第19話

 暗転。真っ白。

 視界いっぱいの白い――雲。一面の雲。見上げる白い空。

 仰向けに横たわっている。

 肘をつき、上半身を起こす。雑草の上へ直に座っている。

 膝に力を込め、立ち上がる。少しふらふらする。草の上に足を踏ん張る。

 膝の下まで、霧がかかっている。薄桃色の霧。前後左右見渡す限り、地面は淡いピンクに覆われている。ところどころ、背高の草が霧から飛び出している。

 視界を遮る立木などは一切ない。ずっと先まで望見できる。ここは地表付近の全面を薄桃色の霧が覆う広大な草原、ということになるだろうか。

 現実感がまるで感じられない風景。映画の只中にいるような。

 ひとまずアカは深呼吸し、記憶をたぐる。

 龍道山で『ドランクンヘヴン』に巻き込まれたところまで覚えている。にもかかわらずここが龍道山でないことは明らかだ。瞬間移動によって別の場所へ送られたのか。

 経緯から判断するなら、やはり死後の世界だろうか。霧が足元を覆っていて、雲の上に立っている気分ではある。天国と言われれば、そうかもしれない。

 とりあえずここが天国として、さて、次にどうすれば? あてもなくこの広大な野原をひたすらに歩いて行けばいいのだろうか。しかし、どちらの方向へ? 

 死ぬのは初めての経験なので、何もかもさっぱりだ。

 途方に暮れていると、目の前にいきなり人影が現れた。

 ぎょろっとした外斜視の目。黒く長いあごひげ。永遠に変わらない外見。

「……余白さん」

 待ち望んでいた再会。あれも訊こうこれも訊こうと考えていたのに、言葉が出てこない。頭の中がホワイトアウトし、痺れたみたいに身体が緊張してしまっている。

 余白も無表情でじっとアカを見つめるだけ。ようやく果たされた両者の再会は、ひどく間の抜けた空疎なものとなった。

 そうしていたずらに向かい合っていたが、余白はぽつりと、

「小山田アカ……こっちへ」そう言って、背を向けた。

 有無を言わせず余白は向こうへ歩き出す。慌ててアカは追いかけ、横に並んだ。

 それにしてもこんな場所で余白に再会するとは考えてもみなかった。生死を超越した仙人は常世も現世も行き来自由なのだろうか。

 あるいは――ここは死後の世界ではないという可能性もある。

 余白と並んで霧の上を歩きながら、アカは訊ねた。

「余白さん、ここはどこですか?」

 余白は前を向いたまま答える。

「生の……果て」

「生の果て?」

「いまわのきわ……死の……手前」

 死の手前。つまりまだ死んでいない。辛うじてギリギリ生きている。――そういうことか?

 ここは明らかに現世ではない。かと言って常世でもない。生と死のあいだに穿たれた谷間。生と死のハザマ。ではこの先に控えているのはどちらか。生か。死か。

「余白さん、これからどこへ行くんですか?」

「老師……待っている」

 老師。余白の師匠だろうか。それなら身分の高い神仙のはずだ。待っている……アカの到着を待っている……アカがここへ来るのを前もって知っていたのか?

 ふと思う。アカの周囲に起きた一連の出来事は、何もかもすべて最初から決まっていた「さだめ」なのではないかと。

 余白はヒミズの運命を見抜いていた。アカの運命も――龍道山で『ドランクンヘヴン』に巻き込まれてこの場へやって来ることも――余白は予知していたのだろうか。

 歩きながら余白の横顔を窺う。振り向かず、表情を変えず、黙々と歩を進めている。

 すぐ隣にいるのは、二千二百年という途方もない時を生きてきた不死の超人。神に近づいた選ばれし人類。凡百の人々のはるか上を行く特別な存在。

 思わずアカは歩きながら身震いする。

 余白は前を向いたままずっと押し黙っている。畏れ多くて、話しかけづらい雰囲気となってしまった。薄桃の霧が地面に広がる原野を、二人は言葉を交わすことなく延々と並び歩いてゆく。

「生の果て」――つまりここはまだ「生」の領域だ。どこまで行けば「死」の領域となるのだろう。目に見える境界線は存在するのか。気づかないうちに「死」の領域に踏み込んでしまったりしないだろうか……すとんと落し穴に墜ちるみたいに。

