第17話

 旅行に出かけるアカを、すでに退院して自宅に戻ってきたミサトが、見送る。

 通年ポジティブな母は骨折して以来少々マイナス思考気味で、

「どうも嫌な予感がする。ぜったい遭難しないでね」とアカに何度も念を押した。

「登山用GPS地図アプリをスマホに入れたから、問題ないよ」アカは請け合う。

「とにかく気をつけて。戦火のあいだを抜けていくぐらいのつもりで」

「そんなにビクビクしてたら、山の景色を楽しめないよ」

「いいから気をつけなさい」

「はーい」

 駅でトオノと合流し、新幹線で長野に向かった。普通電車に乗り換え、R駅で降りてから、バスに乗る。しばらく進むと山が迫り、バスは右へ左へと向きを変えながら山道を登り始めた。道の両側に整然と立ち並ぶカラマツの樹を、アカはぼんやり眺めていた。

 旅館前のバス停に着くと、アカたちの他に二組の夫婦も一緒に降りた。どちらの夫婦も宿泊客のようで、登山スタイルだった。目的は違えどアカたちも山登りをするので、服装などそれなりに準備は整えてきていた。

「龍道温泉 長生館」は客室数が二十の小規模な温泉宿だった。左右いっぱいまで山並みが見渡せる絶景野天風呂が好評で、秘湯好きのあいだではつとに知られていた。

 チェックインを済ませたアカたちを、仲居が部屋へと案内する。仲居はてきぱきとした、つぶらな目の年配女性だった。

 部屋は畳敷きの素朴な和室で、窓の外にはカラマツが林立している。その向こうは深い森が茂り、夜遅くには多くの野生動物に出会えるという。

 温泉や食事について一通りの説明を終え、仲居が退室しようとする。ところをトオノは呼び止め、訊ねた。

「つかぬことを伺いますが、余白さんってご存知ですか?」

「ええ、知っています。見かけたこともあります」

 アカとトオノは目を見合わせた。まさかこれほど早々に情報が聞き出せるとは。

「私は一度だけ、明け方にこの付近で見ました。道の端に立って、空を見上げていました。こんにちは、と声をかけたのですが、こっちを振り向いただけで、黙っていました」

「他に余白さんを見た方は?」

「私の父は二度、龍道山の山中で出会ったことがあるそうです。他にもうちのスタッフやお客様からも、余白さんを見たという話を聞いております」

 どうやらこの界隈では結構目撃されているらしい。ツイッターの投稿もガセではなかったようだ。

 トオノは取材を続ける。

「余白さんは、仙人の余白と同一人物なのですか?」

 仲居は一笑に付して、

「確かにそっくりなんですよ、あの肖像画と。それでみんな親しみを込めて余白さんって呼んでいるのですが、もちろん仙人ではありません。普通の方です。どこからやって来るのか、どこに住んでらっしゃるのかは存じ上げませんが」

「仙人ではなく『ちょっと変わった人』みたいな?」

「そうですね……不思議な方だな、とは感じました。オーラと言いますか、確かに超越的な雰囲気はありましたね」

「雰囲気だけですか? 何か超能力めいたパワーを使ったりは?」

「超能力はないですが、一つだけ……」

「一つだけ?」トオノは首を伸ばす。

 仲居は少し間をおいてから、

「私の父が二度会ったと言いましたが、一度目は三十代のときで、二度目は六十代のときでした。その三十年間で、余白さんの外見がまったく変わっていなかったって言うんです。それこそ本当に、不老不死でないのかって思えるくらいに」


 山菜、きのこ、川魚など種類豊富な料理がこれでもかというほど並んだ宿の夕食も、食べ盛りの男子二人には物足りないくらいだった。早々に胃袋へ収めきり、二人は余白について意見を交わす。

