第18話

 朝6時半に起床した二人は、すぐさま二度目の野天風呂に向かった。

 昨夜は闇に埋もれていた山並みが朝日に照らされ、巨大な壁のように左右いっぱいにそばだっている。暗い緑から鮮やかな緑まで、濃淡さまざまな緑が山の面に配されている。

 右に視線を向けると、本日登る龍道山の山容も見て取れた。

 龍道山。標高二千百十メートル。パワースポットとして名高い霊山。

 登山に訪れる者も多く、整備された登山コースは標高差が五百メートルほどで、初級者でも難なく楽しめると評判だった。

 アカの両親はそろって登山愛好家だが、アカ自身は山に思い入れなどまるでなかった。今回の山登りに際し素人同然の息子に、タツヤは山登りのノウハウや必携グッズなどあれこれ伝授したのだった。

 神聖な朝の光を浴びながら温泉で禊を済ませ、二人は風呂から上がった。続けて朝食を猛スピードで平らげ、予約しておいた龍道温泉特製の登山弁当をフロントで受け取る。

 登山リュックに一リットルの飲料水を詰め込み、スポーツタイツを履いて、準備万端。チェックアウトし、徒歩で登山口へ向かう。

 舗装された一般道路を二十分ほど歩いた先に、登山口の看板を見つけた。道路から山へ少し入ったところには、木製の古びた鳥居が立っている。

「来たぜ。異界の入口だ」トオノは鼻息を荒くした。

 鳥居をくぐったところから登山道が始まる。少し進むとY字に分岐して、どちらの道も山頂へと至るように設えられていた。アカたちは右の道から山頂を目指し、折り返して左の道から帰ってくるコースを選んだ。往復で3時間の行程となる。

 初めのうちは道幅もあり、一部に階段まで備えつけられていた。しかし進むにつれ道は狭まり、急な坂や地面から飛び出した石などの障害が繰り出され、行く手を邪魔した。

 もはや普通の山登りだった。二人は息を切らせ黙々と突き進む。ともすると大事な目的を見失ってしまいそうだが、二人はちゃんと余白の影を求め、四方に目を配りながら進んでいた。

 脚を動かしながらアカは心のうちで余白にひたすら呼びかけた。

 いるならどうか出て来てください。詳しく話を聞かせてください。何もかも知りたいんです……。

 急斜面で滑らないよう足を踏ん張るたびに、念にも力を込めた。

 汗も拭わずノンストップで登り続ける。好タイムが出そうなほどのハイペースで登山道を駆け登る。ここまでくれば山頂はそう遠くないはずだ……という地点で二人は一旦足を止めた。アカはスマホを取り出し、登山用GPS地図アプリを立ち上げる。

「コース通り来てる。頂上まであと15分だってさ」

「おおう。早いとこ余白さん出てきてくれないかな。オレの筋肉が限界に達する前に」

 ペットボトルを握りしめぐいぐいと水分補給してから、呼吸を整え、登山を再開する。

 頂上も間近に迫ったとき、

「うわ。なんだ、あれ?」アカが前方を指差した。「岩か?」

 道のすぐ側に異様な迫力を放つ巨大な岩が現れた。見たところただの岩ではなさそうだ。しめ縄が巻かれており、厳かなたたずまいを醸している。

 二人は足を止めて荘厳な巨石を仰いだ。

「アカ、磐座だ」

「いわくら?」

「神の宿る岩さ」

「神の岩……神の石……石神……イシガミ!」

「む」トオノは目を閉じ、「感じる……感じるぞ、アカ。強力なエネルギーの波動を。オレの体内に宇宙エネルギーが満ちていく」

「同調したか」

「未来が視える。ミーナちゃんはオレのものになる」

「宇宙エネルギーの割には、やけに個人的な予言だな」

 巨石からパワーを受けた二人は気合いを入れ直し、さらに上を目指す。

 ほどなくして岩がごろごろ転がる、テニスコートほどの広さの山頂へ着いた。周囲の山並みを見晴らし、大きく息を吐いて、荷物を下ろす。

 山頂には鳥居と祠だけの小さな神社が建っていた。二人は並んで参拝し、余白との再会を願った。

 岩に腰を下ろし、龍道温泉特製の登山弁当を広げる。特大のおにぎりが二つと、玉子焼きに漬物。海苔のベールに包まれたおにぎりは、山菜ご飯を握ったものだった。

 慣れない運動で空っぽになった腹を埋めるべく、豪快に特大おにぎりへかぶりつく。大自然の中でつい野性的になり、本能のままにむさぼり食らう。

 すぐに特大おにぎりは跡形もなくなり、二人の昼食はあっけなく終了した。

 飲料水を飲みながら山を眺め、足を伸ばしてひとまず休息する。野鳥のさえずりを耳で味わい、山の静けさに浸り、心地よい風を感じつつ、精神を安らかに整えていく。

 すっかり落ち着いてきたところで、トオノが口を開いた。

「アカ……昨日言った『別の女子に気が向いてる』って、もしかして黒川ヒミズか?」

 不意をつかれ、アカは返事に窮した。

「やっぱそうか。だけどもう、亡くなってるんだぜ?」

 何も言えないアカに、トオノは横目を向ける。

「今まであえて訊かなかったけど……」と前置きし、「以前に、黒川ヒミズがアカを凝視してたよな。その後ミーナちゃんと別れて、黒川はアカの自宅前で『ドランクンヘヴン』に巻き込まれて亡くなった。……なあ、アカ、黒川ヒミズとのあいだに何があったんだ?」

