第6話

 つけられている気がして、アカは後ろを振り返った。道路、建物、信号機、街路樹などに目配せしてから、向き直って、駅へと歩き出す。

 竜宮高校と最寄り駅のあいだは徒歩で十五分の道のり。車はときどき通る程度で、人影はあまり見られない。

 いつもは誰かしら仲間と共に下校するアカだが、この日は珍しく一人だった。か弱い児童というわけでもないのに、ひどく心細かった。

 視界の端ギリギリで、何かがちらっと動く。あえて振り向かず、早足でやり過ごす。お化けは目にしなければ、存在しないのと同じだ。

 駅に近づけば通行人も増え、多少は安心できるだろう。あのマンションが立つ角を曲がれば、駅のホームが見えてくる。角を曲がった。ゴッホじいさんが立っていた。

 駅を背にして、アカは逃げ出した。二百メートルほど走ったところで、ゴッホじいさんが追ってこないのを確認してから、裏道に入って息を整える。そのまま裏道経由の遠回りで、無事に駅へとたどり着いた。

 ゴッホじいさんの身なりを見た限りでは、電車に乗るだけのお金をもっているとは考えにくい。改札を通った瞬間、アカは安堵の息を吐いた。それでもなお、列車を待つあいだ落ち着かず、ホームを端から端まできょろきょろ見回す。

 五分後にやってきた普通列車に乗り込んだ。立っている乗客はいない。ロングシートに座る人が六名。その中にゴッホじいさんは含まれていない。アカは腰を下ろし、リュックからスマホを取り出して、ゲームのアイコンをタップした。

 強烈な悪臭が鼻に侵入してくる。席を立って車両を慌ただしく移動する足音。

 見るな見るな……心と裏腹に、視線はスマホの画面を離れ、前方に移った。はす向かいのロングシートに座るゴッホじいさんが、こちらを見ている。

 アカは席を立ち、隣の車両へと逃げた。その車両を通り過ぎ、その次の車両も通り過ぎた。三両目。やって来たアカを迎えるように、車両の中央に立ちふさがる影。外斜視の目を向け、こちらに近づいてきた――そのタイミングで扉が開き、アカはホームに飛び降りた。

 ゴッホじいさんが降りてこないうちに扉は閉まり、電車は去っていった。アカはぐったりして、駅のベンチに座りこんだ。頭が混乱し、しばらく動けずにいた。どうしよう、どうしよう、と何度も頭の中で繰り返して。


「ゴッホじいさん? 『ひまわり』を描いた?」

 ソファでキリンビールを握る父のタツヤは、サッカー中継からアカへと視線を移し、言った。スマホに何やら熱心に打ち込んでいた母のミサトも、振り向く。

 アカはトオノから聞き知ったゴッホじいさんに関する情報を伝えた。

「知らないな。都市伝説の類だろうが、聞いたことない」

「そんなの与太話に決まってるじゃない」

 はなから取り合わない両親にムッとし、アカはゴッホじいさんにつきまとわれている事実を伝えた。途端に両親の顔つきが変わる。

「ストーカーかしら。美少年が好みの」オエッと、ミサトは吐く真似をする。

「あまりに悪質だったら、警察に届けよう。スマホを常に身につけておけ。危険を感じたら、すぐに逃げることだ」

 逃げている。だが、世界の果てまで追ってきそうな気がする。

 タツヤはソファから立ち上がり、アカの肩に手を置いた。

「心配するな。華奢な女の子じゃないんだから、怖がるまでもないさ」

 アカは力なくうなずく。

 ふとタツヤは思い出したように、

「なあアカ、それよりまた株を買おうと思ってるんだが、協力してくれないか? アカの選んだ銘柄は、軒並み儲かってるんだ」

「あ、アカ、あたしもお願い。『嵐』のコンサートに行きたいんだけど、申し込み頼んでいい? あんたクジ運がずば抜けてるからね」ミサトも乗じた。

 ストーカー――むしろそうあってくれたほうが、まだマシだ。もっと理解をこえた存在のように思える。怪人、超人、もしくは人間でないかもしれない。妖怪だと言われれば、素直に受け入れる自信がある。