 境界を越えてしまったら、もう後には戻れないに違いない。現世に蘇生できるのは、おそらくここまでだ。

 このまま余白についていって大丈夫なのかと、突然心配になる。一方で、余白に従うしか道はないようにも思える。「さだめ」を受け入れるしかないようにも。

 ずっと視界を遮るものは無かったが、しばらく進んだところで変化が生じた。

 前方に森が現れた。混み合う電車のように、背高の樹木がみっしりと立ち並んでいる。森の中は光が差し込まず、先が見通せないほど暗い。

 迷うことなく余白は森に踏み入った。アカはわずかに躊躇したが、余白の後に続いた。足の踏み場は一気に減り、樹々のあいだを二人は前後に並んで進む。

 余白の背後に回り、アカの萎縮が幾分ゆるむ。今だ。今こそ胸に閉まってきた質問をぶつける絶好のタイミングだ。

 アカは意を決し、問う。

「余白さん、おれとクロカワを引き合わせようとしましたよね? どうしてですか?」

 余白は振り返らず、木々をすり抜けながら答える。

「小山田アカ……陽の気……保つ……黒川ヒミズ……陰の気……保つ」

「解ります。続けてください」

 余白との再会の計画を立てたとき、トオノは仙人について下調べしておこうと提案した。仙人と、関連する道教や古代中国の思想――「気」「陰陽」――なども、二人で図書館に通い、予習しておいた。

 おかげで役に立ったよ、とアカは胸のうちでトオノに報告した。

「龍……太極の龍……気を吐く。気……両儀……分かれる……陰の気……陽の気に」

「龍の吐いた陽の気が、おれの体に?」

「龍道山……龍の吐いた気……強い陽の気……小山田アカ……移された」

「それなら覚えがあります」

 小学生のときの神秘体験――謎の光に全身を包まれたまさにあの瞬間、龍が吐き出した陽の気を浴びたのではないか。

「クロカワのほうは? クロカワも山で陰の気を浴びたんですか?」

「母親……陰の気……移された。黒川ヒミズ……移された……生まれる前……母親から」

「それって要するに――」

 先天性。ヒミズは陰の気をもって生まれた。一抹の希望さえ初めからなかった。この世に誕生した時点で、すでに彼女の暗澹とした運命は決まっていたのだ。

 運命に従い父親を失って片親となり、唯一の家族である母親から冷たくされ、中学ではいじめられ、高校ではクラスから疎外され、あげく『ドランクンヘヴン』によって短い生涯を終えた。

 あんた何のために生まれてきたの?――ヒミズの母の投じた台詞が頭の中で重く響く。

 ただ不幸になるために生まれた。不幸なまま死ぬために生まれた。

 アカは視線を落とし、唇を噛みしめた。

 余白は前を向いたまま、アカの様子が見えているかのように言葉をかける。

「小山田アカ……黒川ヒミズ……二人……特別」

 アカは顔を上げて、

「特別って……どこが特別なんですか」

「特別……強い気……特別……保ち続けている……世界中……他にいない……小山田アカ……黒川ヒミズ……二人だけ……二人……選ばれた」

 これも「さだめ」だろうか。もはや天命のままに従うよりないのだろうか。

 ふつうの高校生がふつうの生活を送っていただけだ。友達と馬鹿馬鹿しい話で盛り上がったり、恋人と体を寄せ合ってデートしたり、家族と些細な日常を報告し合ったり……。

 有名人にならなくても、金持ちにならなくても、充分に心は満たされていた。

 それなのに、自分の意思と関係なく「選ばれて」いた。「選ばれて」しまった。

 アカは助けを乞うように、余白の背に問いかける。

「おれは……どうすればいいのですか?」

 余白は抑揚のない声で、

「黒川ヒミズと……手を……つなぐ」

 アカは苛立たしげに、声を荒らげる。

「でももうクロカワは――」

 ハッとして言葉を切り、口をつぐんだ。

 生の果て。死と隣接する生の果て。この先は死の領域……。

 そうか。そういうことだったのか。

 終わってなどいなかった。今なお余白の計画は続いているのだ。目標達成に向かって最後の階段を登っている。すでに最終段階まで来ている。

 間もなく余白の望みは叶えられようとしているのだ。

 アカは最後の質問を投げかける。

「クロカワと手をつなぐとどうなるのですか?」

「陰の気……陽の気……合わせて……円をつくる……太極に……還す」

 アカの胸がにわかに高鳴る(心臓が止まっていない証だ)。黒川ヒミズの像が頭の中でいきいきとよみがえる。手を伸ばし、ヒミズの手を握る。ヒミズは小さく微笑む。

 アカは前を向く。余白の背中越しに、出口らしき明かりが見えた。

 二人は森を抜けた。森の先には、色鮮やかな草原が広がっていた。足元を覆っていた薄桃色の霧はすっかり晴れている。

 ふたたびアカは余白の脇に並んだ。その表情は引き締まっている。弱い気持ちを吹っきるかのように、アカは力を込めて地面を踏みしめた。

 草原には緩やかな起伏があり、進行方向に小高い丘も見えた。なだらかな斜面に白や黄色の小さな花たちが、点々とちりばめられている。丘の上にぽつんと立つ背の低い樹は、外形を鶴の飛び立つ姿に真似ている。

