第65話 さらば、死せる者よ

…ジャドが目を覚ませば、真っ暗な空が見えた。


夜のような静かな黒ではない。ただただ、深淵のように深い漆黒だけが淀む空に、まるで身も心も吸い込まれてしまいそうだった。

ゾッとする感覚と同時に体を起こせば、そこは河原の辺りであった。

何故、こんな場所にいるのか思い出せず、ジャドは混乱しながら辺りを見回す。


「ここは…どこだ?なんで俺は……」


そして、思い出す。

自分はあの吸血鬼と共に自爆し、弾け飛んで消えたということを、思い出したのだ。


刹那、胸中に流れる想いに身動きが取れなくなり、苦しげに身を折って蹲る。死ぬ経験は初めてだが、その事実は思いの外重く、心の中を過ぎって行ったのだ。体があれば吐いていたかもしれないが、不思議とそんな感覚も無く、自分が死者であると再度の確認をさせられるだけに留まる。


・・・・


しばし、蹲っていた状態から立ち直り、顔を上げる。

四肢はまともで、体もあるように思えるが、あるべき感覚が一部、喪失している。体温などの温かみや、微細な感覚を感じないのだ。


「…俺、やっぱり死んじまったのかよ…」


自分でそう決めたとは言え、その事態を迎えれば、どこかで諦めづらい心が擡げてくる。誰だってそうだ。死にたくて死ぬわけじゃないのだから、当然の感情だ。

しかし、ずっとここで蹲っているわけにもいかない。

ジャドは顔を上げ、河原の向こうに見える、大きな橋に向かって歩いた。…不思議と、そちらが正しいのだと察したのだ。


歩いていく内に、幾人かの人々の群れに出会う。誰もが死んだような顔をしていて、不思議と無表情なのだ。茫洋とした顔で歩く姿は生ける死者のようで…実際、死んでいるのだろうが、どこか不気味に映る。もっとも、今の自分も同じような顔をしているのかも知れないが。

人々の群れにあわせて進めば、件の橋に辿り着いた。


…輝く大河、それを渡す橋は巨大で、堅牢で、偉容を備えた大橋だった。不気味な骨の異形が欄干の上に乗り、こちらを睨めつけている。


(そういや、聞いたことあるな…冥府には橋があって、そこには門番が睨みを効かせてながら、こっちを狙ってるって)


列を外れれば、アレに食われるのだろうか。決して勝てないであろう存在の異様さに、ジャドや少数の自我を保つ人々は恐怖の眼差しを向けている。

その門番の合間を抜けながら進んだ先、今度は長い道と、彼方に見える巨大な真っ黒な…黒い空に紛れそうな程に、光を寄せ付けぬ黒い巨城が聳えている。あそここそが、冥府の王が居座る場所なのだろうか。


ふと、ジャドは道の左右に広がる荒野を眺めた。


そこでは、大勢の人々は責め苦を受けている、刑場だったのだ。

あるものは拘束具に縛り付けられ、舌を切り落とされている。にもかかわらず、次の瞬間には舌が再生するようで、再び切られ…そんな事を延々と続けている。

あるものは自分が殺された状況を再生しているのか、恨み言を叫ぶ者に馬乗りでナイフを突き刺され続けている。何度も苦悶の声が上がり、痛覚も存在している事を告げている。

またある男は逆さ吊りにされながら、股間に焼きゴテを押し付けられている。何か良からぬ罪でも行ったのだろうが、その刑吏だけ女性型である事から、なんとなく察せられる。


幾度も繰り広げられる拷問の光景。

それに、顔を青くしない者はいない。自分もああなるかもしれないと思い起こさせるそれは、原初の恐怖心を思い出させる代物だったのだ。

まさか、自分もああなるってわけじゃないだろうな、とジャドは密かにビクビクしていると、不意に気がつく。

駆け寄って見れば、その刑場に居たのは、夢にまで見た憎い仇の姿。

間違いない、あの禿頭ででっぷりと太った男は、ジャドにとっての憎い存在だった。


「………ははは、なんだよ、こりゃ」


乾いた笑いがこぼれ落ちる。

男は拘束台に磔にされながら悲鳴を上げ、舌を鋏で切られ、血を吐きながら今度は腹を割り開かれ、様々な部位が切り取られている。刑吏は異形の山羊頭で、淡々と、なんの感情も浮かばぬままに男を苦しめている。

