ごめん、約束を守れそうにないんだ

友理 潤

第1話


 都心から急行で45分。

 この駅に降り立ったのは10年ぶりだ。

 数年前の再開発で目に映る景色はすっかり変わってしまった。

 それでも鼻をつくにおいは何ら変わらない。

 どんなにおいか、と問われれば、答えに困ってしまう。生まれてから高校卒業まで、自然と鼻を通ってきた空気のにおい。タイムスリップしたかのような錯覚を覚えながら、僕は改札を通った。


 駅前のロータリーに出ると、うららかな春の日差しが優しく迎えてくれた。

 歩道橋を渡り、真っすぐに伸びた歩道を進む。平日の昼下がりということもあってか、人はまばらだ。

 生まれ育った故郷。かつて我が家だったマンションへ続くこの道を、幾度も歩いた。でも僕の記憶を埋め尽くしているのは、10年前のあの日だけ。

 君とこの道を歩いた最後の日。


 ――今日でこの道とも卒業だね。


 卒業証書が入った円筒を片手に、君はあの日も笑顔だった。

 だから僕も、胸をかきむしりたくなるような寂しさを押し殺して、笑っていたんだ。


 駅を出て10分。大きな団地が見えてくる。

 春休みの小学生たちがはしゃぐ声。楽しそうに歌う鳥。

 君は気持ちよさそうに空を見上げながら、目を細めてたね。


 ――楽しかったね。高校3年間。ううん、たっくんとは幼稚園の年少の頃からだから……3、6、3、3――15年も一緒かぁ! あはは! 楽しかったね、15年間!


 うちは156号室で、君の家は103号室。11階建てのマンションで、同じ1階の住人。ものごごろつく前から、君は僕の横にいた。

 高校卒業と同時に僕が引っ越すまでの15年。永遠に続くとばかり思っていた日常は、あっけなく終わった。

 当たり前だった君の笑顔。どんなに遠く離れても消えなかったよ。今でもはっきりと思い出すんだ。

 

 ――ねえ、覚えてる? ここの団地でかくれんぼしたの。


 もちろん。君は僕を見つけられなくて、大泣きしたからね。


 ――違うよ! たっくんが私を見つけられなかったんだもん!


 強がるところは、ずっと変わらなかったな。

 懐かしさで胸の中を温もりで満たしながら、僕はなおも前へ進む。


 団地を過ぎ、左に曲がると、大きな公園に入った。木々に囲まれた緑のトンネルが真っすぐ続く。


 ――ここをランニングしたの覚えてる?


 ああ、でも長続きしなかったんだよな……。


 ――うん、続かなかったね。せめて1年は続けるって、ママたちと約束したのになぁ。


 そんな無茶な約束をする方が悪いんだよ。

 

 ――ねえ、たっくん。今度はたっくんと無茶な約束をしてもいいかな?


 そう言って、君は一人で駆け出した。

 落ち葉と枯れ枝をザクザクと踏み、制服のスカートをふわりと浮かせて。

 待ってよ、の言葉なんて聞こえないふり。

 風の妖精みたいに軽やかに。弾むように。でも、その背中は泣きそうなくらいに寂しそうに――。

 

 僕はあの時と同じように駆けだした。

 最近、運動なんて全然してないから、すぐに息があがる。

 汗がひたいににじむ。

 耳の奥がジンジンと音を立て、足は鉛がついているかのように重い。

 それでも僕は、前をいく君を追いかけて、懸命に手足を動かした。

 道を右に折れ、芝生の広場に入る。

 その広場のはじっこで、ピンク色に染まった大きな桜の木が見えてきた。

 あの時の約束がよみがえる。


 ――10年後。同じ日の正午。この木の下で会おうよ。


 ふわふわの芝生を駆け抜け、約束の場所にたどり着いた。

 でも君の姿はどこにもない。

 スマホで時間を確かめる。

 11時30分。まだ30分もある。待ち合わせにはいつも遅刻ギリギリだった君の性格を考えれば、ここにいなくて当然だ。

 ほっと胸をなでおろした。

 今どこにいるのか、あの時の約束を覚えているのか、スマホで聞くことはたやすいけど、そんなことをするつもりはない。だからスマホをバッグの奥へ押し込んだ。

 僕は君に、ここ数年、連絡すら取ってないよね。

 でも許してくれないかな?

