第4話
二時間目の世界史の授業が始まる五分前。黒川ヒミズはいつも通り、廊下側の自分の席から離れることなく、独り静かに座っていた。うつむき加減で固まっており、眠っているようにも見えた。が、両眼が前髪に隠れているので、起きているのか寝ているのか、定かでなかった。
黒川ヒミズの席は、まるで神域のようだった。教室という小社会の片隅にぽつんとある異空間。決して侵すべからずと吹聴されているわけではないが、誰も進んで立ち入ろうとはしなかった。
その神域にあえて踏み込んだのは、木崎という、同じ2年A組の男子生徒だった。隣には木崎の相棒である山口も付き添っていた。
ヒミズの机の前に二人は並んで立ちはだかった。
「よお、黒川さん」
木崎の言葉に、教室内の半数が振り向いた。ヒミズの席から二つ左に座る小山田アカも、後ろの席の南田ミーナとの会話を中断し、顔を向けた。
「おーい、起きてますかあ? 黒川ヒミズさん」
ヒミズはゆっくりと面を上げた。前髪の裏側からの視線は、ニヤニヤと見下ろす木崎へ向けられていた。
ヒミズの口が開かれることはなく、うつろな間が意味もなく流れた。
「これっぽっちも返ってこねえし」
そう言って山口は木崎の肩に手をかけ、ゲラゲラ笑った。嫌な沈黙をぶち破るように。
「ごきげんいかが?」木崎はしつこく言い寄った。
「……」
「好きな小動物はなんですか?」
「……」
「今まで一番感動した料理は?」
「……」
「宇宙人とのコンタクトは失敗に終わった!」山口がはやし立てた。
ヒミズの口はぴったり閉ざされて、わずかな隙間さえ生じなかった。動じる風でもなく。顔色も変えず。二人に面を向け、静観していた。
「あのさ、黒川さん」木崎は口をゆがめた。「ぶっちゃけ、生きてて楽しい?」
休み時間の教室に緊張が広がった。口を手で覆い、驚いたような表情で振り向く女子。拳を握り、唇を一文字に結ぶ男子。
成り行きを窺っていた小山田アカは、南田ミーナと顔を見合わせた。
おそらく周囲の視線を感じていたはずだが、構わず悪童二人は畳みかけた。
「わたし何のために生きてるんだろうって、考えたりしない?」
「生きてなくね? じつはゾンビでした!」
「まったくコミュニケーションとれない人間が、社会に必要だと思う? いなくたって誰も困らないし、いたらかえってみんなの足手まといになるんじゃねえの?」
「存在価値ナッシング!」
「おい、お前らいい加減にしろ」
割って入ったのは、ヒミズの左隣の席に座る野球部の千葉だった。千葉はもう我慢ならないと二人を睨みつけ、立ち上がった。背後からひそかに、心優しい千葉へ熱い眼差しを向ける女子の姿もあった。
ふいに木崎と山口は言葉をなくした。千葉に咎められたから? しかし二人は千葉に顔を向けてはいなかった。二人が見ていたのは、黒川ヒミズだった。
ヒミズは頭を右に傾けていた。傾いた側に前髪が斜めに流れ、帳を開いていた。普段はおもてに出ない左の眼が、はっきり露出していた。
現れた瞳は、大きく開く紅いバラの花を思わせた。バラのように美しく、怪しく、恐ろしかった。目という器官を超越している風で、まるで現実のものではなかった。
最初に、木崎とヒミズの目が合った。途端に木崎は息苦しさを覚えた様子で、胸を押さえた。続けて、山口とヒミズの目が合った。山口はおののき、呼吸が荒くなった。最後に、千葉と目が合った。千葉の右手がぶるぶる震えだし、止まらなくなった。
教室内は静まり返った。一様に皆、押し黙ってしまった。ただ口を開くだけでも何かよからぬことが起きそうで、気味が悪かったのだ。2年A組の生徒たちのあいだを、得体の知れない不穏な予感が飛び交っていた。
四日後、果たして第一の凶事が発生した。
駅のホームで、木崎はスマホゲームに熱中していた。そこへ回送列車が入線してきた。危ないですから下がってください、という駅のアナウンスに反抗するかのように、木崎はホームの端に向かっていった(周囲の人の証言によると、木崎はスマホから目を離し、正面を向いたまま、何かにとりつかれたかのようにふらふら歩き出したという)。
高速で横切る列車の側面に、木崎は顔面から接触した。一瞬で木崎の鼻はまるごともぎ取られた。衝撃で体は弾け飛び、飲み物の自販機に突っ込んだ。
木崎は今にも壊れそうなボロボロの状態で救急搬送されたが、辛うじて命は繋ぎ止めたのだった。
その翌日、続いて山口のもとに災厄が降りかかった。
それはあまりにも唐突だった。駅前の通りを歩いていた山口の体が、何の前触れもなく炎に包まれたのだ(タバコを吸っていたわけでもないのに)。
激しく燃え上がる炎に抱きつかれた山口は、よたよたと数歩進んでから、道路に倒れ伏した。辺りが騒然とする中、ラーメン店の店主が消火器を持って店から飛び出してきた。やっと火は消し止められたものの、すでに山口の全身は焼けただれ、直視できない有様だった。
もはや助かる見込みはないと医者に絶望視されていたが、山口はどうにか生き延びた。
木崎に禍が降りかかった時点で、2・Aの生徒たちは黒川ヒミズの呪いを疑った。一方で、呪いなんて現実にあるはずがない、ただの偶然に過ぎないと、片づけようとする向きもあった。ただの偶然であってくれと、半ば祈るように。
その願いを嘲笑うかのように第二の禍が山口に及び、生徒たちは愕然とした。
黒川ヒミズの呪いを疑う者はなくなり、彼女は完全に恐怖の対象となった。誰もが彼女に近づこうとしなかった。彼女のいるほうに首を向けることさえできなかったのだ。
それでもまだ、呪いを受けたのが木崎、山口と、ヒミズをからかった二人だったので、『黒川ヒミズを怒らせなければ大丈夫』という楽観的な空気はあった。
しかしついに呪いの矛先がヒミズをかばった千葉にまで向けられたことで、生徒たちは完全に言葉を失った。
謎の発火によって山口が大やけどを負った日から二日後、千葉は自宅の近くで包丁を持った男に追いかけられ、背中を刺された。犯人は二十四歳の金髪の男で、面識はなかった。
帰宅途中、横道から出し抜けに現れた金髪の男は包丁を振りかざし、首を絞められたカラスのような奇声を発しながら突進してきた。千葉は背を向けて逃げ出したが、気が動転して、足がもつれてしまった。
野球部のエースで、甲子園でも通用する器と期待された千葉だったが、包丁の一撃によりあっけなく沈んだ。叫び声を耳にした近所の住人が様子を見に来て、倒れている千葉を発見した。すぐに救急車で運ばれたが、三日のあいだ集中治療室で生死の境をさまよっていた。
千葉が呪いの対象となったことで、『黒川ヒミズを怒らせなければ大丈夫』という認識は崩壊した。『黒川ヒミズと目が合いさえすれば、敵味方関係なく呪いをこうむる』という説に取って代わったのだ。
黒川さんが怖いと、不登校になってしまった女子生徒もいる。それでもやむをえず高校に通わなければならない他の2・Aの生徒たちは、極力ヒミズと関わらないようにする以外、身を守るための方策はなかった。
これまで通り、決して一線を踏み越えないように、と。
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