2.やさぐれの露
「もっかい言ってみろ、この野郎!」
雨上がりの露が草花に光る、昼下がりの鳥居前にて。
白澄瑠久(しらすみ るく)は、目の前に相対する男の子を怒鳴りつけました。
「お前、瑠久ってんだっけ。よそ者をよそ者って言って何が悪いんだよ」
相手の子も言い返してきます。
「そっちじゃねえ、その後だ!」
「は?…ああ、女みたいな顔って言った事か。それこそ本当じゃんか」
「て、テメー!!」
瑠久は、相手の子を殴りつけました。
「やりやがったな!」
相手の子がぶんっとこぶしを宙に突き出すと同時に、瑠久は殴られたかのように後ろに吹っ飛ばされ、尻餅をつきました。
「こいつ!」
瑠久は立ち上がると、相手につかみかかります。
二人はもみくちゃになりながらお互いを殴り合いました。
「先生、こっち!柾(まさき)くんと、瑠久くんが!」
そこへ、女の子が先生を連れてやってきました。
「貴方たち、やめなさい!」
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「先生。息子が大変、ご迷惑をおかけしました」
瑠久のお父さんである白澄宗助(そうすけ)が、学校の先生に頭を下げました。
「二人とも、大きなケガが無くて、良かったですよ。柾くんは、先に親御さんが迎えに来ました。瑠久くんはその…根は優しいんですけれど、ちょっと血の気が多すぎると言いますか…。お姉ちゃんの瑠里(るり)ちゃんは、とても品行方正なんですけどねえ」
困ったように笑って言う先生に、瑠久はむすっと俯きました。
「よく言って聞かせます。…私たち家族ともども、早く村になじめるように頑張りますので」
「そんな。かえって、無医村だったこの街にご夫婦が来てくださって、みんなとても助かっていると感謝しているんですよ」
「今後ともよろしくお願いします。…ほら瑠久、お前も頭を下げろ!」
「いてっ」
瑠久は頭を押さえつける宗助と、しぶしぶお辞儀をするのでした。
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「だってさ、最初によそ者って言ってきたのはアイツだよ?」
「先に殴ったのはあなたでしょう」
「それに、女みたいな顔って言いやがったんだ!」
「褒め言葉じゃないの」
「どこがだよ!?」
おうちの食卓にて瑠久は、両親、姉の瑠里(るり)と4人で夕食を囲みつつ、訴えていました。
「引っ越して来てから何度目のケンカさ?この、とらぶるめーかー!!」
瑠里が、ケタケタと笑ってからかってきます。
「うっさい」
言い返せない瑠久はぷいっと、横を向きます。
「貴方からも、何か言ってちょうだい」
お母さんが、腕を組んで黙っていた宗助に助け船を求めました。
「…瑠久。ケンカの一つや二つ、ダメとは言わん。ただ、今後ケンカするときは、今からいうことを約束しろ」
宗助は瞑っていた目を開いて、低い声で言いました。
瑠久は黙り込み、お母さんと瑠里も神妙な面もちになります。
「一つ、自分からは手を出さない。二つ、自分より弱い相手とはやらない。三つ、相手が負けを認めたらそれ以上はそれ以上は何もしない。…そして四つ。神術(しんじゅつ)は使わない」
瑠久は黙ったまま自分の湯のみを手に取り、しかし飲まずにそのまま置きました。
「知っての通り、私たちは誰でも『神術』という神通力を持っていて、その力を人助けや、社会の為に使っている。もっとも、残念ながら悪事に使う人も少なくはない。ただ…」
宗助はいったん言葉を切り、強い口調で言いました。
「少なくとも我が家の神術は、誰かを傷つける為にあるんじゃない。瑠久、約束できるか」
「…は、はい」
瑠久はさすがに、申し訳なさそうに答えました。
「…まあ、そうは言っても」
宗助はふっと息をつきました。
「男子たるもの、ケンカの一つもするだろ。…ちょっと調べたんだが、あの男の子は綿貫 柾(わたぬき まさき)くんという子だったか。近々地域での親子健康診断で、私からも声をかけてみよう」
その言葉で、場が一息つきました。
「さあ、皆お腹空いたでしょう。食べましょ!」
