第111話◇番外編◇わたしが死んだ日


 音のない雨が降りしきる。容赦のない地面を叩きつけるような激しい雨。道端の紫陽花に突っ込むように差された赤い傘。傘の下から逃れた花弁は雨に打たれてうな垂れていた。


「……!」


 視界に映る空は灰褐色をしていて、透明にしか見えない雨が同情でもするかのようにこの身に降り注ぐ。


(所詮、ゲームのようにはいかないものね)


 自分の命尽きる時が来たのだ。この世界がもし、彼のいる会社で出しているようなゲームの中の世界なら、もう一度生まれ変わってやり直すことだって出来ただろうに。自分はただの脇役。その他、大勢の中の一人でしかない。彼の特別な存在だと思っていたのは自分だけで、彼には長く付き合った自分などお荷物でしかなかったようだ。


 先週に別れを告げてきた、彼の顔を思い浮かべたら泣けてきた。もう体には痛みがあって動けないと言うのに、感情だけが生き続けている。それが無情に悔しくて泣けてきた。


「別れて欲しいんだ」


 昨年の年末には「結婚して欲しい」と、言った唇が、裏切りの言葉を吐く。しばらくお互い仕事が忙しくて疎遠ぎみになっていた矢先のことだった。今まで彼に会いたくとも仕事を優先してきた。それを彼が望んだからだ。

幾ら自分と付き合っているからと言って、仕事より自分を優先するような女は、重く感じるとの理由から。


 自分も職場では中堅どころとなって後輩を抱えていたし、仕事に理解ある彼氏がいてくれて幸せを感じていた。それなのに……。


 春は残酷だ。新たな出会いを彼にもたらし、自分には別れを運んできた。

久しぶりに彼から「会いたい」と、携帯にメールが入って来て思い切りおめかしして出掛けたのに、待ち合わせの喫茶店には彼の他に同伴者がいた。彼の後輩の彼女がなぜか一緒にいたのだ。


 彼女は以前、彼とのデート中に街中で出会い、一度だけ紹介を受けたことがある。垢抜けた可愛らしい子だったし、その時に熱に浮かされたような瞳を必死に彼に向けていて、自分をけん制するようにねめつけてきた。

 その彼女が彼の横の席に座り、元からここは自分の場所だったと言わんばかりに、彼の腕に自分の腕を絡めてしたり顔でこちらを見つめていた。


 それだけで事情を察した。彼らの正面に座る自分の顔はどんどん青ざめていっていることだろう。彼女は勝者の余裕を見せ、彼が別れの言葉を、元カノに成り下がったわたしに遠慮なく振り落とすのを、どこか愉快そうに見ていた。

 目には見えないナイフが、何度も何度もわたしの心を突いて裂いた。きりきりと布地でも引き裂くように亀裂の入っていく心。


 これ以上、直視できなくて彼の裏切りの唇を目だけで追う。時折、隣の彼女を伺うように言葉を切る彼を見ていられなかった。とうとう最後まで彼の言葉を聞いていられなくなって席を立ち上がると、無垢を装う彼女がぽつりと言った。


「元カノさんはキャリアウーマンだもの。すぐに良い人が現れますよ」


 恋にキャリアもノンキャリもない。その言葉に自分は間違えたのだろうかと思う。自分よりも仕事を優先して欲しいと願った彼が最後に選んだのは、仕事よりも自分を優先する女性だったとは……。

 悲痛な顔を浮かべてこちらを見上げた彼には、皮肉にも苦笑しか浮かばなかった。


「さようなら」


 大好きだった彼に出来た事は、彼が望む別れ話に頷いてあげることだけ。わたしはそれ以上、彼を見ていられなかった。

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