恐怖と熱さの向こうに

 熱さと恐怖が彼の脳を圧迫し、口から湯気とともにこのような言葉が断続的に発された。


「熱ゥアーッ! フハッアーッ! ムグーッ! ハァーッ来ないでぇ!」


 あとずさりしたkyoは石の椅子につまづいてステン、と転んだ。その拍子に腰が抜けて立てなくなった。


「熱い! アツイィ! 熱い熱い怖い! ンフーッ! ごめんなさい!」


 ボーカリストの混線した絶叫にやられたように、blueがその場にへたりこんだ。

「もうだめだ」 

 それだけ言って背中向きに倒れそうになった体を、太い腕が支えた。

「青山っ、大丈夫かぁっ」

 それはvalleyだった。

 blueは涙を流しながら首を横に降った。

「しぬ」

「死ぬな青山ぁ!」

 そう発奮するvalleyの腕も震えていた。いかに彼でも、見渡す限り現れた霊魂のおぞましさには度肝を抜かれていた。

 その脇をかすめて逃げようとする男があった。nightだった。

 意識した行動ではない。死の危険を察知した本能が、彼の足を動かしめたのである。

「こらぁ内藤ッ!」valleyは逃げる黒い和服の裾を掴んだ。「逃げるな!」

 そのまま力任せに引き寄せられたnightは「でもほら、一回帰って寝た方がいいよ、夜だし」とわけのわからないことを言った。 

 valleyはその横顔を思いきり張り倒した。

「馬鹿野郎ッ! 仲間を置いて逃げる気かッ!」


 仲間──


 そう怒鳴られたnightの心に、今までの艶夜華~adeyaka~の活動、苦労、美しい思い出が走馬灯のように過ぎていく。


 だがそれはそれ、これはこれであった。


「でもさ谷口くん、このままだとみんなとり憑かれて死ぬと思うんだよ」

 正論である。

 それに対してvalleyは、このように答えた。

「馬鹿野郎ッ! 俺たちは死ぬときは一緒だぁ!!」

 nightの背をばしんと叩いてから、カメラの脇にぶん投げる。そして腹の底から、こう叫んだ。

「撮れ! 撮ってやれ! 京太郎がおでんと幽霊に立ち向かう姿を! 撮ってやれよ!!」


 実はvalleyが一番、恐怖によっておかしくなっていたのである。 



 大根が一向に冷めないkyoはまだハフゥッ! コワイッ! と腰を抜かして転げ回っていた。


「よぉし! 熱いか! 怖いか! 京太郎! 俺が助けてやるからなぁ!」

 

 valleyは無理矢理blueを立たせてその足でテーブルへと向かった。

「ほらあっ京太郎! おでんだぞ!!」

 皿に取ったハンペンではなく、煮立った鍋の中から三角のコンニャクを箸で取り出した。

 味がよく染みるよう表面に細かく切れ込みの入った灰色のコンニャクは、具材の中で一番の熱を有していた。

 valleyが料理人として蓄積してきた経験が、無意識のうちに最も熱い品を選ばせたのである。


 kyoは首を横に振ってイヤイヤしたものの、ドラマーの太い腕は彼の首根っこを掴んで離さなかった。

 コンニャクが唇に触れた途端、ボーカリストは「ビャッ」とこの世ならざる悲鳴を上げて後方に転がった。

 口紅が溶けて広がり、タラコ唇のようになった。

「よぅし熱かったな、熱かったな京太郎! ごめんな! 俺も食べるからな!」

 迫り来る霊魂の群れに向けて、valleyは絶叫する。

「見てろよお前ら! これが艶夜華~adeyaka~だ!!」

 大きな口を開けて、コンニャクを口内に押し込んだ。

 

「アフェッ! アフッ! ムゥンッ!! ムァーッ」


 七転八倒する男が、2人に増えた。


 nightは先ほどvalleyにぶちかまされたパワーそのままに、ほぼ惰性で撮影を続けていた。

 頭が回らないまま三脚からカメラを外し、転げ回るボーカルとドラム、迫り寄ってくる無数の霊を交互に撮り続ける。


 blueは残された三脚に寄りかかり、頭の中に響く声に苦しんでいた。

 干渉を受けやすい彼の頭に、霊からの声が濁流のように流れ込んで来る。 

 数えきれぬほどの声が入り雑じり重なりあうせいで理解できなかったものの、自分たちに向けられた負の感情の強さだけは感じとれた。

「ごめんねみんな……俺、なにもできなくて……ベースも下手で、ごめんね……」

 泣きながら言いつのった。

「みんな死んじゃっても、俺たち仲間だから、ずっと一緒だよ……」



 4人のいるテーブルの周りに、数百の霊体が押し寄せてくる── 

 彼らの生命は、もはや風前の灯火のように思われた。



 その時だった。



「クスッ」



 吹き出す声が聞こえた。

 4人の笑いではなかった。


 霊の群れの先頭にいた、痩せぎすの白人の女の子が口に手を当てて、楽しそうに笑ったのだった。


「え?」

 nightはカメラを、その少女に向けた。


「ププッ!」

 その動きにつられるように、少女がまた笑う。

 怨霊特有の不気味な笑いではなく、子供らしい無邪気なものだった。


 それが引き金のようになって、少女を中心に笑いの渦が広まっていった。

 墓地を満たしていた禍禍しい空気が軽くなっていく。



 ──読者諸氏におかれては、考えていただきたい。



 ペアルックのようなキモノを着て、

 どこの何だか分類不可のメイクをした人間が、

 今にも倒れそうになりながら泣きじゃくったり、

 知らない食物を口に入れてそのあたりを転げ回ったり、

 生まれてから死後まで聞いたことのない珍奇な絶叫を響かせているのである。



 怨念と憤激に凝り固まった外国人の霊も、この未知の異様な様子に、自然と心がほぐれてしまった。

 その感情の変化が、一人の少女の霊の笑いによって大きな流れとなり、一挙にこの緑川外国墓地を、ホッコリさせてしまった。



 ワッハッハ……

 ワッハッハッハッハ……



 刺すような冷たい排除の雰囲気が、春めいたやさしい温かさに変わっていく。



 よたよたと歩いて撮影者の肩につかまったblueが呟いた。

「笑ってる……」 

「俺にも、見える……みんな笑ってる……」

 nightは小さく答えた。



 kyoとvalleyは大根とコンニャクがまだ冷めず、地べたで悶絶している。

 その姿がまた、彼らの笑いを誘った。



 ワッハッハ……

 ワッハッハッハッハ……



 音もなくスッ、と、最初に笑っていた少女の霊が消えた。

 それを合図に次々と、姿や影が消えていく。



「あっ……えっ……? 聞こえる……」

 blueが頭を抱えた。nightは思わずカメラを彼に向けた。

「どうした」

「幽霊の声……聞こえる……」

「なんて言ってるんだ?」


 blueが答えるのと、kyoとvalleyがおでんの熱さに打ち勝つのと、最初に現れた霊が顔の穴から穏やかな笑い声を立てつつ消えるのは、ほとんど同時だった。



「It was funって…………『楽しかった』、だって…………」




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