 余白は龍道山に住んでいると、トオノは断じた。アカも異論はない。これだけの目撃情報が集まれば、可能性としては十分に思えた。

 とはいえ目撃の回数は決して多くない。出会える確率は相当に低いはずだ。よほどの幸運に恵まれない限り、その姿は拝めないに違いない。

 それでもトオノは余白に必ず再会できると断言した。

「アカ、期待してるからな」有望な部下に対する上司のような口ぶりで言う。

「おれの何に期待しているんだ?」

「アカの存在にさ。ぶっちゃけ、そこにいるだけでいい」

「どういう意味だよ?」

 トオノのメガネがきらりと光る。

「いいか、アカ。きっとアカの姿を見つけて、余白さんのほうからアプローチして来るはずだ。そして現れたところを、二人で取り囲んでガッ! て」

「オトリか」

「見事おびき出してみせるぜ」

「でもどうして、向こうからおれに近寄って来るって思う?」

「余白さんはアカにご執心だからな。理由は不明だけど」

 ヒミズのメールについてはトオノに話していない。余白がアカに近づいた目的はヒミズとアカのあいだを取り持つためだったということを、トオノは知らないのだ。

「どうしてだろうな。耳が欲しいわけでもないし」アカはとぼけた。

 それにしてもヒミズが亡くなり計画が流れてしまった今、果たして余白のほうからやって来たりするだろうか?

 ここは辛抱強く待つのみだろう。とにかく期待して待つしかない。

 余白に会いたいというアカの気持ちは日増しに募っていた。余白に会うために(必ず会えるとは限らないのに)遠路はるばるやって来たのだ。その真摯な思いが何とか通じれば――通じてくれと、アカはひそかに祈っているのだった。


 龍道温泉の売りである絶景野天風呂はすでに夜の闇に囲われていた。手前にカラマツのシルエットが並び、遠くには闇に馴染む山影。振り仰げば、我を忘れてしまうほどの無数の星々が夜空を装飾している。

 野天風呂にはアカたち以外、客の姿はなかった。二人は温泉に浸かり両手両足を惜しげもなく伸ばして、開放感を味わう。

 余白探しの山登りは、明朝10時スタート。今は明日に備えて身体を休め、体力を蓄えているところだ。

「あー、温泉が筋肉に染み込むな」トオノは間の抜けた顔で言った。

「効いてる感じするよな」アカもすっかりリラックスしている。

 しばらく二人は黙って夜空を見上げながら、湯船に体をあずけていた。話し声が途絶えると、湯口から温泉がとぷとぷと流れ出る音しか聞こえてこない。夜の山あいの静けさまでも、温泉と共に体へ染み込んでくるようだ。

 しばしウットリと時を過ごし、トオノが口を開く。

「アカ……ミーナちゃんとは完全に別れたんだよな?」

「……うん。まあ」

 ザッ。勢いよく湯を散らしながら、トオノはにわかに立ち上がった。闇に広がる大自然へ堂々と全裸で対峙し、力強く拳を握る。

「オレ、ミーナちゃんに告ろうと思う」トオノは宣言した。「――んだけど、いいか?」

 どうぞどうぞ、とアカは手のひらで示し、「頑張れよ」と応援する。

 トオノはガッツポーズを作り、温泉に飛び込んだ。頭まで潜り、そこからクジラのブリーチよろしく飛び出して、夜空に吠える。

「頑張る。ミーナちゃんを彼女にしてみせる。確実に」

「力みすぎ」アカは笑って、「でも知らなかったよ。イシガミがミーナを狙ってたなんて」

「今だから言うけど……前にオレらとミーナちゃんの三人でサイゼリヤに行っただろ? あのときオレのくだらないギャグに、ミーナちゃんがとびきりのスマイルを返してきてさ。それ見たらもう胸キュンがキュンキュンキュンキュン止まらなくなってさ。……ああ、オレはこの子が好きだ! って、気づいちゃったんだ」

「へえ~」

「アカがうらやましくて妬ましくて、毒殺しようと計画を立てたこともある」

「衝撃の告白だな!」

「苦しんだよ。地面をのたうち回って懊悩した。全身の生皮を剥がれた気分だった」

「そんなに悩んでたのか……悪かったよ、イシガミ」

「こっちこそ。なんだかアカたちが別れてラッキーって、喜んでるみたいで」

 アカは穏やかに首を振った。

「いいんだ、本当に。もう別の女子に気が向いてるしさ」

 トオノは驚愕の表情で振り向き、

「えっ! 誰だ? それ――うわっぷ」

 トオノの顔に湯を浴びせ、アカは笑いながら、

「教えね」意地悪く言った。

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