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夕食後、瑠里は瓦紙(かわらがみ:新聞のこと)を広げ、瑠久も横から覗き込んでいました。
「瑠久って、もう字が読めたっけ」
「読めるに決まってるだろ!」
「マンガのところだけ?」
「うぐ…」
「しょうがない奴だな、あたしが知識を授けてやろう」
瑠里は、記事を読みだしました。
「お天気の記事からね。えー…『南の海で発生した台風は北上を続けており、来週には本土を通過する予想』」
「しばらく天気は荒れそうだから、二人とも家を出る時は気を付けるのよ」
お母さんがお茶を飲みながら、言います。
「はあい。次は国内蹴球(サッカー)の記事…『先日、葵京(ききょう)ベンガルズはライズ西安に3-0で快勝。うち2得点は、ベンガルズのキーマンと名高い稲田尚史選手が獲得。これによってベンガルズは、今季リーグ3位の23得点をマークしている』…だってさ」
「やったあ!オレ、将来は絶対に蹴球(サッカー)選手になるんだ!」
「はは、頑張んな」
微妙な表情をする宗助を、隣のお母さんが肘でつつきました。
「…んで、事件の記事だって」
瑠里は、続けます。
「『世界各地で相次ぐ大規模な強盗の被害が、より拡大傾向にある。今月、西地方の沿岸にて交易船が何者かに襲われ、乗組員がほぼ全員殺害された上に船内の交易品が奪われる事件が発生した。現地の盗賊の…シュウゲキを受けたものとみられる』。」
宗助とお母さんの柔らかな笑顔が、にわかに消えました。
瑠久は、不思議そうにつぶやきます。
「少し前も、どこかの国でそんな事件が無かったっけ。悪いやつらがたくさんいるってことなのか…」
「だね…。『船内に争った形跡は無いが、…イキ?された数十人のイガイ?は、いずれも激しく』」
「瑠里、他の記事も呼んでもらいたいわ。ほ、ほら、科学の記事とか」
お母さんが、遮るように声をかけてきました。
「うん、科学の記事ね。『近年、重要しげん…として世界的な注目を集める神晶銀(しんしょうぎん)が、ヤマトの近海にて大量に…まいぞう?している事が、ほぼ確実となった。国立…なんとか研究所が先日、調査結果を発表した』」
「どういう事?」
「この前の冬、家族みんなで宝石とか金属の博物館に行ったでしょ。そこで見た、でっかい石、覚えてる?」
「あ、すっごくキラキラ光ってたやつ」
「そう。あれは神晶銀っていう石で、それがあたしたちの国の山とか、周りの海の底に、たくさん埋まってる…かもしれないんだって」
「へえ、すごい!珍しいもんなんでしょ?」
「たぶん…。『ヤマト政府は、神晶銀の研究開発ならびに利用を、平和的な目的のみに限定すると国際的に宣言しているが、』…何て読むんだろ?『なんとかテイコクは、神術にシンワ性の高い同資源の…』」
宗助の口が「あっ」という形を作りました。
「どういう事?」
「うっさいなあ。最後まで黙って聞きなさい」
宗助とお母さんが目配せをしたことに、二人は気づいていません。
「グンヨウ?…目的を視野に入れてヤマトと共同でのサイクツ作業を申し入れているとの見方が強く、今後はテイコクが我が国への圧力を強めてくる事は、残念ながらほぼ確実と予想され』…」
「そ、そうだ二人とも。話の途中で済まないが」
宗助が、声をかけてきます。
「近々、村のお祭りがあっただろう。私たちふたりも最近は働きづめだったから、お祭りは皆で回ってみようか」
「ホント!?やったぁ!」
「いいねえ!」
瑠久と瑠里は、はしゃぐのでした。
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ところが。
その後たてつづけに、瑠久にとって面白くないことが続きました。
とにもかくにもこの街の新しい仲間として、みんなと打ち解けようとしたのですが。
「よぅ!蹴球(サッカー)やってるの?オレも混ぜ…」
「おい、来たぜ…」
「行こう。近寄ったら、殴られるかも」
みんな、瑠久を避けて行ってしまいました。
「!……」
瑠久は、他の子どもたちから怖がられてしまっていたのでした。