 緑を踏みしめ、丘を登ってゆく。登りきったところからその向こう側に見えたのは、緑の中にぽっかりと開いた円い池だった。池は深い藍色に染まっている。

 池のほとりに小さな人影がある。釣りに興じているようだ。岩に腰かけ、池に向かって竿を伸ばしている。物思いにふけっているのか、びくともしない。

 釣り人に近寄ると、竿の先に釣り糸が垂れていないのに気づいた。

「天水子」と余白が紹介する。

 余白の師匠。その体躯は子供のように小さかった。姿は異形で、まず頭頂部に皿をいただき、その周りから長く伸びた白髪は地面まで達している。白髪は顔を完全に覆い隠し、クチバシだけが突き出ている――カラスのようなクチバシが。

 竿を持つ手も、道衣から飛び出した足も、アマガエルのそれと似ていた。

 池に向いたまま、天水子はクチバシを開く。

「世界至るところ龍の姿あり。龍は天に昇り地に潜る。龍は気を吐き天と地をつなぐ。天と地は結ばれ安定を得る。安定は永続す。龍は陰の気と陽の気を程よく配分す。陰の気と陽の気を整える。龍は人びとに安定をもたらすなり。

 人びとは欲を持つ。欲を実現させんと行いを起こす。行いは自然に反す。自然こそ理想とすべきを行いに因りて破る。

 人びとの行いを文明と呼ぶ。文明は一途に明るく照らす。明るく照らして陰影を排する。明りが満ち陰影は姿を消す。陰と陽は不均衡に転じたり。

 龍は陰の気と陽の気を整える。文明はこれを壊す。陰陽を整える。人びとはこれを壊す。

 龍は力を落としたり。龍は数を減らしたり。九年前最後の龍が滅すなり」

 ――九年前。龍道山で謎の光に包まれたのも九年前だ。

 あのとき足下に、最後の生き残りである龍がいた。龍は最後の力をふりしぼり、アカに向かって気を吐いた。アカに全てを託し、姿を消したのだ。

 九年経った今もなお、龍の希望の火はアカの中で点り続けている。

「龍なき天と地は安定を崩す。不安定な天は暴れだす。天に存せぬものが天に現れ地へ墜ちる。地は天を恐れおののく。いずれ天は地を滅ぼす。生物は滅するのみ」

 天に存せぬものが天に現れ地へ墜ちる――すなわち『ドランクンヘヴン』。

『ドランクンヘヴン』はただの怪現象ではなかった。均衡をなくした世界の終末の兆し。放っておけば、人類の未来には破滅しかない。人類の永い歴史を見続けてきた天水子と余白には、今が最大の危機であると映っているのだろう。

 この危機を乗り越えるために、アカは召喚されたのだ。

「天と地の安定を欲す。龍の復活を欲す。龍は太極なり。太極より分かれし両儀を合わせて太極に還さんとすれば、龍は復活し、天地は安定す」

「ラジャー!」敬礼ポーズでアカは応じた。そして余白に振り向き、「クロカワは――黒川ヒミズはどこにいるんですか?」と問う。

 余白はここまで辿ってきた道筋と反対の方向を指差し、

「まっすぐ進む……川にぶつかる……彼岸に……黒川ヒミズ……待っている」

 それだけ伝えて、説明を終えた。

 余白の態度から、案内はここまでであるとアカは察した。

 全てアカに一任された。人類の未来を委ねられた。

 アカは唇を固く結び、背筋を伸ばす。

「天水子様、余白さん――では行ってきます」

 二人に背を向け歩き出そうとしたところで、

「小山田アカ……」と呼び止められた。

 余白は胸の前で拳と手のひらを合わせる拱手を示し、こうべを垂れる。

 アカは照れ気味に顔をほころばせ、

「エイ、エイ、オーッ!」天に向けて勢いよく拳を突き上げた。

 己に気合いを入れ、身を翻し、彼岸を目指して駆け出す。



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