その様を見て、ジャドはだんだんと愉快な様子で笑い声を上げた。

ざまあみろ、とも、永遠に苦しめみ続けろ、とも、様々な罵詈雑言が溢れ出ては胸の内を通り抜けていき、だんだんと、今度は何も感じないままにストンと感情のブレーカーが切れたように表情が抜けた。


「………くそったれ」


ボソリと呟く声色は、この上も無いほどに暗い色合いだ。

見失った仇の苦しむ様を見て、確かに胸の内の溜飲は下がったが、残るのは空っぽの身の内だ。自分の手で取れなかった仇が、別の何かによって裁かれていても、しこりは永遠に残り続けるのだろうか。

いっその事、この手で引き裂いてやりたかったのに、と呟くが、それはもはや夢の跡。

何も出来ぬ儘に、じっとその光景を目に焼き付けてから、ジャドは道を進んだ。


・・・・・


長い道のりの先にあるのは、巨大な、見上げる程に巨大で堅牢な巨城だ。ケンタックの城とは比べられないレベルのそれは、まさに巨人が作ったと言われても信じてしまう程だろう。にもかかわらず、柱の彫り込みやタペストリーは職人が何年も掛けて作るような精巧で微細な技術を用いて作られていて、それが視界いっぱいの全ての装飾に用いられているのだから、まさに狂気の産物である。

重厚な門構えを抜け、雄大なホールに出迎えられ、一同はどこか戸惑っていると、浅い紫のローブを身に包んだ、大鎌を手にした者が影の中から現れて、ガラガラ声で言った。


案内に従え、という単純な一言。


集団の一人が、それに異を唱えて食って掛かるが、掴みかかられてもローブの存在は微動だにせず…不意に、鎌を振るってその人物を屠った。飛び散るのは血ではなく、光の煌き…魂の残根。

魂を刈り取った存在に人々は驚愕してから、次いでゾッと背筋を凍らせた。

あの存在に捕らえられれば、きっと魂ごと消されてしまうだろう、と本能で理解したのだ。

ローブのそいつは、指先一つで複数名の人物を引き寄せ、選り分ける。すぐに二つの小集団になった一同に、ローブは片方を手招きして案内する。残った片方は、すぐに現れた別のローブ姿の何かに率いられ、連れて行かれてしまった。

そして、ジャドはと言うと。


「………あれ、俺だけハブられた?」


一人だけ選別されずに、残されてしまったのだ。ぽつん、と大広間で唯一人、なんだか心細くなってしまった。

されど下手に動けばさっきみたいに死にかねないような気がして、何も出来ずに留まっていると、不意に声をかけられた。


「貴方がジャドだね?」


振り向けば、そこには濃い紫の衣を身に纏い、草の冠を被っている青年が居た。

黒い髪の男は、ニコリと微笑んでジャドへ言った。


「主上が貴方を呼んでいるので、残ってもらったのだ。さあ、案内しよう」

「ちょ、ちょっと待てよ!?アンタは何者なんだ!?それに、主上って…!」

「それは、主上が全て話される。さあ、待たせるのは不敬だから、急いで」


急かされれば、ジャドはこの男がどこか只ならぬ存在だと本能で察した。どこか、懐かしい気持ちになったのだ。冒険者の勘も馬鹿にはならないと知っているジャドは、まったく状況が掴めないまま、青年の後ろをおっかなびっくりと着いて行った。

