黒い革靴かわぐつをそれぞれ奔放ほんぽうにさせた私は、続いて両方の足を奔放にさせました。目指すは寝間です。私は電気も付けずに歩き出しました。自分の家なのだから目を瞑っていても歩ける――なんて底なしの自負が湧き上がってきたとき、居間のテーブルに俯いて座る妻の横顔が目に飛び込んできました。

 寂しそうな背中で、一人、佇んでいたのです。


 私はすっかり酔いも冷めてしまって、あわてて妻に言いました。


「おい、まだ起きてるのかい。もうとっくに深夜だよ」


 すると妻は、ハッと顔を上げて、私を見たのです。


「おい、どうした。そんなに驚いて、ええっ。俺が帰ってきたのが、そんなに不思議かい」


「いえ……。いえ、そうね。ごめんなさい。すこしぼうっとしていたみたい」


「そうか。なんにせよもう休みなよ」


「ありがとう、あなた……それにしても、今日は珍しく、ひどく酔っているのね」


「そうだ――そうなんだ! 聞いてくれよ!」


 私は先刻の怒りを思い出しながら、ポケットを探りました。すると指先に、十四粒の包装されたガムの感触がしました。

 私はそいつを力まかせに引きずり出します。バン、と勢いよく机に置かれたガムを見て、妻は目を丸くしたようでした。


「……「記憶力がよくなるガム」、ですか?」


「そうだよ! あの可愛かった俊くんが、もう、俺のことなんてすっかり年寄としより扱いだ!」


 俊くんとは、私たち夫婦の孫にあたる子で、今年いよいよ本厄を迎える年になります。

 そんな彼からすれば、確かに私なんて年寄りでしょうが――それにしてもです。


「俺はまだ八十二歳だってのに「もうすぐ米寿ですね!」なんて……ちくしょう、そんなことあるか!?」


「やだ、俊くんらしいじゃありませんか、あなた」


「そうは言ってもだな!」


 妻はすっかり穏やかな表情でした。ということは、もう、すっかりお見通しなのでしょう。

 私がその場で何も言えず、笑顔でその場を収めたから、こうして妻に当たっているということを。


 いま私が考えていることも、

 言おうとしていることも、

 逆に、呑み込んで言葉にならなかったことも、

 妻にはお見通しだったと――そういう風に思うのです。

 だからこんなにも、いつも同じ風に笑っているのでしょう。


「それに、俊くんの言う通りですよ。あなたももう、若くないのだから――今日だって、どうしてそんなに酔っているのか思い出せないでしょう?」


 ぎくり、と言葉に詰まっていると、「ほら、やっぱり」と妻が笑います。


「折角だし、一つ頂いてみたらどうです? なにか思い出すかも」


 そう言われると逃げ場がありません。私は仕方なくガムを一包み取り出して、口の中に放り込みました。


 ――酷い味だ。

 ――生薬の歯磨き粉みたいな味がする。


「どうです?」


 と、妻が楽しそうに覗き込んで来ますが、これと言って何も思い出すことはありませんでした。

 酔いさえ回っていなければ、きっと鮮明に思い出せたことでしょうが、頭の中には白いかすみがぼんやりと漂うだけです。どうも今日は調子が悪いようです。


 記憶というものはどうしてこう、頼りないものなのでしょう。


「だめだな、全然。こんなの嘘っぱちだよ」


 私はヤケクソになってガムを吐き出しました。


「大体――この年になりゃ誰だってそうなんだろうが、綺麗な記憶よりも、思い出したくない記憶ばっかりだよ。人生、きっとそんなもんだよ。だから私はこんなものは要らない」


「あらあら。それはどうでしょうね」


 と、妻が口を挟んできました。そうです、妻はこういう風にいつも口を挟んでくるのです。


「それでも、あなたにとっては大切な記憶じゃないですか。もちろん、私にとっても」


 私は酔ったフリをして目を瞑ることしかできませんでした。そうしていると気がついた時には、いつも、些細なことなど、どうでもよくなってしまうのでした。今日もその例に漏れない日でした。


 人に話してすっきりしたせいか、急激な眠気が襲ってきました。そんな私の機微きびを妻は決して見逃しません。私の胸元からそっと黒いネクタイを外し、黒い上着を脱がせました。実に流れるような手つきで感心しました。伊達だてに六十年も、私の妻をやっていません。


「ちゃんと水、飲んでから寝てくださいね」


 と一言、釘を刺すのも忘れません。こうなると私は妻の言うことを聞いて、黙って水を飲んで、静かに床へ着くしかありませんでした。


「おやすみなさい、あなた。良い夢を」


 妻は静かに笑っていました。

 そして、床の間と、居間のあいだにあるふすまを、静かに閉じました。

 その日は少し、特別でした。


「おやすみ、いい夢を」


 いつもなら「おやすみ」なんて言いませんが、その日ばかりは少し特別でした。

 しかし、自分で言って恥ずかしくなったのもまた事実です。

「聞こえていなければいいな」と思い、寝返りを打ちながら居間を見ると、もう電気が消えていました。


 その日、私はよく眠りました。

 






 



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