ACT14 恐ろしい女ですわ【水原 桜子】
なんてこと! わたくしのこの音を聴いて、正気で居られるなんて!
早足で女に追いついた柏木があれこれと呼び掛けていますわ。でも女の方は一向に取り合わない。それどころかおどおどと様子を見に来たメイド達を巻き込んで、きゃあきゃあはしゃぐ有様ですの。
「柏木! これは一体どういう事ですの!?」
わたくしの呼び掛けに、柏木がこちらに歩み寄ってきましたわ。その眼に狼狽の色を滲ませて。
「
並ではない。今更ながらにあの御方の言葉を思い返しました。
つい先日のことです。
伯爵様より「歌舞伎町の闇医者『佐井朝香』に手を出すな」と達しがありましたの。何でも彼女はVPの会員で寄付も弾む人物だとか。その事については特段気にも留めませんでしたのよ? 言ってしまえばどうでも良かったのです。食事には困っておりませんし、裏世界に生きるような素性の知れぬ女。しかも金の力で我々の仲間になろうと考えるような女に、どうして食指が動きましょう?
それが今朝になって伯爵様から直々に連絡があったのです。夕刻にその女を寄越すと。亡くなったうちの主治医の代わりに、その佐井なる人物をあてがうようにとの内容でしたわ。
ですからわたくしも申しあげたのですわ。わたくしの
電話口で伯爵様の笑い声がしましたわ。くつくつと、さも可笑しそうに笑われたのです。
『好きにしなよ。それで参ってしまうような女は所詮、それまでだ』
手を出すなと言ったかと思えば、好きにしろなどと。ちぐはぐな答えだと首を捻りましたの。ですが、そのような挑発的な申し出には心躍らされるものもありました。差し出されたそれは禁断の果実に違いありませんもの。
それがいざ迎えて見れば、あのとおり。
しかもあの慎みの欠片もない行動と言動。何故伯爵様はあんな女を?
そっと腰を降ろしましたわ。
見れば、今朝がたに壁に活けた一輪挿しがしおれています。
わたくしもあれと同じ。わたくしの心は怒りを通り越し……朝を迎えた
そんなわたくしを見て、女が駆け寄って来ましたわ。その頬はバラ色に上気し、艶やかな黒髪がサラリと靡いています。少なくとも見た目ならば……及第点ですわね。
「は、はじめまして! 御免なさい! もう興奮しちゃって!」
「新しい
「桜子さま?」
「様も要りませんわ。わたくし、先生とは対等の立場でありたいの」
「じゃああたしも先生じゃなく朝香でいいわ。桜子さん?」
ニコリと笑い、この眼を見返す朝香。彼女の辞書には「気後れ」という言葉は無いようですわね? 大概の客はこの家とわたくしを見て多少は萎縮するのですけれど。
「わたくしの事はご存知?」
「もちろん知ってます! テレビとかで見かけるし、たまに街でも――」
朝香が言葉を切ったのは、この
赤き瞳に至る
「わたくしも知っていますわ。あなたがVPの会員だと。ヴァンパイアになりたいなどと、本気ですの?」
「本気よ。あたし、今の仕事が好きなの。だからずっと続けたくて」
「なら聞きますわ。ヴァンパイアは人を殺す生き物ですわ。あなた、患者を治しながら、その一方で
「あたしは……殺さないわ。そんな風に絶対にならないわ」
「……そう。随分と意思が強固でいらっしゃるのね?」
ソファに座る朝香の上に覆いかぶさりましたわ。両手で彼女の肩を掴み、押し倒しましたの。もちろん本気ではありませんわ。少しからかってみたくなりましたの。
わたくしは女など相手にしないのです。
メイドもそう。幼き頃より気を許した彼女らを手に掛けるわたくしでは無い。
襲ったのは無礼な男どもだけ。前任の主治医もそうでしたわ。下心をちらつかせて近づく男ども。彼らは残らずあの世に送ってやった。サーヴァントになどしやしない。一滴残らず絞り取る。
でも変ですわ。さっきよりこの女、綺麗に見える。
わたくしは右手を伸ばし、そっとその頬に触れました。耳の下にその指先を移動させ、長い首のラインをなぞると、その瞼がぎゅっと硬く閉じられる。
緊張した身体。硬直した筋肉。それでいて芳しく甘い吐息。女性らしい柔らかな身体のライン。上下する胸は、両の膨らみで今にも弾けそう。
ブラウスのボタンをひとつ、ふたつと外し、白く滑らかな首もとを剥き出しに。
眩暈がするほどに美しい。
一瞬間浮いては消える、一筋の静脈。
「っあっ!」
そっと触れた唇に浅香が反応しました。
背を仰け反らせ、身をよじるその身体を容赦なく押さえつけましたわ。骨をも砕くヴァンパイアの力と握力で。
目に映るすべてが紅く染まっている。
えぇ、このわたくしが、
嗜虐的暴力的なヴァンパイアの本性に支配されたのですわ。
――なんてこと!
「お嬢様、お時間で御座います」
我に返りました。後ろに控えていた柏木が、上体を軽く曲げたままの姿勢でかしこまっています。
なんと言う事でしょう。わたくしは、それは大変な苦労をして彼女から身を引きはがしたのです。彼が居てくれて良かったとつくづく思いましたわ。
恐ろしい女。否応なしに蜂を引き寄せる甘い蜜を持っている。伯爵の命や粛清の意味すら忘れさせる官能の誘い。なるほど、伯爵様の選ばれた方。
放心したようにソファに横たわっていた朝香が起き上がりました。まだ頬が上気しています。
「支度なさい。あと15分で出ますわ」
「え?」
返事をしたのは朝香でした。
わたくしは柏木に言ったのですけれど、無下にするのも大人げないですわね?
「麻生結弦のリサイタルに招待されていますの。御存じ?」
「麻生結弦!? あのイケメンピアニストの!?」
どうやら朝香も彼を知っているようです。イケメン、などとただ外見でそうと捉える程度のようですけれど。
「えぇ、彼とわたくしは幼馴染ですの。リサイタルはいつもこうして招待し合う仲なのですわ」
「いいなぁ。あたしも行きたい!」
「朝香もクラシックがお好きなの?」
「そういう訳じゃないけど。なんていうか、眼の保養?」
呆れましたわ。純粋に音楽を楽しむべきリサイタルに、そんな浮かれた動機で?
「お嬢様。チケットは2枚用意して御座います」
「それは柏木、貴方の分では無くて?」
「
「そう」
わたくしは朝香を眺めましたわ。期待に満ちた眼差し。……仕方ありませんわね。
「柏木。彼女に適当なお洋服を見繕って差し上げて」
「かしこまりました」
パッと顔を輝かせて立ち上がる朝香。なんという素直な人。そしてふと、彼女の背後に目が行ったのです。
ぎょっとしましたわ。しおれていた筈の薔薇の花。それが摘んだその時の姿に戻っていたのですわ。
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