さらに、そんなある日の事。
その日の学校の屋外授業は、神術の実技でした。
「みなさんも大人になったら、それぞれ学んだ神術でお仕事をするようになります。今日は、みなさんが授業やおうちで覚えた術を、順番に披露してみましょう」
「はーい!」
校庭で生徒たちは1人ずつ、術を見せていきました。
柾がむんっと力むと、小さな石がいくつも浮き上がり、誰に触れられることもなく積み上げられていきます。
「すごぉい!」
周りから称賛を浴びた柾は、得意気でした。
夜葉は前に出てきて目をつむると、学舎を指さして言いました。
「あ!動物の飼育場からウサギが一羽、学舎の中にはぐれちゃってる。水飲み場のあたりだよ」
探してみると、果たして飼っているウサギの一羽が迷い込んでいました。
夜葉は皆からの拍手に対し、照れ笑いで答えました。
次の女の子は電球を取り出して意識を集中させると、周りのみんなが目をつぶらざるを得ないくらいの光が溢れ出ました。
「わたしは、世界の色んな場所を明るくする技師になるのよ!」
きっぱりと決意表明する女の子に、拍手が沸き上がります。
ある子は風を起こして手にした風車を回し、他の子は、箒に乗ってふわりと宙に浮きます。
生徒たちは順番に、自分が覚えた術を披露していきました。
そして次は、瑠久の番になりました。
「えっと。オレの両親はお医者さんで、お父さんはケガ、お母さんは病気を治す専門です。で、オレが学んでいるのは」
瑠久は懐から、破れた動物の毛皮を取り出しました。
「まだ、あんま上手くはできないけど」
瑠久は毛皮に手をかざして集中すると、破れた毛皮がほんの少し修復されました。
「こんな、感じです」
瑠久は、照れくさそうに言いました。
ところが。
「あっははは!」
「それだけ?つまんね!」
「え…」
「なんか地味ぃ」
「っ…」
他の子達もほぼみんな場の雰囲気に呑まれてか、苦笑いを浮かべています。
この場が先生と、そして2人を除いて、嘲笑に包まれてしまいました。
「もうどけよ。次はオレだ」
次の子は意地悪く瑠久を押しのけるやいなや、上に向けた両掌から勢いよく火を噴き出させました。
「おら、みろ!すげえだろ」
「あ、危ないからもう術を止めなさい」
「へへん」
先生に制止されながらも喝采を浴びるその子は、瑠久に向き直ると意地悪く言いました。
「親から言われたままの生き方をするなんてシュタイセイ無いんじゃねえのか、お医者様のお坊ちゃん?」
「な…!」
瑠久は思わず、こぶしを握り締めます。
「ちょっと、やめなよ!」
夜葉が怒ってくれますが、その場の空気は変わりませんでした。
「瑠久。あんなの、気にすることないよ。バッカみたい」
「…ありがと」
二人のやり取りを、柾が見つめていました。
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「…ただいま」
帰宅した瑠久は、自分の部屋に荷物を置いてまた外に出ようとしましたが、居間から宗助が声をかけてきました。
「ああ。瑠久、おかえり」
「あれ、休憩?」
「今日は、患者さんが少なめでな。母さんに診察を任せて、休ませてもらっていたんだ」
「…珍しいね」
「せっかく時間が空いたから、少しこの前の術の続きを教えようか」
「!……」
「ね、姉さんがいるでしょ?」
「いや、しかし」
「…ごめん。友達と約束があるから!」
「お、おい…」
宗助も何かを察したようでしたが、結局、引き留める事はできませんでした。
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もちろん、本当は約束などありません。
夕食の買い物でにぎわう市場をボールを蹴りながらぶらついてみても、心は晴れませんでした。
「…おい。『あっち』の噂、知ってるか?」
近くの通行人の会話が、耳に入ってきました。
「ああ。何でも、島の中で原因不明の事故による死傷者が多発してるとか?」
その時。
チャリチャリン…という音に目を向けた先に、慌てた様子の女の子がいました。
十一歳の姉の瑠里と同じか、さらに少しだけ年上でしょうか。
