第14話

 スーパーの惣菜コーナーで買ってきたトンカツが、土曜の夕食メニューだった。タツヤと差し向かいで、アカは夕食をとる。タツヤの作ったみそ汁はだしを入れ忘れたため、ほとんど味がなかった。

「すまないな、アカ」

 アカは黙ってうなずいた。

 ミサトは地元の総合病院に入院中で、家にいない。肘を骨折したのだ。リビングで転倒した際に負った怪我だが、きっかけはタツヤの暴力だった。

 あの日タツヤは無神経な上司から嫌味を言われ、虫の居所が悪かった。しかし性格上、顔に出してはいなかった。それが災いして、ミサトは夫の不機嫌に気づかなかったのだ。

 リビングでソファに座るタツヤの横に立ち、

「渡辺さんとこの旦那さんは毎週、家の浴室を洗ってくれるんだって。黒カビまできちんと落とすのよ。ああ、うらやましい」

 あろうことか、嫌味を重ねてしまった。

 カチンときたタツヤと日頃の不満が爆発したミサトのあいだで、諍いが始まった。夫婦喧嘩はさして珍しくないが、このときは何かがおかしかった。

 ヒートアップが最高潮に達したところでタツヤは立ち上がり、ミサトを突き飛ばした。

 タツヤは鍛え上げた己の肉体が、他人を容易に傷つけてしまうことを自覚していた。暴力の行使は断固として封じてきた。妻に手を上げるなんて、結婚以来一度たりともなかった。

 ――魔が差したのだろうか。

 床に転がり苦しみ悶えるミサトを目にして、タツヤはようやく我に返った。骨が折れていると判断し、すぐに応急処置をおこなった。間髪をいれず救急車も手配した。

 手術は無事に終わった。安心した途端、激しい自責の念がタツヤを襲った。「馬鹿なことをした」「馬鹿なことをした」と、タツヤは何度も繰り返した。

「馬鹿なことしてしまったよ、本当に」

 トンカツを箸で刺し、タツヤはまたも同じフレーズを発した。アカは黙々と夕食を口に運ぶ。

「アカ――」五秒間をおいてから、腹をくくったように「お前が言うなって話だけど――女に暴力を振るうなよ」

 アカは箸を止め、上目を父に向ける。タツヤは自嘲気味に、

「後悔することになるからな。俺みたいに」と付け加えた。


 夕食が済むと、アカは自分の部屋に戻り、ベッドに倒れ込んだ。脳内で「女に暴力を振るうなよ」という父の言葉が、しつこくリフレインしている。

 そしてリフレインするたびに、頭がズンズンと重くなっていく。

 幼少のときからアカは周囲に対して友好的だった。年齢を重ね分別をわきまえるようになってからは、つかみ合いの喧嘩など一度たりともなかった。親にも、友達にも、たとえ言い争いになったとしても、むやみに手を出すなんてあり得なかった。

 では――あの日、どうして黒川ヒミズを突き飛ばしたのか?

 自分を抑えきれないほど感情的になっていた。ヒミズがつきまとうせいで、ミーナと別れる羽目になった。こっちはひどく落ち込んでいたのに、ヒミズは逆に好機と捉えたらしく、学校から自宅まで後をつけてきた。さすがに自宅前まで来ると、もう限界だった。

 ヒミズが何も言わないので、何を考えているかさえ解らない。おまけに人へ呪いをかける特殊能力も有している。気味が悪かった。きっと内心では、怖かったのだろう。

 まともではなかった。後先考えず、突き飛ばしてしまった。封印していたはずの暴力を……しかもか細い女子相手に振るってしまった。

 ヒミズは転倒した際、足首を負傷したようだった。声こそ上げなかったが、いつも無表情のヒミズが明らかに苦痛の色を示していた。

 しかしケガの程度は判らない。軽い捻挫か。手術が必要な骨折か(非常に細い脚だったので、可能性はゼロではないだろう)。

 アカは背を向け立ち去った。道路に倒れたヒミズを残したまま。その直後に彼女が起き上がったか、倒れたまま動けなかったか、確認はできていない。ただ、ヒミズがバットの直撃を受けて倒れていた地点は、アカが突き飛ばした地点に近かった。つまり道路に倒れたまま立ち上がらなかった可能性が高い。

