人が持っていたような、秀麗なデザインの杖を手に持っている。50代くらいの、紳士服がよく似合う穏やかな人だった。
「ん、なんですか?」
「い、いえ。なんでも」
「食事を作ってあげますから、一寸こちらで休んでいきなさい」
「はい、ありがとうござい……ま……す」
少年は、毛布をかけられてすぐ眠ってしまう。手から手巾がこぼれ落ちた。
外を覆っていた乳白色の濃霧は、日に照らされ徐々に薄くなっていく。革靴を履いた男が店の扉を開くと、涼やかな風がふわりと入り込んできた。遠くに見える浅草の十二階が、日に照らされキラキラと輝いている。今日もにぎやかな一日が始まった。
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