目が覚めると、実に静かな家でした。

 白米の炊ける暖かい香りもしません。

 包丁が軽快にまな板を叩く音も聞こえません。


 私は、まだ朦朧もうろうとしている頭でふらふらと立ち上がり、

 居間との間にある、ふすまを開きました。


 そこで目に飛び込んできたのは、やけに物々しい仏壇ぶつだんでした。

 

 立派で、清潔で、大きな木箱の隣に、

 穏やかな妻の笑顔がありました。


「そうか」


 と、私は言いました。


 酒を深く飲みすぎた理由にも、今更ながら合点がいきました。


 俊くんに会えたのも、親戚一同が集まる機会があったからでした。


 そうすると芋づる式に、すべてを思いだしてゆきます。私はそっと、目を閉じました。するとまだ昨日の酒が暗闇を彷徨さまよっているようでした。まるで、自らの巣を忘れた鳩が、ぐるぐると帰る場所を探して廻り続けているようでした。


 しかし、それだけでした。


 すべてはただ、過ぎてゆくだけです。


 記憶や思い出など、実に頼りないものです。


「そうか」


 つまり、これが死なのだと思いました。


 昨日みた夢のように

 酔いどれの記憶のように

 すべてはただ過ぎてゆくだけで


 どうやっても元の形に戻りません。


 ――つまり、これが死なのだと

 

 私は、そういうものだと思いました。


 私はゆっくり目を開けて、居間の机に、取り残されたガムたちに手を伸ばします。その間に、ぽろぽろと記憶がこぼれていきました。気が付けば、どこもかしこも記憶だらけです。


 妻との記憶。この家で過ごした記憶。

 仕事のこと。お互いの家族のこと。

 子供が生まれた時のこと。孫が生まれた時のこと。


 記憶。記憶。


 記憶、記憶、記憶、記憶、記憶、記憶、記憶、記憶、記憶、記憶、記憶、記憶、記憶、記憶、記憶。


 記憶記憶記憶記憶記憶記憶記憶記憶記憶記憶記憶記憶記憶記憶記憶記憶記憶記憶記憶記憶記憶記憶記憶記憶記憶記憶記憶記憶記憶記憶記憶記憶記憶記憶記憶記憶。


 記憶、記憶、記憶、記憶――記憶。


「はは――それ見たことか」


 恥ずかしいやら可笑しくやら――気が付けば私は笑っていました。


 思い返せば思い返すほど、ロクでもない思い出ばかりです。


 耳を澄ませば、妻の笑い声さえ聞こえてくるようでした。


「でも――どれも大事な思い出ばかりだ」


 ええ、そうですねぇ――と、妻がささやいたような気がしました。


 私はようやく、ガムの包みをがして一つ、口に放り込みました。

 

 その一粒にも、どうか――


 

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