第20話
ふたたび薄桃色の霧が足元に広がった。霧が地面を覆い隠し、どこをどちらへ歩いているのか、あやふやになってくる。
余白にまっすぐ行くよう言われたものの、進行方向は確かめようもない。地図も無く、道も無く、目印も無い。足元は薄桃の霧で、空は白い雲で、覆われている。
もし誤った方向へ進んでいった場合、ヒミズが待っている地点から遠く離れてしまうかもしれない。そのまま迷子となり、永久にヒミズと会えなくなる……そんな事態に陥らないだろうか。
(きっと大丈夫)アカは自分に言い聞かせる。
何といってもこの場所は非現実的な領域なのだ。どんな奇跡だって起こり得る。
ただ一心に信じて、脇目もふらず進むのみだ。まっすぐ前を向いて。遠くの一点を見据えて。首は固定したまま。
しかし進んでも進んでも茫洋としているばかり。だんだん夢を見ている心地に襲われる。いま覚醒しているのかさえ怪しい。
いけない。正気になれ。
アカは歩きながら前に向かって大声を放った――クロカワ! と。
待っててくれ。もうすぐだから。
砂漠のように何もないだだっ広い土地をたった独りで進むのは、苦痛だった。したがってにわかに風景が変わったとき、アカは安堵の声を洩らした。漂流中の大海で島を発見した気分だった。
現前した光景にアカは立ち止まり、深く息を吸い込む。
無辺に広がるコスモスの花園。緑に浮かぶさまざまなピンクの点が、一帯を夢のように埋めつくしている。その妖しい色彩はあまりに現実離れしていて、死の世界にもう間もなく着くことを予感させた。
花園のほとりに立つ。コスモスが腰の高さまで隙間なく並び、行く手をふさいでいる。
道は見当たらない。まっすぐ進むには花を踏み倒してでも、ここを突っ切って行くしかない。腹を決めて花畑に踏み込み、コスモスを左右に掻き分けながら進んでゆく。
さわさわと波立つコスモスの群れ。コスモスの大海原を泳いでいく。首を回せば、目に入るのは海面に咲き広がるコスモスの花ばかり。四方八方、水平線までピンク色の花が覆いつくしている。
ほどなくゆらゆらと揺れる花びらからピンク色が滲み出て、海面をおぼろに染めていく。ぼんやりして、花の形が溶けていく。
どうやら死がすぐそこまで迫ってきているようだ。あと少し。死の域まで、あともう少しだ。たゆたい流れてゆくピンクの波にもまれながら、アカは冥界を目指して進む。
「……あ」
ふいに、広大な花園の真っただ中でアカは足を止めた。
顎に手を当て、ぐるりと囲むコスモスの花をまじろぎもせず見下ろす。一分ほど考えを巡らせ、
「これは……使えるかもしれない。うまくいくかな」と独り言をもらした。
手近なコスモスの茎をつまみ、一本引き抜く。しげしげと観察し、うんうんと独りで納得したようにうなずく。
続けて一本、もう一本と、コスモスを抜いていく。淡いピンク、華やかなピンク、深いピンク、ハッとするようなピンク。
カラフルな配色のコスモスの花束を頭上に掲げ、アカは満足そうに微笑んだ。
「きっとうまくいくさ。ありがとう、ミーナ」
綿々と続いたコスモスの海からようやく抜け出すと、白砂が広がっていた。周囲には膜のような靄がうっすらとかかっている。鼻に入り込むひんやりとした空気。
砂を踏みしめながらアカは尚もまっすぐ歩んでゆく。降り積もった粉雪を思わせる白砂。ところどころ宝石のように色づいた小石も混じっている。
その先に見えたのは左右に流れる川だった。目的地にようやく着いたようだ。
川幅は高速道路の上りと下りを合わせた程度。向こう岸にも白砂の河原が確認できる。
せせらぎは聞こえてこない。辺りはほとんど無音に近かった。
川縁までやって来た。彼岸のちょうど正面に、靄を透かしてぼんやりと人影が浮かびあがっている。背の低い人影は砂の上にちょこんと立ち、こちらを窺っているみたいだ。
左右に目を配るが、橋も渡し船も見当たらない。続いて川面を確かめる。川の流れは実際に流れているのか判らないほど微かだった。水は雪解け水のように透き通っていて、川底にはやはり白砂が堆積している。非常に浅く、足を踏み入れたとしても、足首が浸かる程度だ。これなら腰の曲がった老婆でも、安心して渡り切れるに違いない。