買い物の最中、手が滑って小銭をいくつか落としてしまったようです。
瑠久は屈んで小銭を拾うと、女の子に渡してあげました。
「あ、ありが…」
「おい!あっちの女だぜ」
女の子のお礼の言葉に、大きな声がかぶさりました。
見ると、今日の授業で火の術を操っていた意地悪な奴と、その子分みたいな二人組。
名前は…何だっけ。
「あっちの奴が、なんで俺たちの街で買い物なんかしてるんだよ?」
「そうだそうだ!」
瑠久やそいつらより年上であろうその女の子は、嘲りを多分に含んだ問いかけをあしらって踵を返しましたが、唇を噛んでいるのが見えました。
その様子に、瑠久は思わず割って入りました。
「何言ってんだ、お前ら?」
意地悪な親分とその子分は、へらへら笑いながらも瑠久を睨んできます。
「あん?何だ、よそ者。お前の知り合いか?」
「違うよ。それよか『あっち』って何だよ?」
「そいつは『狐哭島(ここくとう)』の奴だ」
狐哭島は、海に面したこの街の沖合にある小島です。住民もいて、瑠久の両親もこの街に引っ越してからはたびたび仕事で行き来していました。
「…で、それがどうした」
瑠久は問いかけます。
「『あっちの島』の奴が俺らの街に来てんのはおかしいだろ、てんだよ」
「島の人がこの街で買い物して、何がおかしいんだ」
「俺たちの街に来てんじゃねえっつうの」
「だから、なんで」
「うっせぇよ、お前もよそ者のくせに!」
瑠久も、顔つきを変えました。
「…話になんねえな、お前ら」
瑠久は、背後で戸惑っている女の子に、背中越しに声をかけました。
「きみ、行きなよ」
女の子は、申し訳なさそうにしながらもその場を離れていきました。
「や、やんのか、手前ぇ」
三人組はその声色に怯えを滲ませながらも、拳を構えます。
(ビビってんだな)
瑠久はもともと同年代の男の子と比べても背が高く、運動神経、もっと言えば腕っぷしに自信がありました。
今も、三人組を見下ろす形になっています。
――瑠久、約束しろ。自分からは手を出さない。自分より弱い相手とはやらない
ふと、以前に父から言われたケンカの時の約束が、脳裏に思い出されました。
それゆえに、一旦は。
「…あー、言っとくけど。別にお前らとケンカしたいわけじゃないぞ?」
一応、そういいましたが。
「ああ?怖気づいたかよ!」
親分は一人進み出て、ボカスカと殴ってきました。
腰の入っていない攻撃を、瑠久はしばらく我慢していましたが。
「痛ッて…」
強めに口元を殴られ、口の中が切れました。
血の味が舌に広がるとともに、瑠久の感情が瞬間、沸騰しました。
瑠久は大きく息を吐き出すと、様子の変化に親分が攻撃の手を止めた次の瞬間、その鼻面に渾身の一撃を叩き込みました。
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「…ただいま」
瑠久は二度目の帰宅をして玄関を開けると、柾がそこにいました。
「え、なんでお前がいるんだ?」
瑠久は驚き、柾はちょっとバツが悪そうにしました。
「な、なんでもねぇよ。俺ももう、帰るとこだ」
柾が懐に抱えているものが、お母さんがいつも見ている百科事典の一冊だと気づいた時には、柾はもう玄関口から走り出そうとしていました。
「ああ…親御さん、ついさっきお客さんが来て、取り込み中だぜ」
そう言うと柾は行ってしまいました。
「なんだ、あいつ…」
瑠久は呟いて居間に向かいましたが、柾が言った通り宗助とお母さん、それに瑠里までがまだ診療所にいるようでした。
診療所の扉で耳をそばだててみると、低い声で会話が聞こえてきます。
「…狐哭島で何が起こっているのですか?あの件と、多発する事故にはやはり関係が?」
宗助の声です。
「まだ断定はできませんが、その可能性が高いと私たち島の者たちは考えています。白澄先生、どうかご夫婦ともども島にお越しになり、ご助力をお願いできませんか。現状で助けを求められるのは、貴方達しかいません…」
「…ミナ、良いかな」
「もちろんよ、私たちにできる事なら、喜んで」
お母さんが、きっぱりと答えました。
「ありがとう…。村長さん、行きましょう」
