妻
黒い
寂しそうな背中で、一人、佇んでいたのです。
私はすっかり酔いも冷めてしまって、
「おい、まだ起きてるのかい。もうとっくに深夜だよ」
すると妻は、ハッと顔を上げて、私を見たのです。
「おい、どうした。そんなに驚いて、ええっ。俺が帰ってきたのが、そんなに不思議かい」
「いえ……。いえ、そうね。ごめんなさい。すこしぼうっとしていたみたい」
「そうか。なんにせよもう休みなよ」
「ありがとう、あなた……それにしても、今日は珍しく、ひどく酔っているのね」
「そうだ――そうなんだ! 聞いてくれよ!」
私は先刻の怒りを思い出しながら、ポケットを探りました。すると指先に、十四粒の包装されたガムの感触がしました。
私はそいつを力まかせに引きずり出します。バン、と勢いよく机に置かれたガムを見て、妻は目を丸くしたようでした。
「……「記憶力がよくなるガム」、ですか?」
「そうだよ! あの可愛かった俊くんが、もう、俺のことなんてすっかり
俊くんとは、私たち夫婦の孫にあたる子で、今年いよいよ本厄を迎える年になります。
そんな彼からすれば、確かに私なんて年寄りでしょうが――それにしてもです。
「俺はまだ八十二歳だってのに「もうすぐ米寿ですね!」なんて……ちくしょう、そんなことあるか!?」
「やだ、俊くんらしいじゃありませんか、あなた」
「そうは言ってもだな!」
妻はすっかり穏やかな表情でした。ということは、もう、すっかりお見通しなのでしょう。
私がその場で何も言えず、笑顔でその場を収めたから、こうして妻に当たっているということを。
いま私が考えていることも、
言おうとしていることも、
逆に、呑み込んで言葉にならなかったことも、
妻にはお見通しだったと――そういう風に思うのです。
だからこんなにも、いつも同じ風に笑っているのでしょう。
「それに、俊くんの言う通りですよ。あなたももう、若くないのだから――今日だって、どうしてそんなに酔っているのか思い出せないでしょう?」
ぎくり、と言葉に詰まっていると、「ほら、やっぱり」と妻が笑います。
「折角だし、一つ頂いてみたらどうです? なにか思い出すかも」
そう言われると逃げ場がありません。私は仕方なくガムを一包み取り出して、口の中に放り込みました。
――酷い味だ。
――生薬の歯磨き粉みたいな味がする。
「どうです?」
と、妻が楽しそうに覗き込んで来ますが、これと言って何も思い出すことはありませんでした。
酔いさえ回っていなければ、きっと鮮明に思い出せたことでしょうが、頭の中には白い
記憶というものはどうしてこう、頼りないものなのでしょう。
「だめだな、全然。こんなの嘘っぱちだよ」
私はヤケクソになってガムを吐き出しました。
「大体――この年になりゃ誰だってそうなんだろうが、綺麗な記憶よりも、思い出したくない記憶ばっかりだよ。人生、きっとそんなもんだよ。だから私はこんなものは要らない」
「あらあら。それはどうでしょうね」
と、妻が口を挟んできました。そうです、妻はこういう風にいつも口を挟んでくるのです。
「それでも、あなたにとっては大切な記憶じゃないですか。もちろん、私にとっても」
私は酔ったフリをして目を瞑ることしかできませんでした。そうしていると気がついた時には、いつも、些細なことなど、どうでもよくなってしまうのでした。今日もその例に漏れない日でした。
人に話してすっきりしたせいか、急激な眠気が襲ってきました。そんな私の
「ちゃんと水、飲んでから寝てくださいね」
と一言、釘を刺すのも忘れません。こうなると私は妻の言うことを聞いて、黙って水を飲んで、静かに床へ着くしかありませんでした。
「おやすみなさい、あなた。良い夢を」
妻は静かに笑っていました。
そして、床の間と、居間の
その日は少し、特別でした。
「おやすみ、いい夢を」
いつもなら「おやすみ」なんて言いませんが、その日ばかりは少し特別でした。
しかし、自分で言って恥ずかしくなったのもまた事実です。
「聞こえていなければいいな」と思い、寝返りを打ちながら居間を見ると、もう電気が消えていました。
その日、私はよく眠りました。
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