第10話

「やっべ」

「どうした? アカ」

「イシガミに借りた江戸川乱歩の本、今日返そうと思って持ってきたんだけどさ。教室の机に置いてきちゃったんだ。取ってくるから、待っててよ」

 トオノを校門前に残し、アカは教室へと走った。

 外から差し込むオレンジ色の光が、2・Aの教室の半分を照らしていた。すでに生徒たちは退出しており、教室はもぬけのからだった。

 アカは机の収納部を覗きこみ、一冊の文庫本を見つけて、鼻から息をもらす。表紙に「虫」と印されたその本をパラパラとめくり、確認してから、リュックへしまった。

 さあ戻ろう――。

「…………」

 黒川ヒミズだ。教室の入口に。

 近づくハンターに気づいた鹿のように、アカは動きを止める。自席前から距離をあけて、彼女と向かい合う。

 ヒミズは身じろぎせず、表情も出さず、口も開かない。つられるようにアカも突っ立つばかりだ。押し黙ったまま二人は向き合っている。

 一分経過。先に動いたのは意外にもヒミズのほうだった。

 すうっとアカの元へ近寄ってくる。アカは身を固くし、待ち受ける。

 ヒミズは目の前に立った。お互いに手を差し出せば握手を交わせるほどの間隔。これだけの至近距離で正対するのは、初めてだった。

 斜からやってくる夕陽の色光が、ヒミズを鮮やかに染めている。

 ヒミズは顔を上げる。前髪が覆い隠しているので、視線の方向は定かではない。しかし壁を挟んでお互いの視線がまともにぶつかり合っていると、アカは確かに感じた。

 呪われる……?

 ヒミズの口元がピクリと動く。

 固く閉ざされた唇が初めて開くのか。一度も聞いたことのない肉声を耳にするのか。どんな言葉で、どんなことを語りだすのか。

 アカへの想い。ずっと大事にしまい込んできた心の内。……それとも他愛ないただの報告か。もうじき雨が降りだしますよ、という程度の。

 ――が、ヒミズの口は開かない。沈黙だけが延々と流れていく。

 二人きりの、無言の、静まり返った教室。

 次第にヒミズの心臓の高鳴りが、息づかいが、生々しく伝わってきた。

 ヒミズはアカへ何かを伝えようとしている。それは彼女にとって、とてつもなくハードな挑戦のようだった。メッセージは形にならない。音声にさえなっていない。

 だんだん胸苦しくなってきた。いい加減振り切って、ヒミズの前から離れたかった。

 アカはリュックを肩にかける。

 立ち去ろうとするアカを引き止めるように、ヒミズの口が開いた。

 声は聞き取れない。唇がほんのわずか動いただけ。読唇術でも読み取れないほどの。

 何とかそれだけやり終えると、ふたたび口は閉ざされた。しっかりとロックされ、もう二度と開かない。ヒミズは疲れたように顔を伏せる。

 アカはヒミズに声をかけようとした。それより早く、ヒミズはさっとアカの前から離れた。ヒミズが教室から出ていくのを見届け、アカは大きく息を吐く。

 結局何だったのかは不明のまま。しかし何も起きなかったのは、かえって幸いだった。

 アカはリュックを掴んで教室を出た。そこでばったり出くわしたのは、ミーナだった。

 訝しむ色を浮かべ、ミーナはアカを見据える。

「……いやー、教室に忘れ物しちまってさ。ミーナも忘れ物?」

 ミーナは静かに怒りを含んだ声色で、

「黒川さんと二人だけで、何を話してたの?」

 アカは一瞬言葉につまり、首を振った。

「なんにも。クロカワの声を初めて聞けるかもって期待したけど、ダメだった」

「本当に何も話していないの?」

「本当に。神に誓って」

「信じていい?」

「おれを信じろ、ミーナ。……って、これイシガミの真似。あ、そうそう。イシガミを待たせてるんだった。行かなきゃ。悪いけど、それじゃ」

 手を挙げ、走り出した。ところですぐにブレーキをかけて振り返り、ミーナをビシッと指差す。

「おれが愛してるのはミーナだけさ」

 言い置いて、アカは逃げるように廊下を走り去っていった。


 午後の休み時間、いつものようにアカは後ろの席に上体を向けた。

 浮かない表情のミーナ。口を閉ざし、アカと目を合わせようともしない。今にも机に突っ伏してしまいそうに見える。デートでアカの手を引き賑やかにはしゃいでいた、あのときの彼女とはまるっきり別人だった。

