第2話 「やまなし」

 東京から「やまなし」はそれほど遠くない。基本的には電車一本で行けるし、交通費を惜しまなければ特急も出ている。特急は半ば新幹線のような内装で、駅弁をつまみながらお酒でも飲めば気軽に旅気分を味わうことができる。

 「やまなし」は観光地としても人気だ。「やまなし」の中心的な駅のすぐそばには城跡をもとにした公園があり、「やまなし」産のワインも至る所で売られている。しかし、やはり重要なのは「ほうとう」だ。駅の周辺には「ほうとう」に関わる店が多くあり、そのための地図も用意されているほどだ。

 あじたまが「やまなし」のことをもう少しよく知っていれば、「ほうとう」を丸呑みにした時点でここが「やまなし」だと気づけただろう。しかし、あじたまは世間知らずだった。「やまなし」を訪れたことがないわけではない。「くら」にいたころ、あじたまは遠足で「やまなし」を旅し、その際「ほうとう」も目にした。ただ、「やまなし」に関する体系的な知識はあじたまの持ちあわせるところではなかったし、あじたまはもう長いことぬぱで暮らしていたのだ。

 そんなあじたまが違和感を覚え始めたのは、帰り道を探し始めたときだった。いつもなら、衛星が「カ・ツ・オ・ノ・タ・タ・キ」と道を示してくれる。だが今回は何の音沙汰もない。あじたまは確認のために水面に顔を出したが、そこはもはや海ではなかった。あじたまよりもう少し土地勘のある者、たとえばスープなら、そこがアルプスであるとすぐに見抜いたことだろう。

 当然だが、「やまなし」に海は無い。かといって陸があるわけでもない。空(そら)と氷河があるだけだ。つまり、あじたまの運命は、虚空を落下し続けるか、氷漬けになるか、オットセイであるか、いずれかというわけだ。今回は三番目の道が選ばれた。あじたまはオットセイである。

 アルプスは「やまなし」最大の氷河で、年あたり三センチメートルの速さで北北東に移動している。天然水のサブスクリプション・サービスがあり、その影響か、ちらほら「タンク」が埋もれているのが見える。さらに、上の方では映画が上映されている。古代火山の火道(かどう)の名残である数々の氷柱が二キロくらいの間隔で格子状にそびえており、その先端では「ほうとう」が思い思いの色で点滅を繰り返している。

 「これはすごい。「ほうとう」の楽園だ」とオットセイは七百メートル先の氷柱に向かって滑走した。紫の「ほうとう」は希少価値が高い。今目にしているあれを丸呑みにすれば、あじたまの借金は現在の借金を三十万で割った余りに等しいものになる(〈日本「ほうとう」ネットワーク友の会〉のホームページ「「ほうとう」除算」の項を参照せよ)。

 しかし、とあじたまは思った。なぜ自分は「ほうとう」を追いかけるのだろう。借金をしているからだ。しかし、それは自分がうつぼであるからにほかならない(伝承されてきた「うつぼの負債」)。今のあじたまはオットセイである。もはやあじたまに対して贖罪を要求するものなどいないのではないか?

 それでもあじたまは真面目だった。臆病だったといってもいい。会の規約はよく知らないし、自分がオットセイのままでいられる保証もない。それに、ぬぱでスープが「オットセイの持ち物はオットセイに返される」と言っていた気がする。これほど「ほうとう」に恵まれた土地でそれをみすみす逃すのはリスクだ。

 オットセイは結局、紫の「ほうとう」を丸呑みにした。気がつけばずいぶんと高いところまで登ってきた。この氷柱からはアルプスが一望できる。右手には三本の氷柱があり、それぞれ赤・橙・黄の「ほうとう」が光を伝えている。左手には生活雑貨のコーナーがある。黄色の「ほうとう」の左隣、つまりあじたまの正面には緑の「ほうとう」が……。

「何だろう」

 あじたまは目を見開いた。あれは「ほうとう」ではない。なぜなら、明滅していないからだ。それに、だんだん大きくなっている。いや、大きくなっているのではない。近づいている。それが何であるか悟るやいなや、あじたまの顔は急速に青ざめた。オロブランコだ!

 サイモンが燃やさなかった柑橘類はいくつかある。ハッサク、すだち、いよかん……。サイモンは恐れたのだった。いや、そもそも恐れから柑橘類を燃やしたのだが、それらは燃やすには恐ろしすぎた。その中でもサイモンが最も恐れたのがスウィーティーだった。スウィーティーの恐ろしさはその速さにあった。中世の人々が「次世代のリニアモーターカー、東京大阪間を五十分で」と言い聞かせながら育てたグレープフルーツがスウィーティーとなった。誕生した果物の推進力はもはや磁力ではない。尾根(おね)だった。

 オロブランコはあじたまが考えていたよりもずっと速く運動していた。あじたまの顔が青ざめて反射的に目が閉じられてからオロブランコがこちらに到着するまでには一瞬の間しかなかった。それでも、あじたまはその間に様々なことを考えた。施錠、オートロック、ハウステンボス、七夕、そして太陽系外惑星。

 あじたまは目を開けた。もう自分の首は吹っ飛んでいるのではないかと恐る恐る。しかし、身体に異常は無いようだった(何かの汁が目に染みた)。「良かった。オロブランコにはぎりぎりぶつからずに済んだみたいだ」と、オットセイは胸をなでおろして氷柱を滑り降りた。

 「それにしても」とあじたまは思った。これだけの数の「ほうとう」に加え、オロブランコまで出てくるなんて……。さすがのあじたまでも、ここがぬぱの周辺ではないことを理解した。とにかく帰らなきゃいけない。しかし衛星が無い。海であればまだ街灯の多さなどからぬぱの方角を推定できるが、氷床は何せ年三センチも動くものだから容易に方向感覚を失ってしまう。あじたまは途方に暮れた。

「よく考えるといい。自分がなぜ「やまなし」にいるのか」

 その声はあじたまの頭の中から聞こえたようだった。あじたまはきょろきょろと辺りを見回した。あじたまのほかに誰もいるはずがない。森林限界を越えて生きてゆける生物はアメンボしかいないが、こんなところにカジノがあるわけもない。

「星は来ている」

 何かの汁が目に染みた。そういえば、さっきもこの痛みを感じた覚えがある。それはちょうど、氷柱の上でオロブランコにぶつかりかけた後……。

「アルプスは半径四光年の落花生畑を見晴るかす展望台であり、そこにあってオットセイは県庁所在地としての」

 見ることはできないが、あじたまは状況を理解した。先ほどすれ違ったと思っていたオロブランコは、ヘルメットのようにしてあじたまの頭部にくっついていた。

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