第三章 ひどく選民的な思想
第三章 ひどく選民的な思想
誰でも無秩序に女性になれるわけではない。
たぶん、選ばれた一握りの人間が歴史に名を残すように、選ばれた一部の人間だけが男性から女性へと扮装する正統な権利を有している。
およそ四十分の時間を経て、健次郎は女性へと変わった。
驚いたことに、その事務所には各種の化粧品やウィッグ、衣装などが用意されていた。
夢中で作業をしていた。
女性へと変貌を遂げるあいだ、健次郎はずっと黙っていた。
久しぶりの再会であったが、感情をぶつけ合うような言葉は交わさなかった。
俺にとって健次郎は女性へと生まれ変わることのできる素材であり、健次郎にとって俺は……そうした不思議な体験を提供してくれる魔術師かなにかに見えているのかもしれない。
姿見の前で自分の姿を確かめている健次郎は、美しかった。
骨格をいじったり、ホルモン注射を打ったり、輪郭を削ったり……そうした加工を施さずに、これほどまでの女性的な丸みと柔和さを表現できる素体は、まさに稀だと思う。
黒い髪の毛に長い睫毛、大きな一対の瞳は適度に潤み、頬の赤味は控えめでありながら健康的な血色をうまく表現している。男性的な痩身を維持しつつ、女性的な丸みと温かみが彼の肩から下には存在している。
俺は作業の途中で事務所の人間に「胸はどうする」と問いかけた。
男は「むね?」と小首をかしげた。
「詰め物をいれるかどうか、聞いてるんだ」
作業に熱中していたせいか、少しばかり強い口調になってしまった。
男がムッとするのがわかる。暴力団関係者であるのなら、たいそう肝の据わった行動だと自分でも思う。俺はそれだけ熱中していたのだ。
「そりゃあ、胸はあったほうがいいだろう」
そう男が返答したものだから。
「親分に確認して来い。おまえの意見なんか聞いちゃいない」
この言葉も無意識に口から出た。
相手が相手だけに遠慮するべきだったのだろうが、それよりも『不快感』の方が勝っていた。
女性を作り出す事は、ただの性的な対象を産み出すことではない。この男性が最も適した女性の形を模す事であり、そこに大きな胸が必要であるかは大した問題ではないのだ。それをこの浅はかな男は、すべての女性には巨大な胸が必要であるかの如く口走った。それが底知れず許せなかったのだ。
女装趣味の少年が待ち合わせ場所からホテルへ行き「僕、男の子だよ」と恥ずかし気に告げて相手の手を自らの胸に押し当てる……。
こうしたやりとりこそが、正統であり……そこにシリコン製の胸や詰め物があってはいけない。王道古典が現代商業主義に屈してゆくのが許せないように、俺は詰め物や加工については大反対だった。
男はしぶしぶ部屋を出て行き、すぐに戻ってくる。
「胸の詰め物は、なしだ」
親分の返答を伝えられ、俺は「それでいいんだ」と答えていた。
あの親分は無粋な顔をしているが、こうした商売を切り盛りしているだけあって……本質を見誤ってはいない。それは一種の信頼感のようにも思われた。
無能な上司をからは感じられない、『この仕事のプロなんだ、この人は』という尊敬の念すら感じられるものだ。
すべての作業が完了し、姿見から視線をこちらに向けた健次郎は、小さく。
「ありがとう、綺麗にしてくれて」
小さくそう呟いた。
消え入るような声だ。
けれども、それ以上大きな声で喋ってしまえば、彼が男であることを示す『音』が聞こえてしまう。だから、それでいい。その程度の声で良い。
俺は小さく頷いて、男たちと一緒に親分の部屋へと向かう健次郎の後に続いた。
親分は言った。
「あんた、噂以上だよ。すげえーよ」
その日、俺はふたつの報酬を得た。
ひとつは百万円という金銭的な報酬。
もうひとつは、四日後に正式な面接をやる、という就業的報酬だった。
経済的に困窮し始めていたことに変わりはないが、俺にとっては後者の申し出の方がうれしかった。
「すべての男が彼のように美しくなれるとは言えない」
俺は最初にそう断った。
「いい素材はそろっていると思うよ。現役の男の子たちを使わせてやるんだからな」
「現役だろうと、女になれない子は多い。それを女の子にしろと言うのなら、俺はあなたと仕事をすることはできない」
「技術的な問題か?」
「俺の矜持の問題だ」
「おまえさんは職人気質だな」
そう言って親分は「どれだけ女の素質がある人間がいるか、それを確かめてから結論を出すのでも、遅くないだろう?」と諭しかけてきた。
彼の言っていることはもっともだった。
だから、俺は再び四日後に親分と再会する約束をした。
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