23.僕は夢中で嘲笑う(下) <後編>

逃げ始めてからどれだけ時間が経っただろうか?

体感では数時間、本当はきっと数分程度。

今居る場所は校舎の4階、非常階段に繋がる扉の前。

非常階段から4階に上り、廊下を駆けて何処か隠れられそうな場所でどうしようか考えようとしていた僕の目の前に、薄汚れた格好の"黒髪の自分"が現れた。


「おっと…思ったよりも、早いお目見えだぁ」


薄汚れた格好。

さっき1度"半殺し"にした後に回復した姿からは程通い姿。

汚れに血に…全身が程よく汚れた彼女は、見た目に違わぬ雰囲気を繕って僕の目の前に現れた。


「必ず殺す。貴女で、最後、なん…だから」


朦朧としていそうな声色。

さっきよりも姿勢の悪い立ち姿。

薄気味悪い霧の中の世界と相まって、目の前の"黒髪の僕"は最早ホラーの中の住民だ。

そんな態度が、冷静さを取り戻していた僕を更に落ち着かせる。


「そんなフラフラで僕を殺せるようには見えないがね」


そうは言っても背中は嫌な汗でびっしょりなのだが。

僕は敢えて煽るような言葉を浴びせかける。

彼女はこの世界の主の様で、指を鳴らせばなんでも出来そうだと知っていても、僕は目の前の彼女を見て煽らずには居られなかった。


「うる…さい」


力ない反論。

僕は彼女との距離を保ったまま、ジッと彼女の事を見つめていた。


「殺す。空野彩希。貴女はこの霧の中に…」


うわごとの様に声を発している。


「殺す。ころす。絶対に」


フラフラと、辛うじて立っていそうなその様子。

僕は次にどう動こうか?だなんて考えていると、不意に彼女のふら付きがピタリと止まった。


「…?」


身構える僕。

パッと霧に捲かれた目の前の少女の動き、次の瞬間には霧の中から銀色に光る何かと共に影が襲い掛かって来た。


「うわ!」


驚いて後ずさる。

1歩2歩下がって、開けっ放しにしていた扉の向こう側へ。

僕はその段階で対峙する事を諦めて体を反転させて階段を降りようと足を踏み出していた。


「逃がすか!」


背後からの叫び声。

金切り声の様な声と共に、僕の右肩に鈍い痛み。


「がぁ…!」


その痛みは、彼女が手にしたナイフによるものだと理解したのは、痛みに顔を歪めながら、痛みの方へと顔を回した時だった。

ナイフと共にやって来た、血走った目をした同じ顔が、視界にドアップで映し出される。


声にならない悲鳴と共に、僕達は一気にスローモーションの世界へと誘われた。

足が地に着いていない嫌な浮遊感。

肩に走る痛みに、背後から抱きつく格好になった"黒髪の僕"の感触。

そこそこ急な非常階段の上を飛んでいる事を理解するまで時間は掛からなかった。


「やめ…」


僕は何かを叫ぼうとするが、そんな間も無く非常階段の踊り場の手すりへと叩き付けられる。

ナイフが刺さっていない方の左肩付近で何かが砕け散った感覚。

ハッキリとした痛みに悲鳴を上げたが、背後に抱き着いた"僕"の攻撃はまだ止まない。


「…!…!…!…!…!」


声にならない掛け声。

フラフラの彼女が、頭から血を流しながらも僕の事を離さない。

踊り場の上でもみ合いになった挙句に、階段を転げ落ちる。


体中が正常では無くなった。

痛みなのかも分からない。

僕は遠い昔に「高校でこんなこともあったっけ」等と他人事の様に過去を思い返しながらも、背後の"僕"にされるがまま、もみ合っては非常階段を落ち続けた。


そのたびに、ナイフは深く突き刺さり、体の何処かの骨は折れ、鉄で切り裂かれた箇所から血が吹き出る。

1階に落ちた頃には、頭の何処かが切れていたのだろう…僕の右目付近は血濡れになって光を捉えられなかった。


「…」

「…」


静寂に包まれた霧の世界。

2人分の乱れた呼吸音が良く目立つ。

体は酷い痛みを訴えているが、僕はそれに対して何もすることが出来なかった。


体が動かないのだ。


もう一人の、黒い髪を持つ自分の上に変な姿勢で乗っかったまま、何も出来ずに弱々しく空気を吸って吐くだけ。

偶に、吐いた空気に血が混じる。


「はっ…」


僕の下敷きになっていた、もう一人の自分がピクっと動き出す。


「邪魔」


明瞭になったその声は、彼女が先程のように回復した事を僕に伝えてきた。

乱雑に"切り傷"や"打撲"しているであろう箇所を力強く握られて、みっともなく、小さな悲鳴が口から漏れ出る。

そのまま僕は彼女の上から乱雑に避けられ、地面の上に転がされた。


「……」


無言の空間。

僕はもう何もできないし、彼女は僕を嘲笑ったまま見下ろしているだけ。

薄笑い、霧の中で一番よく見た"他人を嘲笑う笑顔"…その表情を浮かべている女の双眼は、しっかりと僕を射抜いていた。


「は…はは…あー……」


「そーゆうことかー……」


「今更、分かっても、もう遅いよね。遅いよ」


嘲る笑みをこちらに向けたまま、何もしてこないでいたもう一人の僕。

口を開いたと思えば、その表情を一気に崩し、目から大粒の涙を流し始めた。

僕は虫の息になりながらも、彼女の様子を見て困惑を隠しきれない。