足を踏み出そうとする……と、背後から誰かの声が制した。
(行くな。戻ってこれなくなるぞ)
ふいに父タツヤと母ミサトの顔が脳裏に浮かぶ。もし川を渡ったら親不孝呼ばわりされるだろうか。
アカはかぶりを振った。迷いを払うように。
「使命なんだよ。おれに課せられた」
死を恐れていないわけではない。心のどこかで怖いと感じている。しかし足は勝手に動き出す。足が死へと導いていく。
川に踏み込み、彼岸に向かって歩き出した。
川の水はひんやりと冷たい。血液の流れなくなった遺体のように。川の中にはすでに死の色が浸透してきているらしい。
数歩進んだところで、ふと気づいた。彼岸に立っていた人影もアカに呼応するかのように川へ入り、こちらへ向かって来ることに。
「戻れる……のか?」
戻る――つまり死んだ者が生き返るのは、不可能なはずだ。此岸から彼岸へは一方通行と決まっている。この法則は生物のさだめであり、誰にも変えられない。
それならこういうことではないか? 川までに限って、やって来られるのだ、と。
此岸と彼岸。そのあいだを繋ぐように流れる川。この高速道路ほどの幅の境界線は、淡水と海水が入り交じる汽水域のような特殊な領域なのだろう。川の上だけは、生も死も同時に受け入れられるのだ。
彼の世と此の世が入りまじる、どちらでもある世界。
陰と陽が出逢う聖域。
正面に人影がはっきりと姿を見せた――黒川ヒミズだ。
こちらに近寄って来るヒミズ。ちゃんと両脚を動かしている。川底をしっかり踏んでいる。白装束ではなく、あの最期となった日と同じ制服姿だ。相変わらず前髪が両目を隠している。頬の色つやも蒼白くはない。頭頂部に怪我は認められず、血も流していない。
2・Aの教室で一緒に授業を受けていたときと何一つ変わらない、黒川ヒミズだった。
川のほぼ中央で、二人は向かい合った。
ヒミズの息づかいが伝わってくる。とても亡くなっているとは信じがたい。
「小山田さん……」
生まれて初めて耳にしたヒミズの声。息の混じった幽かなささやき。淡い虹のように、すっと消えてしまいそうな。
それはアカの耳に、小さな鈴の音のように響いた。
胸からこみ上げてきた感情に喉が締めつけられ、言葉に詰まる。
鳥肌が。身体中をどうしようもなく鳥肌が侵食していく。
「やべっ」知らず知らずのうち目に涙が溜まっていた。「泣くなよ」
自分で自分に突っ込み、涙を拳で拭うと、わざとらしく笑顔をつくった。「セーフ」
黒川ヒミズは固い表情のまま、垂れた前髪の裏側からアカを見上げている。
ずっと伝えたかった。けど伝えられなかった。
体の前でそっと両手を合わせ、ヒミズは頭を下げた。
「小山田さん、ごめんなさい」
アカは手のひらを向け、
「いやいや。謝らなきゃいけないのは、こっちさ。あのとき突き飛ばしちゃって、ごめん」
ヒミズはかぶりを振った。
「元はといえば、わたしが悪いんです」
「そんなことないよ」
ヒミズは繰り返しかぶりを振る。
「わたしのせいで、小山田さんは、南田さんと別れて――」
アカは顔の前で右手をぶんぶん振った。
「もういいんだ。だって今は――」
「今は?」
「今は……何とも思ってないから。ふつう」
「でも……」
アカは胸に手を当て、
「そもそもおれがクロカワのメールを見てなかったのが、一番問題だから。悪いのはこっち。おれの落ち度だよ」
「わたしがちゃんと話さなかったのがいけないんです。ごめんなさい」
「話を聞こうとしなかったおれに責任がある。責められるのはおれのほうさ」
「いつもクラスでひとりぼっちで、みんなと話してこなかったわたしの責任です」
「それは違うよ。こっちから話しかけるべきだった。クロカワをひとりぼっちにさせてしまったのは、おれたちのせい。謝る」
「ごめんなさい」
「いやいや、こっちこそ、ごめん」
「小山田さん……」
くすっ。ふいにヒミズから笑みがこぼれる。