「元気出せよ、ミーナ」

 反応がない。あきらめてアカは前に向き直ろうとする。と、

「今日も見てたよ、黒川さん」目を伏せたまま、ミーナがそっと言う。「ずっと見てたよ、アカくんのこと」

「……そうか?」

 ミーナは喉から絞り出すように、

「きっとアカくんが好きなんだよ」

「いやー、モテ過ぎて辛いなー。ははは」

 ミーナが顔を上げる。病に冒されたような弱りきった色。

「黒川さん、わたしのことどう思ってるかな? 邪魔だって思ってるかな?」

 大きな瞳いっぱいに涙が。一粒の雫が頬を流れ落ちた。両手で顔を覆って、ミーナはうつむく。

 アカは恋人にかける言葉を探す。

 ミーナへの想いは揺るがない。ミーナの笑っている顔をもっと見たい。手をつないで歩きたい。二人で一緒に盛り上がりたい。

 ――そのためにはどうすればいい?

「遊園地に行こう。あさっての日曜日」

 アカはミーナの肩に手を回し、顔を近づけて言った。

 ミーナは返事をせず、ただ小さくうなずいた。


 休日の遊園地は華やかだった。子供や女性の甲高いノイズ声が飛び交い、耳に残る強烈なインパクトの音楽があちこちから響いてきた。アトラクションや看板のビビッドな色彩が、空間を埋め尽くしている。

 アカとミーナは手をつなぎ、カオティックな音・光・映像をひたすら浴びながら、園内を巡った。ジェットコースターも、メリーゴーラウンドも、お化け屋敷も、頭がおかしくなるくらいに二人を激しく高揚させた。

 ミーナはよく笑い、子供みたいに飛び跳ねたり、くるくると踊ってみせたりした。アカも負けじと大声で叫んだり、意味もなく走り回ったりした。

 息が上がるほど騒いだ二人はひとまずクールダウンしようと、園内のカフェへ駆け込んだ。窓際の白いテーブルに向かい合って座り、二人はメロンソーダを注文した。

 到着したメロンソーダは、川の清流のように輝いていた。

「おいしいね、アカくん」

「うん。これはメロンソーダの最高傑作だよ」

 ミーナは口に含んだ飲み物を噴き出しそうになり、アカの腕を叩いた。

「爽やかなのどごし。シャープなキレ。エメラルドと見紛う透き通ったグリーン」

「何のCMよ、それ?」ミーナは身をよじって笑う。

 アカは胸のうちで会心のガッツポーズを決めた。

 ミーナを遊園地に誘って大正解。やっぱりミーナの笑顔が大好きだ。笑顔を眺めているだけで、天国気分だ。いつまでも永久に見ていられる。

「イシガミが中一のときの話でさ。イシガミの母ちゃんが毎日朝食で、トマトジュースを飲んでて。で、イタズラでトマトジュースにデスソースを入れておいたんだって。タバスコの数倍辛いってやつ」

「え~っ」

「そしたら一口飲んで思いきり噴き出しちゃって。そのときイシガミ、母ちゃんの真正面に座ってたもんだから、もろ顔面にブシャーッ! って」

「あははは。因果応報」

「たまらず顔面を押さえたまま椅子から転げ落ちて。床で悶絶してたってさ」

「たいへん!」

 店内に響き渡るほど二人は高らかに笑った。二人の楽しい気分が最高潮に達した、そのとき。

 ブーッ。虫の羽音? 違う。スマホだ。テーブルに置かれたアカのスマホ。何かの通知を表示している。

「メールだ」

 アカはタップしてメールを開いた。冒頭の一行だけ読み、すぐに削除する。

「それでイシガミがさ」

「誰から?」

「え?」

 一瞬のあいだ、時が停止した。

 ミーナは険のある口調で問い詰める。

「今きたメール、誰から?」

「…………」 

「黒川さんでしょ」

「……いや」

「じゃあ見せて」

「もう削除しちゃったし」

「削除してもまだ残ってるはずよ。見せて」

「見せたくないなあ」

「どうして?」

「ありていに言うと……エロ系だからさ。DVD買ったんだ。めっちゃエロいやつ」

 ミーナは目を伏せ、黙りこんでしまった。メロンソーダに口もつけず、何もないテーブルの白い面を見るともなく見ている。

 アカも黙ってストローをくわえたまま、賑やかな窓の外を眺める。気分は急上昇から急降下。これじゃ、まんまジェットコースターだ。

 しばしの沈黙から、もう帰る、とミーナが言った。

「もっと遊ぼうよ。まだウォーターライドも、観覧車も、乗ってないし」

「アカくん一人で乗って。わたし先に帰るから」

 一人で観覧車に乗ったら、ほとんど吊るし上げられている感覚に陥るだろう。そんな惨めな仕打ちにあうのは耐えられない。

 アカは仕方なくミーナの後に続き、わだかまりを残しつつ遊園地を退出した。

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