第11話
遊園地に行った翌日の月曜日。ミーナと一切口をきかず、一日を過ごした。放課後になって、ようやくミーナから声をかけてきた。話したいことがある、と。
重い足取りで階段を登り、二人は校舎の屋上に出た。何もない屋上は薄曇りの空みたいな色が、足下の全面に広がっている。
天気予報の降水確率は70%。制服を揺らす強い風が雨雲を運んできている。
「わたしたち、普通の友達に戻りましょう」ミーナが切り出した。
初めにアカの頭に浮かんだのは、ミーナの裸体だった。アカはかぶりを振って、イメージを追い払う。
ミーナは苦悩の色を浮かべ、続ける。
「わたし、黒川さんが怖い。きっとわたしを邪魔だと思ってる。いつか呪いをかけられる。殺されるかもしれない」
「おれが守る。ミーナを守ってやる」
「そんなの無理だって、アカくんも知ってるでしょう?」
「呪いを防ぐことはできない。だからその前にクロカワを説得する」
「どうやって?」
「クロカワに面と向かってはっきり言う。おれと南田は付き合っている。おれたちの邪魔をしないでくれって」
「そんなこと言ったら、よけい恨まれるよ。わたしだけじゃなく、アカくんまで呪いをかけられちゃう」
黒川ヒミズを怒らせないように。反感をかわないように。常に彼女の機嫌をうかがいつつ、平穏を保たなければならない。
イニシアティブは黒川ヒミズにある。彼女を畏れ、彼女に従うしかないのか。
「でもクロカワがおれを好きだって、まだ決まったわけじゃないさ」
「決まってるよ。わたしは同性だから、黒川さんの気持ちがよくわかる。彼女の態度を見れば、ぜったい。間違いない」
最初に教室でヒミズと顔を合わせて以来、ずっと嫌な感じを引きずってきた。何とかごまかしてきたが、どうやら限界が近づいたようだ。
「それじゃ……」
ミーナは唇を引き結んで、うなずいた。
「もう二人の関係を解消するしかないよ。彼氏と彼女の関係を」
たしかにミーナが身を引けば、ミーナ自身の危険は回避できるだろう。しかしその隙にヒミズがますます入り込んで、アカに猛然とアプローチを仕かけてくる可能性は否定できない。アカにとって、もっとも恐るべき事態だ。
もちろん、ミーナを引き留める理由はそれだけじゃない。
「だけど、ミーナが好きだ、おれは。大好きなんだ。別れたくない」
途端にミーナの大きな瞳から涙があふれ出た。そんなこと言わないでよ、とミーナはアカの胸を押しのける。
「わたしだって。アカくんが好きだよ。アカくんともっと手をつないで歩きたい。アカくんともっとキスしたい。アカくんともっとエッチなこともしたい。でも……」
ミーナは両手で顔を覆い、しゃがみ込んだ。
「……もうできないんだよ」
ふくらんだ風船の口紐をほどいたように、身体から生気が抜け出ていく。生きているのか死んでいるのか、もうよく判らない。
「こんなの……」泣き伏すミーナを見下ろし、アカも涙をこぼす。「こんなのって、ないだろ」
アカとミーナの恋仲が潰えた翌日。竜宮高校からの帰り道、アカは背後に誰かがついて歩いてくるのを察知した。
振り返るまでもない。黒川ヒミズに決まっている。恐れていた通り、隙が生じたのを見計らって、飛び込んできたのだ。ここが好機とばかりに。
ミーナと別れたなんて誰にも口外していないが、いつも注意深く観察していれば、この二日間二人がぎくしゃくしていたのは容易に判断できたはずだ。2・Aの生徒全員が気づいていたに違いない。きっと二人のあいだに何かあったのだ、と。
一時的な喧嘩か、完全な離別か、そこまで判らないとしても、ヒミズは陰でほくそ笑んだことだろう。
この日も、本来はミーナと一緒に下校する予定だった。独りで帰宅するアカの寂しそうな後ろ姿を見つけて、ヒミズは居ても立ってもいられず、追いかけてきたのに違いない。以前発することが叶わなかった言葉を、いよいよぶつける気だろうか。
コンビニの前を過ぎ、手抜き公園の付近を過ぎ、ドラッグストアの横を過ぎた。相変わらずヒミズはぴったりとついてくるが、一定の間隔を慎重に保ち、決してアカの背に追いつくことはなかった。
アカが赤信号で立ち止まると、ヒミズは不自然にも離れた場所に立ち、信号が変わるのを待っていた。二人のあいだを詰めてはならないルールでもあるかのように。
話しかけるタイミングを計っているのだろうか。逆にアカから話しかけてもらえるのを待っているのだろうか。
アカとしては放っておくつもりだった。気づいていないふりを貫き、あくまで自然に、いつも通り家に帰るだけ。――ヒミズから話しかけられるまでは。
マンションの立つ角を曲がった。駅のホームが見えてきた。
もう間もなく駅に着く。ヒミズがどこから通っているのか、通学に電車を利用しているのか、アカは知らない。定期券を持っていないなら改札の前で断念するのではないかと、ひそかに期待する。
ICカードを読み取り部に当て、改札を抜ける。
ホームのベンチにアカは腰をおろし、スマホを取り出して、次の電車を待つ。その5メートル先に置かれた飲み物の自販機。その横に、黒川ヒミズが。
……改札を抜けてハイ終わり、とはいかなかったようだ。
