1.初雪が降った街角で <後編>

バイトからの帰り道。

4時半だというのに既に暗くなっていて、オマケに雪が降っていた。

僕はハーっと白い息を吐き出すと、思ったよりも強く降りしきる初雪に顔を背ける。

黒いダッフルコートに両手を入れて、少し体を窄ませて歩いていた。


とっくにバイクは車庫の奥で、今はバスで通っているのだが…こういう日のバスは必ず遅延するものだ。

喫茶店から歩いて、普段バスに乗る時に使う駅前の方に歩いていくと、僕が使っている路線のバス停には何時もの数倍もの人で溢れていた。


時計を見ると、数分前にバスが来ているはずの時間。

あの様子を見る限りだと、バスは遅れていて…その間に駅から降りてきた人や、近くの学校からの帰りの学生で溢れかえったのだろう。

僕は遠くにその光景を見た途端、行先を近くのビルに変えた。

ビルの2階にあるネカフェで時間を潰そうと思った。


入り口で髪や上着についた雪をほろって、入り口の入場機に前から作っていたカードを読み込ませて中に入る。

とりあえず、適当に漫画を見ながら店内を歩き…ドリンクバーの方までたどり着いた。

大きな紙コップを取って中にメロンソーダを入れる。

それを持った僕は、何となく目に入ったビリヤード場の方に進んでいった。


「……」


客は僕だけ…リズムの良いジャズ音楽が古いスピーカーから流れていた。

ビリヤード台横のテーブルに紙コップを置いて、着ていたコートをコート掛けに引っ掛ける。

身軽になった僕は、テーブルに備え付けられていたボールをビリヤード台の上にセットすると、台に載っていたキューを取ってスッと構えた。


狙いを付けて、ブレイクショットを放つ。

小気味の良い音と共にボールが弾け、バラバラになった。

プレイヤーは僕だけ…ボールが一つも入らなかったが、そのまま1番ボールが狙える位置に移動して、手玉にキューを突きつける。


「……?」


狙いを付けている最中、僕は漂ってきた煙に目を向ける。

それはスーッと現れてきており、何処からともなく漂ってきていた。

僕は構えを解いて周囲に目を向ける。

煙は次から次に…換気口やドアから流れ出てきていた。


「火事…いや、違う」


僕は顔を真っ青に青ざめさせながら呟く。

この光景には、何処かで見覚えがあったからだ。


「!」


脳裏に蘇る血の色。

男の断末魔に…ガラス越しに微かに見えた自分の狂ったように嘲笑した表情。

ここ最近は少し頭から離れていた光景が次々に蘇ると、僕の体の感覚はスーッと抜けていた。


「成る程、次は彼の番か」


傍観者になってしまった視界から、僕の声が聞こえてきた。

まるで、何もかもが分かっていそうな声色。

何時ものような声色とは違って、別人に聞こえてくる。


いや、今は僕が体を動かしていない時点で別人と考えるべきだろうか?

僕がそんなことを考えていると、彼女はビリヤード台横のテーブルに載っていた紙コップを取って中身を一気に飲み干した。

流石に冷たかったのか、炭酸が喉に効いたのか…ほんの少し目を瞑ると、直ぐに目を開けて行動を始める。

僕は言うことを聞いてくれない体を動かそうと、気持ち的には頑張ってもがいているのだが…

僕の代わりに僕を動かす誰かさんには一切届かない。


僕の身体はビリヤード場を出て、漫画やパソコンなどをするための個室の方に向かっている。

道中は全て深い霧に包まれていて、ココが本当に夜のネカフェなのかと思えてくる。

個室のエリアに行く前に立ち寄ったスタッフオンリーの用具室の扉を見る限り、ここがネカフェであることは間違いなさそうだった。

僕はそこで手頃な果物ナイフと何故か置かれていたハンマーを手に取って用具室を出て行くと、そこからは迷うこともなく個室エリアの中の一室の扉をノックした。


「何でしょう」


聞こえてきたのは、若い男の気だるげな声。

僕は声の主が出てくるまでノックを続けた。


「何だよ…気味の悪い…何かあったのか?」


僕は無言でノックを続けた。

やがて男がノブを捻って扉を開ける。

その刹那。

僕の右手に握られた包丁が一気に男の首元に向かっていった。


「!」

「!」


狙いは正確で、それでいて情け容赦無いものだった。


「…!…!」


正確に喉笛を突き刺す。

ナイフは刺さったまま、男は首元から吹き出る血を抑えながら背中側によろけた。

当然、僕にも返り血が跳ね返っているのだが…気にせずに左手に持ったハンマーで追撃に出る。


「!…!……!」


既に男はパニック状態。

血の量はおびただしい量で、最早彼には僕に対抗できるだけの力も残っていなかった。

放っておけば勝手に息絶える…それほどの傷を負わせたのにも関わらず、僕は追撃の手を緩めない。


1発…

2発…

3発…

4発…

5発…


手にしたハンマーで、男の顔を殴り続けた。

3発目くらいで手に伝わる感触が変わり…そこからは1発ごとに男の顔の形が変わっていく。


6発…

7発…

8発…

9発…

10発…


10発…しっかりと数えながら殴り続けて手を止める。

ハンマーの平らな部分と、釘抜の部分を交互に織り交ぜて殴っていくうちに、徐々に男の顔は人相が分からなくなっていた。

ハンマー本体に、ハンマーを握った手、着ている衣服…全てに返り血と…気味の悪いとしか言いようのない何かが付いている。

僕はそれを気にする素振りも見せず、冷めた目で男だった何かを見下ろしていた。

満足げに、薄ら笑みすら浮かべながら…


「……」


僕は無言で立ちすくむ。

徐々に霧は深まっていき、やがて僕の視界は真っ白な霧で包み込まれた。


「……」


「!!」


カン!とキューがボールを突く音で僕はハッとして自分を取り戻す。

気づけば体はちゃんと僕が動かしていて…キューを持って手玉を突いた直後だった。

行き成り場面が切り替わり、しかも僕は相変わらずビリヤード台の近くに居る。

自分を取り戻す直前に突いた手玉は、勢いよく飛び出ると9番ボールにヒットして…そのままカップに吸い込まれていった。


「…え?」


訳も分からぬまま、周囲をキョロキョロと見回しながら…ビリヤード台の上を見ると、今ので全てのボールがカップインしている。

周囲には相変わらず誰もおらず…一人で…腕時計を確かめると、まだ入ってきてから30分も経っていなかった。

…つまり、さっきまで居た霧の中は、完全に僕の妄想という事になる。

それにしては異様なまでにリアルで、感触も光景もしっかりしたものだったが…何度自分の手を確認しても、衣服を確認しても血の跡などこれっぽっちも見当たらなかった。


僕はキューを置いてテーブルの上に置かれた紙コップを手に取る。

霧の中に入ってすぐに飲み干されたはずなのに…中身はしっかりと残っていた。

霧の中に入ってから数十分間…僕は無言でビリヤードをやっていたという事だろうか?

霧の中での独り言をこちらでも言ってなければ良いのだが…


頭の中でグルグルと物事が巡っていく。

霧の中の出来事は間違いなく現実だとしか思えなかった。

でも、気づいてみれば僕はずっとビリヤードをやっていて9ボールを完遂している。


「……」


テーブル横の椅子に腰かけて、少しの間固まっていた。

この間と同じような状況…あの時は家に帰ってから自分が戻って来たが、今は現場で戻って来た。

この間は301号室から出てきた親子を証左に夢だと…妄想だと片付けたけれど、今はこの目で確かめられる。

僕はこんがらがっている頭で考えを纏めると、手にした紙コップの中身を一気に飲み干して立ち上がった。


「いっ…」


強めの炭酸が喉に効いて、思わず目を瞑る。

クシャ!と紙コップを潰してゴミ箱に投げ入れ、ビリヤード台の周囲を片付けて備品を元に戻し、コート掛けにかかっていたダッフルコートを羽織った。

ビリヤード場を出て、向かうのは霧の中に居た時に行った個室…

ドリンクバーが置かれているエリアを越えて、ドアを一つ開けて先に進めば、その先には小さな個室がズラリと並んだエリアになっていた。


僕は記憶を辿って、感覚的にはさっき…訪れて扉をノックした部屋の方に歩みを進める。

入り組んだ狭い通路を進み…やがてさっき訪れた部屋の前までやって来た時、僕は目を丸くした。


空室だったのだ。

それを示すように、扉が開いたままで…男の影も形もなければ血痕も見当たらない。

僕が入店した時には、機械は他の客が0人だと表示していたから確かに僕しかいなかったが…その後に新たに入って来て個室を使っているとばかり思い込んでいた。


僕は個室エリアを歩き回る。

すると、全ての部屋が空室だった。

個室エリアを出て、漫画本の置かれた本棚やダーツ場…もう一度ビリヤード場を訪れても、何処にも人影は見当たらない。


「誰もいない」


腕時計を見ると、まだ来店から1時間と経っていない。

分かったのは、この店には僕しかいないという事実。

呆然とした表情で、とりあえず何か漫画本を探すフリをしながら、また思考の海に潜っていこうとした。


「あ!」


適当に目のついた漫画本の1巻目を手に取って、今度はダーツでもやりに行こうかと歩き出した僕の背後で声が上がる。

ビクッとして振り返ると、見知った顔が僕の方に駆け寄って来た。


「サッキ―!」


彼女は昔からの僕のあだ名を呼んでこちらに来る。

僕はどんな顔をしていいか分からなかったが、小さい頃から中学まで一緒だった友人と会えて嬉しくないわけは無かった。


「葵かぁ…驚かさないでよ…一博も一緒だ」


僕は駆け寄って来た彼女の後ろから歩いてくる人物に目を向ける。

桑名葵と寺尾一博…家もそんなに遠くなく、小さなころから同じクラスで居ることが多かった。

そんな2人は、今は市街の高校に通っていて…パッと見た限りは学校帰りといった所だろう。


「随分と遅い時間なんだね。部活やってたっけ?」

「何も。ただちょっと学校で野暮用があってさ」


僕の問いに一博が答えた。

相変わらず僕の脳内はグルグルとさっきの光景がリピートされていたが、彼らに会えたお蔭で幾分か和らいでいく。

この間よりも忘れられるのは早いはずだ…現場であの光景が現実ではなかったと確認できたのだから。


「そっちは?バイト?」

「そう。バイト上り…バス停行ったら人でごった返してたから逃げて来たってわけさ」


僕は一博の問いに正直に答える。

彼らも、僕が何故高校に通っていないかは知っているが…偶に会った時でも気を使ってくれて話題には出してこなかった。


「サッキ―らしいね。こんなことなら慧も来たら良かったのに」


葵がもう一人、僕に一番近い存在の幼馴染の名を上げた。

僕はピクっと反応して首を傾げる。

何となく、流れでダーツ上の1席までやって来たが、直ぐにダーツが始まるわけでも無く立ち話が続いた。


「一緒だったのかい?」

「うん。行く?って聞いたら、家の用事があるからって」

「そうなんだ」

「サッキ―が居たのにって言ったら残念がりそう」


葵がそう言うと、僕は苦笑いを浮かべて肩を竦めた。


「まさか。アイツはそういうタチじゃないよ」

「アハハ…確かに。それにしてもサッキ―も相変わらずだね。変わってない」

「僕が髪を染めるとでも思った?」

「思わない!」

「でしょ?…そう言えば2人もバスまでの時間つぶしだろう?」


僕はそう言うと、2人の前でダーツボードの方に指を指した。


「せっかく会ったんだし、時間つぶしに付き合ってよ」

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