案内されるまま、どこかの大きな廊下を歩く。赤いカーペットに高い天井、おどろおどろしい絵画に鎧飾り。

まるでどこかの貴族の屋敷のようなインテリアだが、雰囲気はどこか泥のように重く、纏わりついてくる。

その空気を紛らわせようと、ジャドは青年へ話しかけた。


「な、なあ、アンタ…名前はなんなんだ?」

「私は………ふむ、そうだな。貴方ならば良いか。私の名は、ヴァルス」


その名にジャドは目を丸くする。

ヴァルス、それは人種にとってもっとも高貴な名であり、もっとも有名な名なのだ。人、エルフ、ドワーフ、リングナー、半獣の始祖。その名が、ヴァルスなのだ。


「そ、そんじゃアンタが…始祖なのか?」

「その通り。私はかつて訳あって死に至り、今はこの冥府にて主上の補助を行っているのだ」

「じゃあ、まさかとは思うが…主上ってのは天光神なのか!?」


その答えに、青年、ヴァルスは思わず立ち止まって振り向いた。

どこか不機嫌そうにこっちを見てくるので、思わずジャドは戸惑ってしまう。相手がお伽噺の凄い存在だと知ったので、どこか気後れしていたのだ。

一方、ヴァルスは頭を抑えながらブツブツと呟いている。


「……はぁ。まったく、嘆かわしい。自らのルーツを見失い、偽りの歴史を人々に植え付けているのが私の子孫など…まったくもって、嘆かわしい」

「は、偽りの歴史…?」

「昼の民は夜の愛を忘れ、天光神を自らの主神であると思いこんでいる。彼らは私の名を使って部族を取り纏め、国を作ったのに…私の子らが、父上を否定するなど、何という皮肉か」


小さく呟くそれは、どこか苛ついているようにも思えた。

一応、相手は神様みたいな存在なのだ、とジャドは思い直し、慌てつつ天罰が下らないように言い募る。


「え、ええっとその、気を悪くしたんなら謝るぜ!偽りとかそういうのって、オレはよくわかってねぇんだけど、間違ってたんならちゃんと覚え直すからよ!」


ジャドの言葉に、ヴァルスはキョトンとしてから、次いでふっと笑った。


「いや、すまない。君の責任ではないのだ。それはわかっている。…移り変わりが激しいのが人の常、それは痛いほど身にしみて理解しているとも。…まあ、老人の戯言だと思って流してくれたまえ」

「は、はあ…始祖サマのご気分が治ったのなら幸いだぜ…」

「もう気にしてはいないさ。…さあ、この先が冥王の間だ」


指し示す先には、真っ暗な大口あけた門が。

ゴクリと喉を慣らしてから、ジャドはその仰々しい門を潜り、玉座の間へと入ったのだ。


…暗い天井には、何故か星々の煌めきが見えている。或いは、本当に夜空が広がっているのかも知れないが。その中で、三日月だけが酷く美しい輝きを広げて、広場を照らしていた。

まるで外のようなその光景に一瞬だけ戸惑い、けれども床は変わらず城造り、そして赤いカーペットと段差を昇った先には、大きな身の丈以上もありそうな玉座があった。


そこに、誰かが腰掛けていた。


闇のベールに包まれて姿が見えにくい相手へ、ジャドは警戒しながらもそろそろと近づいた。

背後でヴァルスは悠然と歩を進め、ジャドを追い越して玉座の前で口を開く。


「主上、お連れしました」


その声に、玉座の人物が顔を上げた。


…黒に近い紫のローブ、フードの合間から垂れるのは黒髪で、顔上半分は仮面で覆われている。けれども、顔の下半分は暗色で底が見えず、ニィ、と歪められた笑みだけが微かに見えた。

混沌を圧縮したような相貌だ、とジャドは背筋を凍らせながら思った。

肘掛けに肘を付き、こちらを見ている人物は、静かな様子で声を発した。


「ようこそ、ジャド。我が居城へ」


高くもなく低くもなく、どこか機械的で変わった声色だ。男か女か、それすらもわかりかねる声だった。

そんな相手へ、ジャドはビクビクしながら尋ねた。


「あ、あ、あんた…いや、貴方様はいったい…?」

「普通にすれば良い。なに、多少の不敬は私が許そう…ふむ、改めて名を名乗るのが礼儀かな?」


ゆっくりと顔を起こして、その人物は朗々と名乗った。


「我は、ルドラ。或いは冥府の主たるルドヴァルス。原初神、時神、月神、夜刻神、死神、冥王…ふふふ、名がたくさんあるのでな。どれで名乗るべきか、やや難儀する」

「る…」


それだけ呟き、ジャドは完全に固まってしまった。脳裏はパニック状態で真っ白だ。


(なななななんで、なんで邪神がオレなんかに用があるってんだよぉ!?オレなにかしたか!?まさかガキの頃に家の金庫から小銭をチョロマカシた事が駄目だったか…!?いやいや、或いはミライアの名前で密かにツケを溜めたのが…!?あ、ひょっとしてこの前のライドのへそくりをツケに当てたのが問題だったのか!?うおおおぉぉ申し訳ねぇ二人共ぉぉ!!俺が馬鹿だったんだぁぁ!!!)


