第93話・ああ。なんてこの世界は美しい


 指先から凍りついていくような震えが走った。それと同時にジェーンは立ち止まった。ジェーンは普段は大人しい少女で、争いごとからはなるべく回避するようにしていたのに、その日ばかりは行動が違っていた。

 女官の前に行き、ルイと手を繋いでる方とは、反対の手で彼女達を指差した。


「あなた方は、いつまで油を売っているのです。それと今のような話を、まことしやかに言うのはお止めなさい。殿下とわたくし、いいえ、パール公爵家への侮辱です。あなた方の顔は見た事があります。レッドルビー家の縁戚に当たるニハイム家と、マキシラル男爵家の者ではありませんか? のちほど父を通してルビーレッド家に苦情を申し立てておきましょう」


 ひいい。と、それをきいて慌てて女官は立ち去った。ジェーンはあなた達の素性は知っている。そんなくだらないことを行ってる暇があったら仕事したら? と、言ったようなものだ。素性を知られている時点で彼女たちの明日はない。ジェーンの一言でもしかしたら明日にはここを追われるかも知れないからだ。


「殿下。お耳汚しでしたね。申し訳ありません。あのような者を殿下につけておくわけには行きませんわ。早急に女官の入れ替えをしてもらえるように、父上様から陛下にお願いしておきましょうね」

「ジェーン。ありがとう」

「あのような者達は殿下の側に要りませんわ」


 ぷりぷりと自分の為に憤るジェーンが頼もしくて、またそんなジェーンが好きだと自覚した時に、どこかでこのような想いをした覚えがあることを思い出した。既視感というか不思議な感覚。彼女が自分の為に憤り、それを愛おしいと感じた……。


 脳裏にこことはまた違う、どこか遠い別の世界の記憶が蘇ってきた。彼女は今とは違う黒髪に黒い瞳をした容姿で自分の前に立っていた。彼女は泣いていた。泣きはらした顔さえ美しくて抱きしめたい思いに狩られたのに、それが出来ない現実が恨めしかった。


 その自分には別の女の腕が絡みついていたから。その女の腕を振り切ってでも彼女の涙を止めたかったのにそれが出来ない自分が悔しかった。彼女は数日後、物言わぬ体となって自分の前に現れた。


「……!」


 冷たい体に取り縋っても、彼女からは何の反応もない。そこまで彼女を追いつめてしまった自分は罪深いのだろう。

 ぼうっとする自分の様子がおかしいと思ったのか、必死にジェーンが「殿下」「ルイ」と、呼びかけてくる。それがどこか可笑しかった。ああ。今度は逆か。と、思われて。


「ごめん。ジェーン。ちょっと考え事をしていた」


 必死の形相のジェーンを安心させる為にいえば、彼女はホッとした様子を見せた。


「びっくりしました。急に何も言わなくなってしまうから」

「お腹すいた」

「まあ」


 ジェーンと目があえば、屈託のない笑みが返ってきた。ああ。なんてこの世界は美しい。もう一つの記憶を取り戻した自分には感謝しかなかった。喪ったはずの彼女が姿形は違えどもこうして自分の目の前にいる。こんな奇跡のようなことがあるだなんて。


 空腹も孤独も何もかも、彼女が側にいるというそれだけで満たされていく。

 もしかして。と、思った。この世界では、前世の記憶持ちは罪深き者と言われている。この世に生まれ変わった自分は、生前の彼女を死に追いやった罪を清算すべく生まれ変わったのではないかと。


 それならばこれからは彼女の幸せの為に生きよう。彼女の為に尽くそう。彼女のこの笑顔を守るためならば例え命を差し出しても惜しくないと思った。


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