思わずアカは目をしばたたいた。「クロカワ……笑ってる?」
呆気にとられ、まじまじと凝視してしまう。鮮やかな奇術を見せつけられたみたいに。
門外不出だったヒミズの素顔を拝み、アカの胸が勢いよく弾け出す。
「だって……さっきからお互いに謝ってばかりじゃないですか」
そう言う彼女の口元は、嬉しそうにゆるんでいた。
「どっちに非があるか選手権!」
アカの軽口に、二人は声をあげて笑った。賑やかな二人の笑い声が響き渡り、周囲の靄がかき消されていく。
肌を冷やしていた冬のような寒さも、一気にやわらいだ。ちょうど季節が春へと変わったみたいに。
すっかり場がなごんだところでアカはぽんと手を打った。
「そうそう。じつはクロカワにお土産があるんだ」
「お土産?」
「うん。大したものじゃないんだけど……」
背中に右手を回し、腰にくくりつけ忍ばせてきたそれを掴んで、前に差し出す。
「パッパカパーン。コスモスの花かんむりーー」
「え……」
ヒミズはまるく開いた口を両手で覆う。
「おれのハンドメイド作品。なかなかの完成度でしょ?」
「小山田さんが……?」
「ここへ来る途中、コスモスがわんさか咲いててさ。そこでパッとひらめいたんだ。よし、このコスモスで花かんむりを作ろうって。以前にミー……花好きの女の子から教わったことがあるんだ――花かんむりの作り方を。こう、茎を重ねて編んでいくんだけどさ。我ながらよく覚えてたよ」
「わたしのために……?」
アカはニンマリと笑む。
「サイズが合うといいんだけど。なにしろ見当で作ったから――」
そう言いながら、アカはヒミズの頭上に花かんむりをかざした。こわばった様子のヒミズの髪に、冠をそっと載せる。
それから両手の先で、ヒミズの前髪を左右に開いた(窓のカーテンを引くように)。
大きく見開かれたヒミズの瞳が、はっきりと現れた。
「……!」
さらにアカは前髪を小指と薬指で左右に押さえたまま、人差し指を花かんむりに引っ掛け、下に降ろす。
「おお、すげえ! ピッタリだ!」
コスモスの花かんむりがヘアバンドの役を果たし、左右に開いたヒミズの前髪を留めている。
唖然としたままヒミズは固まってしまう。前髪の覆いで常に隠し通してきた双眸は、今や無防備にさらされている。
閉め切った薄暗い部屋から、陽光の降り注ぐ戸外へ。
遮るものは一切ない。無限に広がる空間。どこまでも自由に行ける。
ヒミズは赤ん坊のようにまっすぐアカを見る。
アカの目を。アカの鼻を。アカの唇を。アカの髪を。アカの額を。アカの肩を。
ディテールまで丹念に描きこまれた絵画を鑑賞するみたいに。百年に一度の自然現象を観察するみたいに。
解き放たれた両方の瞳で、大事そうに、アカを見つめ続ける。
アカは照れながら、
「ばっちり」サムズアップを示し、ウインクしてみせる。
「前髪、邪魔だっただろ? 本当はヘアピンとかカチューシャのほうが良かったけど、あいにくこの辺りにはドラッグストアもなくて――」
跳ねた。パッと。飛び込む――アカの胸に。そのまま背中に手を回して抱きつき、胸に顔をうずめる。
ほんの一瞬アカはとまどい、すぐにヒミズの肩を抱いた。もう突き放したりしない。しっかりと引き寄せる。
掌中の小さな肩が震え出した。ヒミズの流す涙でアカのウェアが濡れていく。
ヒミズはしゃくり上げ、つっかえながら懸命に言葉を発する。
「どうして、わたし……死んじゃった、んだろう」
次から次へと涙の粒が川面に落ち、流れていく。
「いい思い出、が何も、ない……もっと、生きたかった……いい思い出を、作りたかった」
「作ろうよ、ヒミズ」
ヒミズはハッと顔を上げた。涙でいっぱいの顔を。
「いい思い出、これから作ろう。おれ、協力するから」
じっと見上げ、ヒミズは唇を震わせる。
「アカさん……」
「二人で最高の思い出を作ろう、ヒミズ」
アカはぽんと小さな肩を叩く。きゅっと目蓋を閉じるヒミズ。
ふいにヒミズはアカから離れ、涙をぬぐった。姿勢を正し、きりっと唇を引き結んで、
「よろしくお願いします。アカさん」深々と頭を下げた。