「ああ、別に御前自身が何か悪さをしたわけではないから、そう震えるな。私が個人的に呼んだのだからな」

「えっ」


この世でもっとも恐れられる邪神を前にして混乱の局地に居たジャドは、しかしルドラの否定にびっくりしてからほっと、いや、むしろほぉぉー!っと息を撫で下ろしまくっていた。

それに、ルドラが愉快そうに肩を震わせて笑った。


「なんだ、そんなにも私が怖いのかね?」

「さ、流石に、いきなり邪神にお目見えしたからな、無いはずの心臓が止まった気がした程だぜ」

「いろいろと愉快な表現だな…まあ、それはともかく」


ルドラはヴァルスに目線を向ければ、ヴァルスは心得たように頭を下げてから退出していった。

それに頷き、ルドラはジャドへ向き直る。


「さて、ジャドよ。御前はティアゼル砦の攻防にて、彼の者に特攻して自爆し、その生命を散らしたのだ。…覚えておるな?」

「………ああ」


薄っすらと思い返す。自分が死んだ時の事を。

ヴァルの暴走に耐えきれず、体は粒子となって弾け飛んで消え去ったのだ。それが、魔法を暴走させるという事への、最大のリスク。魔法の扱いを間違えれば、誰もがそうなる。

消えたのは一瞬で、衝撃はあっても痛みも苦痛もなかったので、比較的ジャドは冷静に自分の死に向き直っていた。


「御前の行いは気高く、定命の者たちは御前をティアゼルの英雄として称えよう、と話しておる。無論、あの砦で散った大勢の者たちも同じように、荼毘に付すようだがな」

「…へっ、そうかい。死んでようやく英雄って事かい…」


照れるでもなく、ジャドは口をひん曲げて悪態をつく。

それから、ルドラを見上げて、目線を鋭くする。


「…なあ神さま、不敬ついでに、ちょいと聞いてもいいかい?」

「ああ」

「なんで………アンタらは、オレたちを助けてくれなかったんだ?」


その一言に、ルドラは黙して相手を見る。

ジャドは、心の内の不満をぶつけるように相手へと吐き出した。


「アンタ達なら…オレたちを助け出せたんだろ?助けを求めてた砦連中を、助けてやれたんだろう!?なのになんで…なんで助けてやらなかったんだ!?なんで助けてくれなかったんだ!?」

「……御前達は、いつも同じことを言う」

「っ…!」

「逆に聞こうか。何故、我らが御前達を救わねばならぬのだ?」


明確な威圧感を感じ、ジャドは思わず膝をつく。出るはずもない汗が吹き出たような気分になり、背筋がぞわぞわと危険を訴えている。

ルドラは、ただ静かに、ジャドを睨めつけていた。


「我ら神々が存在する理由はただ一つ。この世界の存続だ。それは全ての事象に於いて最優先されるべき事項であり、存続に用いられるべきエネルギー、労力を用いてまで、人を救わねばならぬ理由など無い」

「そんなの…!話しが違うじゃねえかっ!?聖典じゃ神は正直者を救うって標榜してるはずだろうがっ!!」

「そう触れ回っておるのは、御前たち昼の民だ。我が夜の民の教徒達は我が教えを理解し、我へ助けを求めはしない。今の御前達に広められている教典なぞ、我らの教えを都合よく歪められただけの、所詮は紛い物に過ぎぬ」