 親も、警察も、身を護ってはくれないだろう。周囲の誰一人、ゴッホじいさんを倒すことはできない。異能の力で魔物を退治するヒーローでもなければ。しかし残念ながら、そんな異能力を扱える知り合いはいない。

 あの男と次に出会ったとき、リアルに、命を落としてしまうかもしれない。

 どす黒い重油をたっぷり呑み込んだ気分だった。


 ドブ川のようなきつい異臭で目が覚めた。真っ暗なアカの部屋に、何者かの気配が。ベッドの上で、アカは耳をそばだてる。全身が粟立ち、胸苦しい。頭が興奮して、次の行動がなかなか決められない。ただ、死にたくないという思いだけは強烈にあふれていた。

 アカはベッドから跳ねるように、勢いよく起き上がる。暗闇の中蛍光灯のスイッチを探り、部屋の明かりをつけた。

 正面からぎょろっと睨む外斜視。その不気味な相貌が思ったより近く(息がかかるほどだった)、アカは大きな声を上げ、ベッドに尻もちをついた。一遍に体中の力が抜けきり、そこから立ち上がれない。

 ゴッホじいさんはおもむろに肉迫してくる。首を突き出し、臭い息を浴びせるように間近まで顔を寄せてきた。

 声が出ない。身体が動かない。抵抗したいのに、手足の自由がきかない。

殺さないでくれ――男に眼で訴える。

「小山田……アカ……」

 初めて聞いた男の声。死にゆく病人みたいなかすれ声を、苦しそうに絞り出す。

 男はアカの名を呼んだ。名前も、高校も、自宅も、寝ている部屋も、すべて握られているなんて……。

「黒川……ヒミズ……と……」

 なんだって? クロカワ? どうしてクロカワの名前が?

 鼻先をかすめて、大きな影が横切った。車と車が正面衝突したような激しい衝撃音が響く。部屋全体が震え、PCモニターが床に落下し、参考書など数冊の本が飛び散った。

「タツヤ!」

 部屋の入口に立つミサトの手から、スマホがこぼれ落ちた。スマホの画面には数字が『110』と表示されている。

「痛たた……」

 ベッド横に置かれた机の前で、タツヤがしゃがみこんでいる。背中を丸め、左手で右上腕を押さえながら。

「ちょっとタツヤ、大丈夫?」

 タツヤは妻に手のひらを向けた。

「タックルなんて三十年ぶりだからな。よけられちまった。ストーカーは?」

「消えちゃった」

「消えた?」

 机の上の窓がわずかに開いているのを、タツヤは見つけた。カーテンがずれ、猫一匹が通れるほどの幅。窓の隙間を押し広げ、夜の暗がりに顔を突き出す。

「ここから逃げたんだろう」

「だってここ5階よ? 窓の外側だってまっ平な壁だし」

 タツヤは首をひねってから、ベッドでへたり込むアカへ振り向いた。

「アカ、大丈夫か。怪我は?」

「……へいきだよ」

 声が出た。呪縛は解けたみたいだ。

「奴は一線を越えた。明日警察に行こう」

 アカはかぶりを振った。

「行かなくていい。襲われたわけじゃないし。そんなそぶりもなかった」

 タツヤは心配そうに、

「……そうか。だけどもし今後トラブルが起きたら、すぐに相談してくれ」

「ありがとう、父さん」

「次はタックルを決めてやるからな」

 たくましい腕を誇示する父に、アカから笑顔がこぼれる。

 とうとう家の中にまで押しかけてきた。が、アカの命を奪うことも、危害を加えることもなかった。男の目的は何か、まるで読めない。

 それにしても、なぜ男は唐突に黒川ヒミズの名を口にしたのだろう? 男とヒミズには接点があるのだろうか。ヒミズに訊ねれば、男の正体が判明するだろうか。

 しかしそれはできない。黒川ヒミズには近寄ることさえ、はばかられるのだから。


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