第2話

 空からサメが降ってきた。体長三メートルほどのシュモクザメ。庭の真ん中に落ち、T字型の頭を芝生に埋め、じっと横たわっている。

 二階の部屋の窓から自宅の庭を眺めていたブルーアイの少女は、あっと、口をまるく開いた。ガラスに両手をつけ、食い入るようにサメを見つめる。

 芝生の緑に囲まれた海の生き物。天から舞い降りた闖入者。やけに目を引く変てこな頭の形から、少女は目が離せない。

「マミー」ポニーテールをくるりと振り回し、少女は母を呼ぶ。

 スポーツタオルで首の汗を拭いながら、サウナスーツ姿の母親が部屋に入ってきた。

「どうしたの、エマ」

「お庭にサメさんがいるの」

「サメですって? 犬の見間違いじゃない? ……オーマイガー」

 母親は口に手を当て、視線を魚のごとく泳がせる。

「なんで庭にサメがいるの? ドッキリ?」

「サメさんはね、お空から落っこちてきたの」

「エマ! これ以上お母さんを混乱させること言わないで――」

 ふたたび、窓を上から下へよぎる影。親子は顔を見合わせる。それから窓辺に駆け寄り、おそるおそる庭を見下ろした。

「オーマイガー。オーマイガー」

 シュモクザメに寄り添うように、大型のマンボウが寝そべっている。

「お友達もきたよ、マミー」

「いつからうちの庭は水族館になったのよ」

 カームダウン、カームダウン……母親は自らに言い聞かせ、呼吸を整える。

「エマ、お母さんはちょっと見にいってくるから」

「エマもいく」

 子供たちが元気に走り回れるほどの面積を有する、緑の芝生。もしも庭が海水で満たされていれば、シュモクザメもマンボウも難なく泳ぎ回ることができただろう。今はどちらもおとなしく地面に寝そべっているばかりだ。

 親子が庭に出るより早く、毛並みのいいゴールデンレトリバーがマンボウの脇に立っていた。初めて見る生き物に興味津々で、鼻先を近づけては、入念に臭いをかいでいる。

「ベック、離れなさい」母親は飼い犬を叱りながら、大股で芝生に踏みこむ。

 自宅の庭に横たわる二匹の大型魚を足元に見ても、母親はまだ半信半疑だった。ぱっと見はサメだが、サメ以外の何かではないか? マンボウっぽいが、別ものではないか?

 ……ではそれが何かと考えを巡らせたところで、答えは出ない。シュモクザメは確かにシュモクザメだし、マンボウはやはりマンボウだった。

 少女はしゃがんで、シュモクザメにそうっと手を伸ばす。

「エマ、触らないで。噛みつかれるよ」

 神経質に注意した。まるで娘が見知らぬ犬を触ろうとしているかのように。エマは母を見上げ、サッと手を引っこめる。

 だがこの機会を逃せば、もう一生シュモクザメには触れられないだろう。エマはあきらめきれない面持ちで珍獣を見下ろす。

 そのとき空に向かって、ベックが激しく吠えた。不法侵入してきた不審者を脅しつけるように。

 母親が仰ぎ見ると、またしても大きな影が落下してくる。芝生上の右へ五メートル離れた地点に、それは気味悪くべちゃっと着地した。

 複数の長い脚をスカートのように広げた、ダイオウイカだった。

「エイリアンでしょ」顔をひきつらせ、母親は言った。「火星から地球を侵略しに来たエイリアンでしょ」

「またお友達ー」エマは手を叩いて喜ぶ。

 母親はげんなりして、

「これ以上、もう無理。ムリムリムリムリ……」

そんな母親をからかうかのように、偉そうな面構えのナポレオンフィッシュが堂々と落ちてきた。

 海洋生物の降臨は、そこから止まらなくなった。沖合の海中と見紛うくらい大量に降りそそいだ。「魚の雨」と称して差し支えないほどに。

 大小さまざまの魚たちが、エイが、クラゲが、サンゴが、ウミガメが、カニが、イソギンチャクが、イワシの群れが……ひっきりなしに降ってきた。

 思いもよらない過激なゲリラ豪雨に、親子と飼い犬はたまらず玄関へ走った。バタバタと家に飛び込み、肩で息をする。母親は壁にもたれかかり、倒れそうな体を支える。ベックは度を失って、跳ねながら吠えまくる。エマは窓に張りつき、目をくるくるさせて、地面に降り積もっていく魚たちに見入っている。

 家の前の道で、急ブレーキの音が甲高く響いた。人を撥ねたのか? よく見れば車のボンネットに載っているのは人ではなく、イルカだった。けたたましいクラクションが叫び声のように放たれる。

 庭に立つユーカリの樹に魚たちがつぎつぎ飛び込み、枝が大きく揺れている。向かいの住宅の屋根に、クジラが突き刺さっている(墜落したヘリコプターのように)。数多の色鮮やかな魚が道路を青や黄色に染めていく。車のフロントガラスにびっしりとクラゲやヒトデが張り付く。芝生の面にサンゴが敷きつめられていく。

 日常の光景は見る影もない。異世界へと一変してしまった。

 右隣の家から、ヒステリックな悲鳴が飛んできた。左隣の家では、幼い兄弟が大はしゃぎで飛び出そうとするのを、大柄の母が必死に引き戻す。頭をバッグで覆い隠し、走り抜けていく男性。家の前に立ち、両手を組んで神に祈る老紳士。

 天は一面ほの暗い雲が広がり、そこから魚が落ちてくる。天上で何があったのか。酒に酔い、錯乱した天の主が、海の中と空の上を繋いだとでも……?

 前代未聞のこの異常現象は、たとえ思考停止と揶揄されても、ただ「天が壊れてしまった」としか解釈できないように思われた。

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