「…そんな、の…」


絶句し、ジャドは言葉が吐けなかった。ルドラの語る真実は、敬虔とは言いがたくとも一般的な天光神を崇める一市民にとって、甚だしくショックな事実ではあったのだ。

言葉をなくすジャドへ、ルドラは憐れむような眼差しを向けた。


「神を信じるのは良いが、都合の良い道具にするのは頂けぬな。我らは御前達の道具ではないのだ。まあ、何をどう解釈して信じるかは、当人の自由だが」

「…でも、それでも…アンタなら…アンタならっ!俺を救うことも出来たんだろう!?俺が死なないようにすることも、出来たんだろう!?」

「…不可能では無かった、とでも言えば良いのかね?定命の者よ」


顔をあげるジャドの前で、ルドラはニヤリと笑みを浮かべた。


「神を信じるのも、呪うのも、御前達の自由だ。御前達に憎まれるのが、我が役目でもある…皆、我が姿を見れば悪態をつく。どうして救ってくれないのか?どうして善き未来をくれないのか?救ってくれないのならば存在する価値など無い、在るだけの木偶の坊、役立たずの無能め、と………」


ルドラは、笑みを歪め、侮蔑の言葉を吐き出す。


「嗚呼、吐き気がする」


その瞳はどんよりと暗い色を帯び、混沌色にして濁っていた。


「愚昧で蒙昧な人間どもよ、御前達の為に私は在るのではないのだ。私は、「世界」の為に、ここに座っている。…だというのに、そんなバカどもの恨み言を数百年、否、数千年も聞かねばならぬのだ。それがどれほど苦痛か、御前にわかるかね?」

「…あ、あんたは…」


怒れるルドラへの恐怖が再び湧き上がったのか、ジャドは威勢を引っ込めて震えている。ただの人間一人が、巨大な神へ歯向かうなど、無謀にも程があるのだ、と思ってしまったからだ。

ルドラは、ゆっくりと玉座から立ち上がり、ジャドへと歩を進めた。


「…されど、されども御前の件に関しては、悪かったとは思っているのだよ」

「…へ?」

「あと少し、タイミングがずれれば、私が御前を救えただろう。否、もっと簡単に事は済んだ筈だった。だと言うのに、図ったかのような虚無の侵攻により、その機会を失せてしまった。虚公の一端を見つけて本体を探したが、それも元の木阿弥…しかも、あの砦周辺一帯を覆う、霧の巨大な隔離空間だ。問題が山積みで私としても頭が痛い」

「は、はぁ…」

「そこでだな、ジャドよ。御前を呼んだのは他でもない」


ルドラはジャドの目の前まで赴いてから、薄く笑いつつ、言った。


「私を一発、殴ってくれんかね」

「…………はぁ?」


ハニワになっているジャドへ、やはりルドラは冗談でもなく続ける。


「私なりのケジメでもある。今回は敵に先手を打たれ、しかも完全に御前達への干渉が出来ない状態であった。神などと言ってもこの体たらく。私は自分で自分が許せんのだよ。だから、一発全力でぶん殴ってくれんかね?」

「い、いや、なんでそうなるんだ?」

「ヴァルスの奴に殴ってくれと言ったんだがね、あの真面目馬鹿息子は「父上にそんなことは出来ません!!」とか叫んで殴ってくれんのだ。だから、適当な適任として御前を呼んだんだが」

「適当!?」

「まあ、御前も思うところも多かろう。その諸々の感情を籠めて、ぶん殴ってくれ。ほら、遠慮は要らんし罰も与えんから」


さぁさっさとやれ、と言わんばかりの相手に、ジャドはおろおろしてから、相手が放す気が無いと察して、肩を落とした。


「…はぁ、そんじゃ、本当に祟らねえよな?」

「やらんやらん」

「魂ごと消滅とか」

「しないしない」

「転生先が虫になったりとか」

「そんなせせこましい事をやるくらいなら、とっとと神罰でもなんでも与えとるわ。ほら、早くやれって」

「…そんじゃあ、まあ」


遠慮なく、とばかりにジャドは大きく拳を振りかぶり、


ルドラの顔面に直球ど真ん中ストレートを放った!