「こちらこそ。よろしくな、ヒミズ」
目と目を見交わす。視線の交換。お互いがお互いを見ている。アカはヒミズの眼を。ヒミズはアカの眼を。決して一方通行などではない。双方向に通じている。
「アカさん、それじゃ、どんな思い出を作ってもらえるのですか?」
「うん。まず二人で手をつなごう」
こくっ。ヒミズはうなずき、承諾した。
アカが両手を前に差し出す。ヒミズも応じて、両手を伸ばした。アカは上から。ヒミズは下から。かぶせるようにして、アカの右手とヒミズの左手が重なる。アカの左手とヒミズの右手も重なる。二人はつながった。一つの輪が形成された。
――離れていた陰の極と陽の極が合わさり、太極へと還る。
にわかにアカの右肩が光りだした(まるでスイッチを入れて電流が通じたみたいに)。
エメラルドグリーンの光。卵ほどの大きさの。光の珠は滑るように動きだす。肩から下がり、二の腕を通って肘へ。止まることなく手首に向かい、アカの右手が光る。
エメラルドグリーンの光は重ねられたヒミズの左手へと移った。手首から肘へ、左肩へと、昇っていく。ヒミズの左肩に達した光の珠は、背中の側から右肩へと進んだ。
右肩から下った光はヒミズの右手に至り、アカの左手に渡る。左腕を通り、スタート地点であるアカの右肩に戻った。
不思議な光はとどまらず、周回を続ける。何周も。何周も。繰り返し、二人のあいだを行き来する。そのうち速度が上がってきた。円を描き、高速で駆け回る。
すっと足が川面から離れる。二人の身体が浮き上がった。高速回転する光がプロペラとなったみたいに。天に向けて二人一緒に、少しずつ昇っていく。
飛び回る光はもはや一本の線と化している。アカとヒミズの身体はエメラルドの輪で結びつけられていた。明確な境界は失われた。あいまいに溶け合っている。
光の線は上下に広がり、帯となった。帯の幅はどんどん広がり、二人の全身を覆う。
二人の姿は見えなくなった。エメラルドグリーンの輪のうちに完全に没した。
エメラルドに輝く輪は回転しながら上昇していく。初めは二人の腕を合わせただけの円周だったが、みるみるうちに拡大し始めた――水面に生じた波紋のように。どこまでも伸び続ける円環は、いよいよ日本列島をそっくり包囲するまでに達した。
光の中から無限に続くヒスイ色のウロコが見えた。次いで万里の長城さながらの長大な胴が出現した。その先端に、ゴツゴツした岩山を思わせる獣の頭部。
巨大なエメラルドのリングは、龍になった。
龍は中空から真上にジャンプした。一直線に雲へ突入する。ぶ厚い雲の中を突き進み、抜けた先に見えたのは、能登半島だった。
天に向かって飛び上がった龍は、地上へ急降下する。
能登半島から斜め下、長野県の山脈へ頭の先を向ける。あっという間に、龍は山の頂へ飛び込んだ。
龍は地中で気を吐いた。気は陰と陽に分裂しながら放射状に地中を広がっていく。長野県を中心に、気は四方八方へ流れ、ものの一分で日本全土に行き渡った。
日本列島の地下に血脈が張り巡らされた。気が勢いよく流れ続けている。
龍は山の頂から飛び出した。空へとまっすぐに昇ってゆく。雲に届いたところで、ふたたび気を吐いた。陰と陽に分かれた気が大気中に広がっていく。大気は安定し、空に落ち着きが戻った。
頭を下向け、龍は再度地上へ降下する。針路を西へと変えながら。中国大陸上空を飛び、崑崙山脈に頭から突っ込んだ。山脈を潜行しながら気を吐いていく。
広大な中国の地を覆ってしまうほどの膨大な気が、たちどころに拡散した。
龍は中国大陸から飛び上がり、天上で気を吐いた。続けてヒマラヤ山脈に突入し、気を吐く。
地下と上空を繰り返し往復して、龍は世界中を飛び回った。アジアからヨーロッパへ。ヨーロッパからアフリカへ。北米へ。南米へ。
陸地と天空は龍の吐いた陰陽の気で満たされた。
天の乱心は収まり、酔いもすっかり覚めてゆく――。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます