初雪が降った街角で
1.初雪が降った街角で <前編>
僕は本能や無意識に行動は起こしたくない人間だ。
本能や無意識のせいで、平穏な日々が壊れるというのなら、それは僕にとって耐えがたい。
それだけに、この間の出来事は僕の心に大穴を開けた。
人殺し。
昨日の僕がやったことだった。
現場は帰り道の途中にある、特に関係があるわけでもないマンションの一室。
殺したのは、見たことも無い1人暮らしのくたびれた中年男。
スーッと、僕が自分の体から離れて行く感覚を感じた後から視界の前に繰り広げられた光景は、しっかりと覚えている。
周囲は白い霧に包み込まれていた。
確かに、あの日は曇り模様だった…霧っぽかったわけでは無かったはずだが…確かに僕の記憶では霧に包み込まれていた。
そして僕は特に違和感もなく、あたかも最初から目的地がそこであったかのように動いていて…
マンションの駐車場に乗っていたバイクを止めると、迷うことも無く男の住む部屋へと歩いていった。
そこから先の光景は、思い出すと気味が悪くなる。
301号室…その部屋の呼び鈴を鳴らして出てきた男を、間髪入れずに殴り飛ばして消沈させて…そこからは目についた物を手に取って男の顔を兎に角殴打しまくって…息も絶えかけになった男を見るや、台所まで行って取って来た包丁を片手に腹部を一突きして止めを刺す。
そうして完全に息の根を止めた僕は、やったことの割には一切汚れていない衣服を見回して部屋を後にした。
「……」
バイクの横に座り込んで、ボーっと考え込んでいた僕は昨日の光景を鮮明に思い返して、ふと顔を上げた。
昨日と違って晴れ間の見える休日の午前中。
何となく家に居たくなくって、バイクで外に出てきてやって来たのは昨日人を殺したマンションの近くの公園だった。
今いる駐車場から、昨日僕が押しかけて男を殺した3階の角部屋…301号室の様子がしっかりと見える。
そこまで鮮明に覚えていて、昨日を振り返った僕は、目の前の光景に強い違和感を覚えた。
公園から見える限り、マンションの方には警察官の姿も何も無かったのだ。
思い返した光景の中では、殴られ傷つくたびに男が大声でうめき声を上げていた。
その声が昨日から頭を離れずに付いて回っている。
その声は、近所迷惑ともとれるほどの声量だった。
つまり…どんなに近所付き合いが希薄でも、少しは気にかけて様子を見に来ていてもおかしくないはずだ。
そう考えてみれば、僕が"犯行"に及んでいる最中でも来てておかしくなかったはずだし、僕が逃げ去った後で来ててもおかしくない。
つまり…何が言いたいかって…今日には男の遺体が見つかっていて、警察の人達が捜査を開始していてもおかしくないはずだ。
警察の仕事なんてドラマでしか見ないから良く知らないけれど…
死者が出てその日のうちに動き出さない訳が無い。
だが、視界に入る301号室にそれらしい影は見えない。
そう言えば…僕の家からそう遠く離れていないのに、パトカーの音も救急車の音も聞こえなかった。
僕は我を失って呆然としていた、ついさっきの僕から自分を取り戻すと、一気に頭の奥が冷めきっていく。
人を殺した感触も
男の醜い断末魔も
全て本物の感触として知ってしまった。
でも、現実にはまだ何も起きていない?
僕はポケットに入れたスマートフォンを取り出すと、直ぐに調べものを始めた。
そして、5分もしないうちに僕は一つの答えにたどり着く。
昨日あのマンションで殺された人は居ない…ということ。
まだ死体が見つかっていないのか…?
僕は調べてももめぼしい情報が出てこないスマートフォンを仕舞うと、ヘルメットを被ってバイクに跨った。
ガシャン!とキックスタートでエンジンを掛けると、一発でエンジンが目を覚ます。
不審者にしか思われないだろうが…気になるものはクリアにしておかないと気が済まない。
直ぐ目の前のマンションまで確かめに行こう…そう思ってマンションの方に顔を向けた時、僕の両目は驚愕に見開かれた。
「嘘…」
思わずそう呟いてしまう程。
視界に映る301号室のベランダに、女性と子供が出てきたのだ。
とてもじゃないが、昨日あの部屋で殺したはずのくたびれた男の嫁と子供には見えない。
若い母親に幼い子供…僕は絶句しつつも直ぐに顔をバイクのメーターの方に向けなおす。
そして、逃げるように公園駐車場から出て…行く当ても考えずに走り出した。
ここに来た時に、マンションの周囲が警察官とかでごった返しているようなら…僕の性格なら間違いなく自首していたはずだ。
だけど、あんな風に…まるで最初から無かったかのような今日の光景を見てしまえば、その気はすっかり失せてしまった。
現実的に起こっていない事件に対して「僕がやりました」だなんて、一歩間違えば鍵付きの病院行き案件だ。
…バイクで向かったのはこの町の図書館だった。
特に行こうと思っていたわけではないが…結局は静かな場所に逃げ込みたかったんだと思う。
バイクを駐輪場に止めて鍵をかけて、ヘルメットをハンドルに掛けると、少しだけ乱れた髪を整えながら図書館の中に入っていった。
適当に本を見繕って、開いていた椅子に腰かけて本を開く。
そんなことをしているのも、とりあえず外面を誤魔化すためだ。
頭の中は昨日の夕方からずっと混乱しているまま…
誰かに相談したくもなったが…ただでさえこの年で高校にも行ってないのに、ついには頭の中までやられてしまったのかと思われるのも事だった。
表面を取り繕うことは得意な方だ。
表側には感情を一切出さず…むしろ感情を作って薄っすら笑みを浮かべたまま仕事だってこなせるだろう。
僕は今も、淡々と本を読み進め続けていた。
内容は一切頭の中に入ってこないが…
「……」
本当に、どうしたのだろう?
夢にしては感覚がリアルすぎるし、かといって現実に起きている事だったのならば今の僕はこんな場所に立っていない。
「……」
ジーっと本を睨みつけたまま、思考の海に潜り込む。
潜り込むというよりは、溺れて沈んで浮かんでこないと言った方が正しいか。
そんな時、静寂に包まれた図書館の中で、机に置いた僕のスマホが振動し始めた。
「!」
目を見開くと、本を閉じて直ぐにスマホを操作して振動を止める。
画面を見てみると、メッセージアプリからの通知だった。
僕はアプリからの通知…父親の知り合いの人からの連絡を見ると、直ぐに返信を打ち始めた。
返信を打ち込んで送信ボタンを押すと、僕は再び本を開く。
さっき、何処まで読み進めていたかなんて覚えていなかった。
考えるのは、昨日の光景…ただそれだけ。
考えても考えても、何度も堂々巡りをしては振り出しに戻る。
記憶にこびりついた、非現実の殺人劇。
何度も思い返してあの感覚に気味の悪さを感じても、結局、今日という現実には昨日の1件が起きていない。
301号室に居た若い親子がその証拠…深く調べられれば良いのだけれど…それでも、主観でしかないが、あの親子は昨日の今日であの部屋に入っていた訳では無さそうだった。
「……」
パタン。
読み切ってもいない小説を閉じる。
何度も何度も堂々巡りをするのなら、今見えている現実だけを信じることにしよう。
そう、心に決めて…昨日の夕方から続いていた頭の中の一人押し問答に決着を付ける。
ふーっと小さくため息を付くと、持ってきた小説を本棚に戻して…ポケットからバイクのキーを取り出した。
気づけば1時間ほど図書館で過ごしていたらしい。
受付の上に掛けられたアナログ時計が11時過ぎを示していた。
図書館を出てバイクの元に戻ると、ヘルメットを被ってバイクにまたがり、エンジンをかける。
来た道を戻って車道に合流すると、ウィンカーを右にあげて自宅の方を目指した。
図書館から家まではそんなに遠くない。
今朝、片手間に調整したエンジンは機嫌よく回ってくれていた。
「今日で最後だったかな」
…家について、車庫の奥にバイクを仕舞いこむ。
空は晴れ渡っていて、冷え込みが激しくなってきた近頃の中では一番暖かいが、そろそろ初雪の便りが届きそうな季節だから、今日を走り収めにしよう。
正直、そんなことをさっきまでは一欠けらも考えていなかったが…図書館で急に頭の中が冴え渡ってきてからは何時もの僕を取り戻せた気がした。
車庫の奥にバイクを仕舞ってからは家の中に入ることは無く、シャッターを半分ほど閉めて車庫の明かりを灯す。
フワッと黄色い明かりに包まれた中で、車庫の壁に沿わせた棚に置いていたラジオのスイッチを押した。
聞こえてくるのは、平日午前のラジオ番組。
面白くもなんともない番組がかかっていたので、周波数を変えて、やがて昔の流行り曲が聞こえてきたのでそこに合わせた。
それから、背後に振り返ると…この車庫の主の姿をじっと見まわした。
それは父親が乗っていた、古い昭和のスポーツカー。
鼻先が長く、流麗で、この車以外を街中で見掛けたことが無い。
僕の前に鎮座するその車は、黄色くて格好良かった姿からは程遠かった。
部品は全て取り払われて黄色いボディカラーは削ぎ落され…サーフェーサーの灰色に身を包み込まれている。
僕は車だったそれをそっと撫でると、その車の背後に置かれていた物に目を向けた。
「次はこっちかぁ…」
そう言って目を向けたのは、丸裸になった車に付いていた部品たち。
2か月かけてコツコツと部品を外し…使えるものと使えないものに分けて…使えるものは一旦車の裏手側に放置していた。
エンジンに足回り、内装部品…どれもこれも磨いて綺麗にしなければならないし…使えるといっても補修が居るものもある。
僕はその中の一つ…ついこの間綺麗にしたばかりの青いシートに腰かけると、はぁーっと深く溜息をついて目を瞑った。
小さい頃はこの助手席のシートに座ってよく出かけていたっけ…
なんて浸ってる間にも、もう考えないと決めたあの光景が邪魔をしてくる。
気晴らしに、思考を変えようとしても、ふとした拍子にあの光景が思い浮かんできた。
どうも暫くはこの光景と付き合わなければいけないらしい。
僕はシートに座って目を瞑ったまま、心の奥底で毒づいた。
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