ドランクンヘヴン

エキセントリクウ

第1話



 脚が動かない。落葉の散らばる登山道に、足の裏がへばりついている。

 前を行く両親の背中が遠ざかっていく。赤と青のザ・ノース・フェイス製登山リュックが小さくなっていく。

 お父さん、お母さん、待って――その声は発せられない。非常事態を知らせたいのに、願いは届かない。いつも頼もしく助けてくれる両親がまるで気づかず、我が子を見捨てていく。こんな寂しい山の中に放置して。

 アカは泣きたくなったが涙さえ出ない。声も出せない。手も上げられない。首も回せない。身体はすっかり硬直してしまった。山の斜面に立つ樹のように。

 足元に光の輪が現れた。固まったアカを円は囲む。光の円の中心になすすべもなく立ちつくしている。

 エメラルドグリーンの光が地面から噴き出す。地中に埋まったエメラルドの輝きが、漏れ出てきたのだろうか。

 エメラルドの光輪はせり上がってきた。足元から膝、腰、胸へと。アカの成長途中の体を昇っていく。昇りながら光の幕を垂らし、全身を包み込む。

 得体の知れないエメラルドグリーンの光に囲まれた。光がまぶしい。光以外なにも見えない。

 すうっと体が浮き上がっていく。直立姿勢のまま。不思議な力がアカを宙に吊るす。魔法使いにもてあそばれているみたいに。

 叫びたい。息が苦しい。助けて――。

「おうい、アカ」

 向こうから父のタツヤが小走りでやって来る。

「アカ! 何してんの、そんなところで」

 タツヤの後ろで母のミサトは甲高い声を上げる。

 アカは混乱したまま、その場を動けない。が、全身の硬直はほどけている。足もちゃんと地面を踏みしめている。大きくまばたきしてみた。それから周囲の景色を確認する。足下の落葉。周囲を囲む草木。雲が流れる穏やかな空。――現実に戻ったようだ。

 不思議なエメラルドの光は幻のように消えてしまった。それともやはりただの幻だったのだろうか。

「この馬鹿アカ」ミサトが雷を落とす。「遊園地で迷子になるのとはワケが違うから。遭難よ、そ、う、な、ん。それくらい解るでしょ? もう八歳になるんだから」

「おいアカ、おまえ震えているぞ。何があった? クマでも出たのか?」

 アカは首を横に振った。

「じゃあ何だ? マムシか? イノシシか?」

「……なんでもない」

 タツヤは大きく息を吐いた。

「……そうか。わかった。もう俺とお母さんのそばを離れるんじゃないぞ。アカ、宿に帰って温泉に入ろう。今日は山登りで疲れただろ。ゆっくり体を休めよう、な」


「小山田さんですね。ただいまお席にご案内いたします」

 仲居に続いて食事処に入ると、すでに数人の宿泊客が夕食を囲んで談笑していた。いかにも登山慣れした雰囲気の年配者が目につく。子供の姿はアカ以外見当たらない。

 自然な風合いの木のテーブルを挟んで、タツヤとミサトが向かい合わせに座る。アカは母の隣に腰を下ろした。

 夕食は鍋、鮎の塩焼き、山菜の天ぷら、刺身、茶碗蒸し、小鉢などが並ぶ。

 ご馳走を前にしながら、アカはなかなか箸が進まない。ミサトは見かねて、

「アカ、もっと食べなさい。美味しいよ、ふきのとう」

「うん……」

「ダメよ、好き嫌いしちゃ。お父さん見なさい。この頑丈そうなガタイを」

「俺は学生時代にラグビーやってたからな。でもあの頃だって、栄養のバランスを考えて、食べてたぞ。好き嫌いせず、何でも食べた。だからほら、アカも……」

 心ここにあらずといった顔つきで、アカは料理を眺めている。

 タツヤは目を細めて、

「アカ……おまえ何か隠してるな? さっきのことか?」

 アカはハッとした顔を父に向けた。

「やっぱり、そうか。何があった? 話してみろ」

 ぽつりぽつりと、アカは正直に話し始めた。急に脚が動かなくなったこと。脚だけでなく、全身動かせなくなったこと。声も出せなかったこと。足元から不思議な光の輪が昇ってきて、頭の先まですっぽり覆われたこと。身体が浮き上がったこと。

 夢でも見ていたんじゃないか、と笑い飛ばすだろう……アカは予想したが、思いのほか父は真剣に耳を傾けてくれた。

「怖かっただろ。けど、大丈夫だ。安心しろ。むしろ喜んでもいい。それはきっと、山からパワーを授かったんだ」

 アカはきょとんとする。

「今日登った山――龍道山は、中国の気功師が絶賛した有名なパワースポットだ。病気や怪我を快方に向かわせるとか、心が穏やかになるとか、幸運に恵まれるとか言われている。ここ長野県はパワースポットが多いけど、その中でもR町の龍道山は随一らしい。

 陸上のアガタって選手がいてな、オリンピック出場をかけて行われる大事な大会を二週間後に控えて、ふくらはぎに肉離れを起こしたんだ。医者に全治四週間と言われて絶望的になっていた。そんなとき龍道山の噂を聞いて、藁にもすがる思いで山に登った――片足だけで。すると奇跡的な早さでケガが回復し、無事に大会に出られたそうだ」

「……本当?」

「ああ。こんなこともあった。男に縁のない自虐ネタで人気の芸人ゴーヤーニガ美が、テレビ番組の企画で龍道山にやってきた。その一年後に、イケメン俳優と結婚したんだ」

「ええ?」ミサトが大きな声を上げた。スマホを手に、目をまるくしている。「いやだ、なにこれ。なにが起きたの?」

「どうした、ミサト」

 タツヤにスマホの画面を向け、

「いまメールが来たの。それでアイフォーンを見たら気づいたのよ。画面のヒビがなくなってるのに……」

「ああ、先週アイフォーンを駅のホームで落として、端のほうに二、三本ヒビが入ったよな。それが消えたって?」

 タツヤはスマホを受け取って、画面に目を近づけたり、指先でなでたりしながら、感心している。

「ちょっと怖いんだけど……」

「これも龍道山のパワーのおかげだよ。人体だけでなく、機械まで直してしまう。すごいパワーだな」タツヤは大きな体を揺らして笑った。

「笑えないよ。気味が悪い」

「どうして? ラッキーじゃないか。修理したら五、六千円かかるぞ」

 ミサトは口をとがらせる。その横でアカは「パワーを授かったんだ」という父の言葉に、ひそかに胸をなでおろしていた。

(もしかしたら超能力が使えるようになったかもしれないぞ)

 呑気に、そんな考えさえ頭に浮かんだ。超能力で無敵となった自分の姿を思い描き、アカはほくそ笑む。ミラクルパワーで友達や先生をビックリさせてやろう、と。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る