第8話
「あー、見てえなあ!『ファフロツキーズ』……もとい『ドランクンヘヴン』」
トオノは顔をキラキラさせながら言った。
「そんな公開間近の映画みたいに言うな」アカが苦笑まじりに突っこむ。
背高のプラタナスが見える2・Aの窓際に立ち、明るい陽光を浴びながら、アカとトオノは穏やかな昼休みを過ごしていた。
アカの部屋にまで出現した謎の初老の男は、その後姿をくらましてしまった。あれから一か月近く経つが、それきり出くわしてはいない。よしんばまた現れたとしても、あのとき男がアカを襲う気配はなかったし、さほど恐れることもないだろう。
いつしかアカの意識からも、男の影は遠ざかっていった。
「ところでアカ、オレさ『ドランクンヘヴン』の正体が解ったんだよ」
ないない、とアカは手を振って、
「世界中の学者がこぞって調査しても、解らないんだぜ?」
「みんな頭が固いんだよ。頭の固い連中の言うことなんて信じるな」
「学者をとるかイシガミをとるか」
「オレだ。唯一正しいのはオレだ。オレを信じろ、アカ。『ドランクンヘヴン』はな、間違いなく宇宙人のしわざだ」
「ブレないな」
トオノは揚揚と語りだす。
「街をすっぽり覆うくらい超大型のUFOが、リサーチのため地球へとやって来た。そして地球上に存在するあらゆるものを、手当たり次第にかき集めていった。それらは宇宙船内で分析され、綿密に調べられた。調査が済んだら地上へ、ぽいと」
「キャトルミューティレーションみたいな? でもそんな超大型のUFOが現れたら、人目につくだろ」
「姿を隠していたのさ」
「どうやって?」
「地球上ではあり得ない高度なテクノロジーを用いて」
「でも調べるだけなら、そこまで大量に要らないだろ。一点一点つぶさに調べてたら、気が遠くなるぞ」
「撤回」
「早いな」
「街をすっぽり覆うくらい超大型のUFOがやって来たところまでは同じ。目的は単なる窃盗だ。自分たちの星が未曾有の大災害に遭って、食料やら何やら足りなくなった。困ったあげく地球へ物資の調達に来た。地球にあるものを片っ端から宇宙船に吸い上げて、食べられそうなもの、使えそうなもの、資源になりそうなものなどを選別していった。で、不要なものは地上へ、ぽいと」
「迷惑千万だな」
トオノはアカの耳元に顔を寄せる。そして小声で、「さっきからこっち見てる」
トオノが親指で示す方向に、アカはギョッとした。
「見ても大丈夫か?」
「目は隠れてる」
振り向く。黒川ヒミズと顔が合った。ヒミズはそそくさと顔を背ける。ただし頬を赤らめるでもなく、いつものように無表情ではあった。何食わぬ顔で自分の定位置に坐し、彫像のように固まっている。
「ちらちら、こっちを窺ってたぞ」
二人で話しているあいだトオノは窓を背にして立ち、教室内を見渡していた。アカはトオノへ体を向けていたので、ヒミズにその横顔を見せていたことになる。
「どうやらアカを見ていたらしいな」
じつはトオノとしゃべっているときにも、アカは横からの視線を感じていた。黒川ヒミズは正面を向いているのが常なので、まさかという気持ちがあった。
「アカに気があるのかな。彼女いるのに」
もし本当にヒミズがアカに対し恋心を生じたとなると、非常に厄介だ。どう見積もっても不幸な末路しか見えてこない。
「ただ見てただけだろ」アカは強がった。
「いやいや、ただ見るだけってことないさ。ふだんは前を向いたまま微動だにしないんだぜ。特別な理由があるに決まってるって」
アカは目を細めてトオノを睨む。トオノは口をへの字に曲げ、肩をすくめた。
トオノの言うとおりだろう。何もなければ、まずヒミズと顔が合う機会などない(彼女は完全に他人を無き者とみなしているようだった)。それから鑑みれば、ヒミズが何らかの感情をアカに抱いている可能性は大いにある。
黒川ヒミズの領域に入らぬよう、アカは細心の注意を払ってきた。しかし向こうからやって来るというのは、まったく想定外だった。
――たまたまではないか? 例えばヒミズが窓の向こうのプラタナスを眺めていたら、ちょうど振り向いたアカと顔が合った、とか。……苦しい。無理がある。
何とかごまかそうと努めるものの、事態はさらに悪化していくこととなった。
四時間目の授業中、右横からの視線を感じ、振り向いたところでふたたび顔が合った。
その後も……。二人が顔を合わせる回数はいやましに増えていった。
「だるまさんがころんだ」のように、黒川ヒミズがじわりじわりと忍び寄ってきている。
恐怖で、胃がねじ切られる思いだった。
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