 なぜなら怖かったんだ。

「ごめんね。約束守れそうにない」と言われてしまうのが――。

 

 息を整え、近くのベンチに腰をかける。

 制服姿の君の背中が、再び脳裏に浮かんできた。


 ――んでね、次会ったら、約束しようよ。


 らしくない涙声。僕の右手が彼女の肩に伸びかかる。けど触れられなかった。触れたとたんに僕たちのこれまで築いてきた全てが、バラバラになってしまいそうな気がしたから。

 そして彼女は消え入りそうな声で約束を口にしたんだ。


 ――今度は二度と別々にならないって。


 あの時、もし僕にほんのちょっとだけ勇気があったなら。

 言えたはずだ。

 君のことが好きだ――って。

 でも言えなかった。

 だから10年後の自分にその役目を託したんだ。


 ――うん、分かったよ。


 そう答えた時、君は僕の前で、初めて涙を見せたね。

 ひらひらと舞う桜の花びらと、君の大きな瞳から落ちる雫が、春の陽を浴びて眩しくて、僕は顔をそらした。


 ――バイバイ、たっくん。


 君から聞いた最後の言葉。

 それからの僕らは離れ離れになった。

 スマホを使えばいつだって話ができたし、会うこともできたはずだ。

 でもそうしなかった。

 誰も分かってくれないかもしれないけど、それが僕なりのけじめであり贖罪でもあった。

 君との約束を果たすために、君のいない世界で、自分を磨き、前を向いて生きてきた。君が隣にいなくても、ずっと君を感じていた。

 また君に会える――。

 希望を胸に抱きながら過ごした10年は、すごく幸せだった。


 もちろん君に素敵な恋人がいるかもしれない。いや、君のような美人で明るい性格なら、恋人がいて当然だ。結婚して、子どもがいたっておかしくない。

 それでもいい。

 君と出会えたことが、僕の人生の宝物だったんだよ。


 時間を見るために、もう一度スマホを取り出す。

 11時55分。

 約束の時間まであと5分。

 まだ君の姿は見えない。

 やっぱり来るはずがないよな……。

 体温が急激に下がるとともに、視線も落ちていく。

 

 ……と、次の瞬間だった――。


 ――ビュッ!


 強い風が公園の森の間を吹き抜けた。

 木々がざわざわと音を立てる。頭上の枝も大きく揺れた。

 はっとなって見上げた僕の鼻に、桜の花びらが舞い落ちてきた。


「あ……」


 小さな声を漏らしたとたんに、花びらが雨となって芝生に降り注いだのである。

 幻想的な光景に言葉を失い、すっかり見入っていると、もう一度、風が吹いた。

 地面に落ちた大量の花びらが宙を舞う。

 まるで君が躍っているようだった。


「ああ……」


 胸の奥から、熱い何かがこみ上げてくる。

 

 会いたい――。


 たった一つの純粋な欲求が、行き場を失い、目からこぼれ落ちていく。

 グレーのパーカーの袖で涙をふいた。

 それでも高鳴った胸の動悸は、もはやどうにもならなかった。

 気持ちを静めるため、目をつむる。大きく深呼吸をする。

 そしてゆっくりと目を開けたその時。


「たっくん!」


 視界の先にとらえた、淡い黄色のワンピースを着た若い女性。

 少し髪は伸びてる。薄いけど化粧もしている。

 でも、すらりと伸びた背も、大きな目も、あどけなさの残る顔も、まぎれもない。君だ。


「リホ!!」


 唇を噛んで嬉しそうに口角を上げる君。

 僕は走った。約束の木から離れてしまうけど、そんなの関係ない。

 君も駆けてくる。

 僕の想いは通じるかな?

 ううん、それじゃダメだ。

 絶対に届けるんだ!

 背中に春風が吹きつける。頑張れと後押ししてくる。

 その風に乗せて、僕は声を、想いを、飛ばした。



「リホ、好きだ!」



 君は何も答えなかった。

 その代わりに、広場のど真ん中で僕の胸に飛び込んできた。

 背中に手を回して、ぎゅっと抱きしめてくる君に対して、僕はどうしたらよいか分からずに戸惑う。

 すると君は耳元でささやいた。

 

「こういう時はね。黙って、ぎゅーってすればいいんだよ」


 僕は言われた通りに、君を強く抱きしめたんだ――。


◇◇


 覚えてるかい?

 あの時、僕たちはもう一度、約束したんだよな。


 ――これからはずっと一緒だよ。約束だからね。


 でもね。ごめん。

 僕はその約束をほんのちょっとだけ破ろうと思ってる。


「おじいちゃぁん!!」


 今年5歳になった孫娘が全力で芝生を駆けてくる。この子はよく転ぶ。だから僕は待ち合わせの桜から彼女の方へ駆け寄り、転ぶ前に抱き寄せた。


「よくきたなぁ!」


 一緒に桜の木を見上げる。

 あの時と同じように、ひらひらと花びらが舞い落ちている。


「ねえ、おばあちゃんも見てるかなぁ?」


 彼女は小さな指で空を指した。

 僕は春の空に浮かぶ白い雲を見つめながら、力強く答えた。


「もちろんさ」


 ごめんな。リホ。

 もう少しだけ待っていてくれ。

 君とうり二つなこの子が、転ばないようになるまで、そばで見守っていたいんだ。


(了)






 

 

 

 

 

 





 

 



 

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