 ――すると。

 あのときヒミズは立ち上がることも歩くこともままならず、そのために『ドランクンヘヴン』から逃げ遅れたのではないか。そのために命を落としたのではないか……。

 例えばあのまま二人ともマンションの中まで入っていたなら、難を免れたに違いない。ところが実際はヒミズを置き去りにし、屋根の下に逃れたのは自分だけだった。

 にわかに罪の意識が、アカに重くのしかかる。

 浅倉マユはヒミズに会って謝りたいと言っていたが、アカも同じ気持ちだった。謝りたい。土下座して謝りたい。何千回だって謝りたい。

 アカはようやく気づく。非があるのは自分のほうだったのだ、と。まるで自分が被害者のように振る舞っていたが、逆だった。自分が間違っていた。思い違いをしていた。

 思い違い――そう、すべて自分の勘違いだったのだ。

 ヒミズに対する無知が勘違いを生んだ。ヒミズから繰り返しアプローチされ、何か伝えようとする意思をあからさまに示されていたにもかかわらず、それを迷惑だと一方的に撥ねつけた。

 確かにヒミズは終始無言だったので、真意を測りかねたというのはある。だがそれなら、こちらから言葉を引き出すべきだった。彼女は声を形にしようと懸命だったのだ。その思いに応えるべきだったのではないか。

 ヒミズは何を伝えたかったのか? 何を思っていたのか?

 わからない。わかりようがない。

 黒川ヒミズは死んでしまった。完全に口は閉ざされてしまった。もう永久に真意を聞き出すことはできないのだ。

 後悔することになるからな、というタツヤの言が耳の奥で鈍く鳴り響く。


 風呂に入っても、風呂からあがっても、黒川ヒミズが頭から離れない。ベッドに腰かけ、いつまでも際限なく考え続けている。

 遺影のヒミズが、道路に転倒したヒミズが、血まみれのヒミズが、後をつけてきたヒミズが、教室で迫ってきたヒミズが、席からこちらへ顔を向けていたヒミズが、木崎たちにからかわれていたヒミズが……現れては消え、現れては消える。

 どうしようもないくらい頭の中をまるっきり黒川ヒミズが占めている。

(おれは……どうしたい?)

 素直に答えるなら、

 クロカワの声が聞きたい。無性に聞きたい。

 クロカワと言葉を交わしたい。気持ちを伝え合いたい。

 クロカワのいた過去に戻りたい。クロカワを生き返らせたい――。

 ブーッ。机に置いたスマホが震えた。取り上げると、LINEの通知が。

 ミーナからだった――このタイミングで。ヒミズの幻影がちらつき、LINEメッセージを開くのにためらう。アカのスマホを介してミーナとヒミズがぶつかり合う。

 以前にも似たようなことがあった。ミーナと遊園地に行き、カフェでメロンソーダを飲んで一息ついていたとき。出し抜けにヒミズからメールが届いたのだった(どこでメアドを知ったのか定かでないが)。焦った。ミーナはすぐに感づいた。必死に言いつくろったが、ミーナは気分を害してしまった。

(……メール?)

 いきなり届いたヒミズのメール。あのときはミーナに悟られまいと、急いで削除したのだった。

 しかしメールはゴミ箱フォルダーに移動しただけで、完全に消えたわけではなかった。それが自動消去されるのは一週間後。メールが来たのは遊園地に行った今週の日曜で、今は土曜の午後十一時……。

 あった! ゴミ箱フォルダーから大事そうにメールを救出し、画面をタップして開く。

 ヒミズの肉声。ヒミズの本心。胸を高鳴らせながら、読み進める。アカへ遺したヒミズの唯一のメッセージを。

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