「…………」

 トオノは三十秒ほどアカの返事を待ち、最後にはあきらめた風で、

「……わかった。言いたくないなら、もうやめとく。言いたくないってことは、それだけ大事に想っているってことだからな」

 大事に想っている――この世にいないのにも関わらず。他人からは「かわいそうな奴」としか映らないだろう。いくら想ったところで、しかたない。手を触れることさえ叶わないのだから。

 それでもアカには断ち切れなかった。むしろアカの中で逆に存在が大きくなっているのだ。今も頭の中にヒミズが住んでいる。恥じらうようにうつむき加減で立つヒミズが、確かにいる。

 休憩を終え、二人はリュックを背負って立ち上がり、下山に向かう。帰りのバスの時間を考慮すると、山中にとどまってばかりもいられない。このまま余白に会えなかったなら、今回は断念して大人しく帰ろうと決めた。

 頂上を挟んで登ってきた道と反対側に、もう一本の道が伸びている。ここから下山すると登山口近くにあった分岐点に至り、往路と合流するはずだ。登山用アプリでルートを確認しながら、アカたちは帰路を下っていく。

 帰路も半ばまで進んだころ、アカが前方の道に転がる何かを発見した。

 離れた地点から見たとき、それは白ウサギに見えた。しかし近づくにつれ、生き物ではなく人工物であることが判明した。

 二人の足元に、大ぶりの招き猫が転がっている。

「なんでこんなところに招き猫が?」

 アカの疑問にトオノは肩をすくめて、

「店やってる人が持ってきたんじゃないか? 商売繁盛を願って」

「こんなでっかい招き猫を登山に? 重いだろ」

 左のほうから、ドスンという物音。

 道の左側は急斜面の壁となっていた。その壁面をパチンコ玉よろしく立木にぶつかりながら転がり落ちてくるあれは――ゴールドに輝く派手な招き猫だ。招き猫は急斜面から登山道に達すると、ぽかんとする二人の前をゴロゴロと横切る。

 道の右側は同じく急斜面の崖だった。道を横断した黄金色の招き猫は、崖の手前でブレーキをかけることもなく、そのまま谷底へと消えた。

 招き猫の転落を見送って、アカとトオノは顔を見合わせる。

「これって、もしかしてアレじゃね?」トオノがぽつりと言う。

 二人は枝葉のあいだから空を見上げた。

 無数の小さな影が。ムクドリの大群に似た。不気味に空を覆っている。

 爆弾一斉投下……戦争は未体験だが、アカは空襲を連想した。

「やっべ!」トオノが声を張り上げた。

「逃げろ!」アカが叫ぶ。

 上空から招き猫の爆弾が矢継ぎ早に降りそそぐ。この硬くずっしりと重い焼き物が脳天を直撃したら、ひとたまりもないだろう。

 脳天から噴き出す血で真っ赤に染まった黒川ヒミズの顔が、アカの脳裏によみがえる。

「リュックで頭を隠せ、イシガミ!」

 頭の上に登山リュックを被り、でこぼこの山道を駆け下りる。走りにくい上に恐怖心が加わり、思い通りに脚が繰り出せない。

 招き猫の雨はいっそう激しさを増した。招き猫のどしゃ降りだ。

「助けてくれ!」泣きそうな悲鳴を上げるトオノ。

 助けを呼べども前後に人影はない。洞穴のような隠れる場所もない。よりによってなぜこんな場所で『ドランクンヘヴン』に? 

 地響きが。

 急斜面の壁の上方。凄まじい量の招き猫が、空から滝となって流れ落ちている。衝撃で削られた土砂。なぎ倒される木々。土砂崩れと共に招き猫の波が、急流となって斜面を滑り落ちて来る。

 招き猫の雪崩――。

 トオノはリュックを投げ捨て、咄嗟に近くの大木に飛びついた。幹を夢中でよじ登り、

「アカ! オレの足につかまれ!」

 迫り来る土砂崩れに足がすくんでしまったアカは、トオノの声にようやく反応して手を伸ばした。

 指先がトレッキングシューズに触れたと同時。圧倒的な招き猫の雪崩がアカへ襲いかかる。

 招き猫の激流はあっという間にアカの脚を呑み込み、腰を呑み込み、胸を呑み込み、押し流す。道を乗り越えた激流は、その勢いのまま反対側の谷底へと流れ落ちていく。

「アカ――!」

 間もなく『ドランクンヘヴン』は収まり、招き猫の雪崩は止んだ。しかしアカの姿は見当たらない。大量の招き猫と土砂の山――その下に、アカは完全に没したのだった。

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