二人は同じ電車の同じ車両に同じドアから乗り込んだ。ドアのすぐ左横、ロングシートの端にアカは腰をおろす。そのロングシートの反対の端に、ヒミズは座った。電車はすいており、二人のあいだを遮る乗客の姿はない。大きくあいだを空けつつ、二人は一つのシートに腰かけている。
アカはスマホから目を離そうとしない。首を左に向けないよう気をつけて。ヒミズのたとえ一部分でも目に入れるもんかと、アカは意地になっている。
スマホに集中できるはずもない。アプリを意味もなく開いては、スマホの画面に指先を適当にすべらせ、時間をやり過ごす。
地元の駅に着いて電車を降りると、ヒミズも続いた。二人は間隔を保ったままホームを進み、エスカレーターに乗り、改札を出た。
駅前にはスーパー、コンビニ、花屋、居酒屋などが並ぶ。そこそこ賑わう駅前を背にし、十五分ほど歩けば、小山田一家の居住する6階建マンションに着く。
マンションの近くまで来ると人影はめっきり減って、通りは静けさに包まれている。それだけに、後ろから歩いてくるヒミズの気配が一層ありありと感ぜられた。本当はぴったり寄り添うように背後に立っていて、いきなり首に飛びついてくる――そんなホラーチックな場面を想像してしまう。
どこまでついてくるつもりだろう。このままでは部屋の中まで押し入ってきそうだ。
自宅までの道のりが今日はやけに遠い。時間の進みがのろのろしている。
母さんはいるだろうか。買い物や遊びに出ることが多いから、確率は三十パーセント程度。
どうでもいいけど疲れた。帰ったら即ベッドに倒れこもう。
黒川ヒミズ。自宅。黒川ヒミズ。自宅。
――帰還。
マンションのエントランスは道路に面して開いている。アカはその前で立ち止まった。
ヒミズも一緒に立ち止まった。一定の間隔はそのままに。
マンション前の路上で不自然に立ちつくす二人。
ふいにアカはザ・ノース・フェイスのリュックを背中から外した。そしてリュックを頭上に振り上げ、アスファルトの地面に力いっぱい叩きつけた。
振り返り、大股でヒミズに歩み寄る。口をわずかに開き動揺している風のヒミズ。一歩も動かずアカを迎える。
「どういうつもりだ?」アカの声が震える。
ヒミズは唖然とした顔をアカに向けた。彼女の唇も、かすかに震えている。
「しつこく家までついてきて……」
ヒミズは一言も返さない。口元に困惑の色がうすく見え隠れする。
「迷惑なんだよ。これ以上つきまとわないでくれ!」
気圧され、母に叱責される子供のようにうつむく。
「クロカワのせいだからな」アカは歯を食いしばり、「おれとミーナが別れたのは」
ヒミズはハッと顔を上げた。
「満足か? ミーナが邪魔だったんだろ?」
小刻みにかぶりを振る。
「勘違いするなよ」徐々に呼吸が荒くなっていく。「はっきり言うぞ。おれに言い寄ってもムダだ。クロカワとは関わりたくない。顔も見たくない」
「…………」
「何とか言ってみろよ」
「…………」
「言えないなら向こうへ行ってくれ」
「…………」
「どうした? さっさと行けよ」
「…………」
アカは両手を伸ばし、ヒミズの肩を鷲づかみにした。
「行けっ」
掴んだ肩を勢いよく突き放す。ヒミズはアスファルトへ崩れるように倒れ込んだ。
ヒミズは倒れたまま立ち上がることができない。口元をゆがめ、足首を押さえている。倒れる際、足首を変にひねったようだ。
ヒミズに背を向け、アカは無言で立ち去る。投げ捨てたリュックを拾い上げ、マンションのエントランスに進む。
エントランスに入ったと同時、すぐ背後でカミナリが落ちたような凄まじい轟音が。
……?
ゆっくりと振り返る。バットだ。野球で球を打ち返すのに用いるバット。木製バット。金属バット。あらゆる種類のバットが――おびただしい数のバットが――地面に転がり、マンション前の一帯を覆いつくしている。
唐突な光景を目にし、アカは思考がストップした。真っ白な頭で、バットの大群をぼんやりと眺める。
それからようやく、ぽつりと言った。
「『ドランクンヘヴン』……」一歩踏み出し、エントランスを出る。
一歩。わずか一歩の違いで、アカは降り注ぐバットの直撃を受けていたかもしれない。
内と外。生死の分かれ目。――生死の。
「クロカワ……」
マンション前の道路は延々と続くバットの川と化していた。そこにひっそりと浮かんでいる、制服をまとった女子高校生の身体。
黒川ヒミズは無数のバットに囲まれ、仰向けで横たわっていた。顔の傍らに、変形した金属バット。そのバットがぴったり嵌まるくらいの窪みが、ヒミズの脳天に。
脳天は陥没し、毛髪がごっそり抜け落ちている。窪みから絶え間なく血が噴き出し、不気味なほど顔面を真っ赤に塗っている。いつも顔の半分を覆っている前髪はめくれているが、代わりに鮮血がべったりと瞳を隠していた。
頬にも血。耳にも血。唇にも血。顎にも血。
……めまいを覚えるほど、大量にあふれる血液。
救急車を呼ぶか。呼んでも手遅れか。一見とても助かりそうにないが、今の医療技術なら何とかなるのではないか。
「救急車」
アカは慌ててポケットからスマホを取り出す。しかし手につかず、くるくると宙を舞ってスマホは落下した。転がる金属バットに激突し、画面が砕ける。それからヒミズの流した真っ赤な血の沼へと、絶望的に沈み込んでいった。
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