激しい音と、何かが割れる音が響き、ルドラの上半身が少しだけ揺れた。

勢いでぶん殴ったジャドは、


(…あああぁぁぁぁやっちまったあぁぁ!!?勢いとは言え邪神をぶん殴るなんざぶっ殺されて消滅させられても文句言えねぇよおぉぉ!!?)


内心でめっちゃキョドっていたのだが、殴ったルドラの顔を見て、思わず目を丸くした。

ルドラの仮面が割れて剥がれ、落ちたのだ。

その下には、


「…まったく、本当に全力でぶん殴りおったな」


ジャドもよく見知った老人の素顔があった。

いつもの聞き慣れた低音声に戻った老人は、殴られた頬を撫でている。

それを指差し、パクパクと口を開閉しているジャドへ、ルドラはニヤリと笑みを浮かべた。


「良いパンチだったぞ、ジャド」

「…か、か、か、カロン爺さんっ!?」

「おお、どうだ?驚いただろう?」

「なななななんで爺さんの顔がっ!?」

「それは当然、カロンの正体は実は夜刻神ルドラだったからに他ならない。ほら、「な、なんだってー!?」と叫ぶところだぞ、ここは」

「な…………………………なんじゃぁそりゃあぁぁぁっ!?!?!?」


いい声で叫ぶジャドを眺めつつ、ルドラはなんかシンパシーを感じたように頷いていた。どうやら、お気に召した反応だったようだ。


「まあ、それは横にでも置いておいてだな」

「いや、置かれたら困るんだけどな!?なんで神さまが人間の宿で食っちゃ寝してたんだよ!?普通に考えてありえねぇだろうが!?」

「良いんだよ、私は現在、休暇中だ」

「神さまの休暇ってなんだよ!?」


と、ジャドの至極最もなツッコミは無視され、ルドラはジャドへ言う。


「ともあれ…ジャドよ、すまなかったな。私はこちらの都合で、お前を救えなかった」


唐突に真顔で謝意を示す相手へ、ジャドは虚を衝かれた様子で凝視する。

ルドラは、じっとジャドを見つめている。


「恨みたいのならば、存分に恨めば良い。御前は恨むべき理由がある。神を恨んで然るべき理由がな。…まあ、同じ宿の誼みという奴だよ」

「…同じ宿の誼みで、殴らせてくれたのか?」


その問いに、ルドラは曖昧に笑った。


「あいにくと、摂理に即してお前にはこのまま門を潜って天国へ向かってもらう。多少の罪穢れは在れど、さして問題でもない。むしろ、善行を合わせれば差し引きプラス収支だからな。私の一存で、お前の順番は誰よりも先にしてもらった」