また、再び彼女が暴走し始めて僕に手を出せば、僕の意識は何処かへ行ってしまうのだ。

それを知っていたからこそ、彼女の涙は額面通りに受け入れられなかった。


「遅い。遅かった。どうして…」


彼女はうわ言のような呟きを止めない。

僕の横に、ドサッと膝をついて座り込み、壊れたレコードのように何かを呟き続けていた。


「ははは…」


聞いていると不安になってくる声色。

その声は、徐々に自分と同じ声色から変わっていった。


「ごめんなさい」


その声は、聞いたこともない女の声…恐らく、彼女本来の声色なのだろう。


「ごめんなさい」


後悔の滲む声。


「どんな形であれ、次に行けたのであれば、笑って祝福するって決めていたのに」


意味の分からない言葉。

僕は必死に口を動かして、"何を言ってるの?"と聞きたいのに、体が動かない。


「この霧、もうすぐ晴れるわ。貴女は死なない。ただじゃ済んでないだろうけど、あの公園で目が醒めるはず」


震えながらも、落ち着いていて品のある声。

両目から涙を流し、後悔の念に駆られたような、苦虫を思いっきり噛み殺したような顔が僕の視界に入る。

僕は何も反応できず、虚ろな目を彼女の方へと動かす事しか出来ないが…彼女はそんな僕の頭…傷の無い部分にそっと手を乗せた。


「この空間は、貴女にとっては夢の中で終わるでしょうね。悪い明晰夢。酷い悪夢だったって」


手に視界を遮られた僕は、不思議な多幸感と共に、何処か心地よい香りに目を細める。

さっきまで視界の端にチラついていた、深い霧は、最早何処にも見えなかった。


「だけども、私達にとっては現実の世界だった。何度も何度もやり直して、嘘でもいいから、その先を見たかった世界。元々霧なんてかかってなかったのに…結局、脳裏に残った"仇敵"を再現しては殺すだけの狩場になっちゃった」


今、僕が聞いているのは、この世界の主の懺悔だろうか。

意識も呼吸も薄くなってきて、さっきまであった血だまりの感触すらも失いかけている僕に、彼女は語り続けていた。


「何度も何度も、私達は殺された。殺されては、生まれ変って、何処かのタイミングで記憶を取り戻したの」


その話は、現実味が無いくせに、何故か凄く理解できる話。


「ある時は同級生に、ある時は担任に、ある時は偶々すれ違った見ず知らずの男に…」


彼女が話せば話すほど、"僕の記憶"と混ざり合っていく。

話せば話すほど、それは"大昔の記憶"として僕の中に蓄えられていく。


「何度も何度もやり直して、相棒とも、親友とも、恋人とも言える人と一緒に足掻いては、殺された」


脳裏には、さっき別れた慧の顔が思い浮かぶ。

だが、その表情は、彼女の話を聞いてるうちに、色々な男の顔へと変わっていった。


「私の名前は、空野彩希じゃない。何か別の名前があったはず。だけど、名前は常に"一番新しい"名前で書き換えられた。だから、私は、霧の中で"空野彩希"を名乗ったし、彼は"影林慧"を名乗った」


脳裏に浮かんだ彼の顔が、慧の顔に捲き戻る。

僕は夢見心地の境地で、脳裏に浮かんでは消えていく"過去"の記憶を眺めていた。


「昔の名前なんて覚えてない。私は"何周目"の"xxxx"だったのかすら知らない。でも、私が貴女じゃないという事は、私は失敗作だったということ。足掻けなかったということ」


僕を撫でる手が震えている。

ポツリ、ポツリと、生暖かい水滴が顔に落ちてきた。


「……」

「……」


再び静寂。

いや、1人分の嗚咽…

手を通じてだろうか、それとも、この空間の不思議な作用のお蔭なのか、彼女の…もう一人の僕の感情が僕の中に入り込んでくる。


「私は、ワタシは、アタシは、僕は…これ以上未来をみる事が出来ない」


数えきれない後悔。

数えきれない恨み。

こうしたかったという欲望に、これが好きだったという好み、嫌いなもの…

何度も何度も"やり直した"僕の全てが一気に洪水となって頭の中にあふれ出る。


「貴女は、私達の中では一番長い時を過ごしてる。私達が乗り越えたくても、乗り越えられなかった"事件"を乗り越えたの」


彼女の言葉を聞きながらも、脳裏には常に僕の姿が映し出されている。

今の僕とは全然違う、可愛いらしい僕がそこに居た。

僕よりも男勝りな僕がそこに居た。

特徴のない、物静かな僕が居て…それが一転して高飛車な僕になり替わる。


「霧が晴れていく…向こうも、慧も似たような話をしているのかな」


もう一人の僕の気配が微かに揺らいだ。

頭に乗っていた手の感触が、少しずつ消えていく。


「太陽。そう言えば、元居た世界は朝日が出る時間だったっけ」


感触が、人の気配が消えても尚、その声は僕の耳に入って来た。

夢が終わるその時まで、僕にとっての悪夢が醒めるまで、彼女はそこに居てくれるのだろうか?


「ごめんなさい…これじゃ、私は私にドヤされちゃうな」


「もし、次で終わりに出来たのなら、最後のお願いを聞いてもらおうって、思ってたのに」

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