「おお、かたじけない!」
「パパ、ママ。あたしも行く」
瑠里の声です。
「瑠里、今回はダメよ。島は今とても危険なの」
お母さんの諭す声。
「だからこそ、あたしも役に立ちたいのよ。少しでも人手が要るんでしょう?」
「あなた…」
「お願い!」
「…島では必ず自分の安全を第一に考えて、私たちや大人の指示に従うこと。約束できるか?」
「もちろん!ありがとう!」
「では、さっそく準備しなくては」
「瑠久には悪いけれど、今回も方波見さんにお願いさせてもらいましょう」
「え…!?」
瑠久は思わず、小さく叫んでいました。
その時宗助たちが扉を開け、瑠久とばったり鉢合わせました。
「あ、瑠久…」
「また、お仕事?」
「う、うむ…急に入ってしまってな。しばらく、島に行くことになりそうだ」
「あら…どうしたの、その顔のあざ」
「そんなことより、あの約束は?」
「うん?」
「覚えてないの!?」
瑠久の剣幕に宗助とお母さんは少しのあいだ固まり、やがてハッと顔を見合わせました。
「す、すまない…」
「瑠久、本当にごめんなさい。埋め合わせはきっとするから…」
謝る両親に、しかし瑠久は叫ぶように抗議しました。
「なんでだよ!なんでこんな所に引っ越してきたの?」
「友達とだって、別れなきゃならなくてさ!よそ者って言われて!何も、考えてくれねえじゃん!」
「何だってんだ、こんな田舎の人達が!」
「瑠久、なんてことを言うんだ!」
宗助もさすがに、怒りました。
瑠久は答えずに走りだし、自分の部屋にこもってしまいました。
「…申し訳ありません。息子が無礼な口を」
「いえ…」
************************************************
その後、部屋にこもった瑠久のもとへ、お母さんが部屋にやってきて夕食の声掛けをしてきましたが、布団をかぶったまま、無視してしまいました。
しらずしらず、涙があふれてきました。
しばらくすると、今度は瑠里がやってきました。
「…よぅ」
瑠里の声かけに、瑠久は布団をかぶりなおして無視しました。
「お腹、減ってるでしょ」
瑠里は、枕元におむすびが二つのったお皿を置いてくれましたが、瑠久は何も答えません。
「そのままで良いからさ、聞きな」
瑠里は、ゆっくりと話しだしました。
「まあ、さあ…ウチの親、確かにヒドイわな」
瑠里は、笑いました。
「あたしら子どもの事情お構いなしで、自分たちがやりたいからってこんなところに引っ越してきてさ。しかも仕事にかまけてばかりで、ホントひどい二人だわ」
瑠久が被っている布団が、かすかに動きました。
「ただ、さ…この町や狐哭島はさあ。医者が全然いなくて、みんな本当に困ってた町なんよ」
瑠里は、続けます。
「そんなこの町をねえ、放っておけなかったんだって。許してやってくれん?」
瑠久は、何も言いません。
瑠里は、立ち上がりました。
「とりあえず、食べるもんは食べときなよ」
瑠里が出て行ったあと、布団から手が伸びておにぎりを掴みました。
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翌朝。
宿屋と酒場を営んでいる夜葉のおうちの前で、瑠久の家族は出発の挨拶を交わしていました。
「方波見さん、いつもすみません」
「宿泊代なんて要りませんのに」
「まさか。お世話になるんですから、きっちりとお支払いさせていただきますよ。愚息が何かしたら、どうぞ叱ってやってください」
「お気をつけて」
瑠久は結局、見送りに出ては来ませんでした。
「瑠久くんは、まだ部屋?」
「うん。夕ご飯までそっとしといたほうが良いかも」
「そう…」
夜葉のお母さんは、手渡された荷物の一つである「白澄家の家訓」を取り出し、読み上げました。
「なになに…。『正道を選ぶ智。歩み続ける勇。仲間と和する仁。右の三徳をもって、万民の奉仕者であれ』。…難しい事、書いてあるなあ」
しとしとと降る朝の雨に揺れる初夏の草花から、露がしたたり落ちていきました。
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