感謝しろよ?と言わんばかりに小首をかしげる相手へ、ジャドはもはや突っ込む気力もない様子で肩を竦めた。


「…んまぁ、その、とりあえずはありがとう?って言っとけばいいんかね」

「どういたしまして。天国では好きなだけ過ごせ。好きなタイミングで転生出来るように配慮しよう。…まあ、これくらいしか出来ぬからな」


たとえ冥府の王でもあっても、死者の流れをどうこうすることはできないらしい。

しかしジャドは首を振り、快活に笑った。


「ま、その意気だけ受け取っておくぜ。…そんじゃ、俺はそろそろお暇するぜ。列が支えてるだろうしな」

「うむ。………お前の行き先は、あちらの道だ」


ルドラの指し示した先には、いくつかある門の一つが輝きを放っている。

明るい光が漏れ出るそこは、何か大きな未来を感じさせる。

そこへ足を向けながら、ジャドは後ろ手で見送るルドラへ言った。


「そんじゃま、あばよ爺さん。あんたと勝負するのも、案外楽しかったぜ」

「私も、御前達のへっぽこっぷりを眺めるのもなかなか楽しかったぞ」

「へっぽこ言うんじゃねーよ!…まあ、それであいつらにさ、伝言届けといてくれよ。またいつか、天国で会おうぜってな………そんじゃ、後、頼んだぜ」

「………ああ」


そして、ジャドはそのまま、輝ける門の奥へと歩き去っていく。

その背を見送ってから、ルドラは静かな足取りで玉座に戻り、どっかりと座り込んで天を仰いだ。

そして自らの目元をなぞりながら、ポツリと呟く。


「…痛い」


痛覚は無いのにそう感じる自分に、言葉に出来ない感情を抱いた。

そして目を伏せ、大きな息を吐く。


「………ああ、凄く、痛いな」


………輝ける月の元、夜の領域で邪神は、人知れず小さく呟いた。




・・・・・

・・・・

・・・



輝ける道を歩むジャド。その足取りに迷いはない。

光に包まれた真っ白なそこは、永遠に続くような、何もない穏やかな空間だ。

不思議と心は静かで、恐怖も動揺も起きなかった。

ただ、本能の従うままに、二度と戻れぬ道を進んでいく。


「…ああ、でも、やっぱり…生きたかったよなぁ」


ため息を吐き、立ち止まる。


生きたかった。

当然だ。誰だって好きで死ぬわけじゃない。けれども、どうあがいても死ぬ時はやってくる。ジャドにとって、それが今だったという、それだけだ。

死にたくなかったと、そうボヤきながらも死出の道を歩む。

生きていたかったと、そう思いながら天国へと赴く。


「…あいつに、挨拶しておけばよかったなぁ」


心残りはいっぱいだ。中でも一番に思い浮かんだのは、大きな鍔広帽子の魔法使い。

幼馴染で、子供の頃からライドと一緒に走り回って、身分関係無しに遊び回った。

辺境領主の子息と、使用人の子と、奴隷として売られていた獣人の子。

そんなチグハグな自分たちは、いつも三人でつるんで居たのだ。

それももう、叶わない。

あの二人の傍に、自分が行くことは二度と無いのだ。


「………」


足が止まる。

心が揺れる。

生きたかった、戻りたかった、死にたくなかった、また三人で遊びたかった。

未練が引っかかり、戻ることの出来ない背後へと手招きをしているようだった。

けれども、戻れない。

…戻れるわけがない。


「…あぁあ、ほんっとにオレって奴は…」


意気地なしで、優柔不断で、死んでからも未練がましいのだ。

それでも進まねば、と足を踏み出した、その時。


…不意に、背後から声が聞こえた。


思わず振り向けば、輝きの道の途中で、こちらに背を向ける人影があった。

それは幻影か、それとも神の采配か。

見慣れた二人組は、二人並んで背を向けて、どこかへと去っていく。


「………あ」


手を伸ばすも、途中で止まる。

道は分たれ、もはや交わることもない。ならば、伸ばすだけ無意味な行動だ。

そう思って手を降ろし、未練を断つように目を伏せた。

背は遠く、徐々に霞がかかった果てへと消えていく。


(……いいのか?)


自問する。

問いかけは鋭く心に突き刺さり、消えない痛みとなっている。

けれども、それの答えはわかっていても、行動に移すには勇気が無い。


…手が届かなかった、そう裏切られた瞬間が、もっとも恐ろしいのだ。


だから、全てを諦めてしまおうと、頭を抱えて…、


(…ああ、でも、オレは…オレは…!)


渦巻く感情が荒れ狂う嵐となり、彼の心の内で吹き荒れる。

恐れに竦んで動けない今を小馬鹿にするように、内なる自分は拳を振り上げて叫んでいる。

恐れに負けるな、突き進め、と。


「…オレはっ…!!」


振り切るように顔を上げる。

果てに消えた人影の背を追って、ジャドは駆け出した。


…その間際。


それを止めるかのように、輝きの合間から伸びるのは、ジャドを捕まえようとする大量の骨の腕。

それを見もせず、ジャドは懸命に駆けながら、道を逸れて影を追いかける。

ただ、何も考えずに、未練を残す者たちへ再び出会いたいという、その思いだけを原動力に、ジャドは走った。

そしてその背を、大量の死の尖兵の腕が追いかけている。

列から外れるものを許さないと、そう言っているかのように。


…されど。


骨の腕達が彼を掴みそうになった、その間際。


美しい腕がスルリと伸びて、彼の背を、そっと押した。


その勢いのままに、光の彼方へ飛び込んだジャドは、友へと向かって叫んでいた。



………それを、白翼の死神が、微笑みながら静かに見つめていたのだ。



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