彼女と消えた着信履歴

彼岸キョウカ

彼女と消えた着信履歴

 蝉が、鳴き始めていた。

 これから本格的に夏が始まる。夏休みは、海で泳いで、夜にはバーベキュー。花火もいいな。……。気づいたらまた、椅子の上でぼーっと考えていた。

 「駄目だ駄目だ。勉強に集中しないと」

 机に開いてあるだけの数学の教科書に目を向ける。勉強を開始してから一時間ほど経つが、まだ二、三ページしか進んでいない。あと一週間で期末テストなのに。

 夢の高校生になってからもう三ケ月。元より頭が悪かった俺は頑張って近所の偏差値並の高校に入学した。中学でぎりぎりついていけるレベルだったのに、高校で急に頭が良くなるはずはなく。このままだと単位が危うい。

 「こんな時に、マナがいたらな——」

 思わず愚痴をこぼす。

 俺の彼女——マナはとても頭が良い。しかも人に勉強を教えるのがとても上手かった。将来は先生になりたいらしい。

 マナとは中学二年生の時に同じクラス、隣の席になったことがあって、俺の授業中のしかめ面を見て勉強を教えてくれるようになった。それがきっかけで俺たちは付き合って一年以上経つ。マナはもっと勉強したいからと言って少し遠い公立の中では一、二を争うくらいの偏差値の高い高校に通っている。

 困ってる人を放っておけない優しいとこも、いつも元気で笑顔が絶えないことも、真っ白な肌に艶のある黒髪も、全部が好きだ。

 俺も、自分のために——マナのために、きちんと勉強して大学に行き、良い会社に就職しないとな。

 「よし、頑張れ、俺!」

 頬を軽くたたいて、気合を入れる。

 そしてまた、勉強を始めた。



 それから、しばらく。

 俺にしては久しぶりに長時間勉強した、方だと思う。

ちょっと息抜きにおやつでも——

『ピロピロリン』

 ——めずらしく携帯が鳴った。どうやらマナかららしい。

 時計を見ると夜の七時過ぎで、毎日放課後も残って勉強しているはずだから、まだ下校途中だと思うのだけど。

 「はい、もしもし」

 『あ、もしもしカイト?やっほー』

 「こんな時間にどうした?」

 『あ、あの、実はね……』

 マナが電話をかけてくること自体がめずらしいのに、どうしたんだろう。

 『私と、別れてほしいの』

 一切想像していなかった内容に体が、固まる。

 「なん、で……」

 『私より、良い人いっぱいいるから。もっと可愛くて、もっとカイトと一緒にいてくれる人と付き合いなよ』

 ドクンドクンと脈がうるさくて、内容が頭に入ってこない。

 「俺は、マナが、好きなんだよ。……マナ以外なんて考えられない」

 『……っ。私も、すきだよ』

 「今、なんて——」

 『もう行かなきゃ、じゃあね、さよなら』

 この電話が切れたら、もう——

 「おい、待ってくれっ、マ——」

 『ツー ツー ツー』

 ——一方的に、切られてしまった。

 なんで。何もしてないのに。いや、何もしてないからか?

 でも、マナは好きって……言った?

 あんなに脈打っていた心臓は、すっかり静かになって、もう魂が抜けてしまったみたいに、体が動かない。考えきゃいけないのに、思考がから振りするばかり。

 と、とりあえず、もう一度マナに電話しよう。たとえもう元に戻れないとしても、原因だけは聞いておきたい。

 『ただいま電話にでることができません……』

 だめだ。繋がらない。なんで。

 あと一回、一回だけ。

 『ただいま電話にでることができません……』

 駄目だった。なんで、急に?マナから不満の声など聞いたこともなかったし、俺がマナに不満を抱くこともなかった。マナはいつでも笑顔で、だから不安に思うこともなくて、あれ、俺は何も気にしていなかったのか?だから、駄目だったのか?ぐるぐる同じことを考えて、答えが出ないまま。涙も出ないまま。

 「……ィト、カイト!」

 大声と共にバンっとドアが開く。

 「さっきからご飯で来たって呼んでいるでしょう! はやく降りてきなさい!」

 ……なんだ、お母さんか。お母さんはそれだけ言うとまたドタバタとリビングに戻っていった。

 マナ……。もう、会えないのかな。

 目の前が、真っ暗で。何も考えられなくて。少しでも気を紛らわそうと僕は、リビングに向かった。



 「どうしたの、カイト? 全然食べないじゃない」

 今日の晩御飯は俺の大好物のハンバーグだけど、全く箸が進まない。

 「あんまり、食欲なくって」

 「彼女と何かあったのか?」

 お父さんがぼそっと言った瞬間ギクッと固まってしまった。

 「え、ホントに? マナちゃんと何かあったの?」

 「え、いや、その……」

 どうしよう、急にマナに振られたなんて言えない——。

 『リリリリン リリリリン——』

 タイミング良く、電話が鳴る。

「家の電話が鳴るなんてめずらしいわね」

お母さんが席を立つ。これで、うまく紛らわせたら良いのだけど。

 「……別れたのか?」

 お父さんが小声で聞いてくるのに対して俺は、頷くことしかできなかった。

 「そうか、残念だったな」

 お父さんはそれだけ言うと、また箸を進めた。とりあえず何とかして気分を上げて、この気持ちを誤魔化さないと。

 「カイト! マナちゃんのお母さんからよ」

 マナのお母さんが、なんで急に?

 「今行くよ」

 さっきまで沈んでいたのがウソみたいに、緊張でいっぱいになる。

 「もしもし、お電話変わりました。カイトです」

 『もしもし、こんばんは。急に電話してごめんね』

 声が、震えている気がした。

 「あの、どうされましたか?」

 たぶん、マナのお母さんは俺たちが別れたことを知らないんだろう。どのタイミングで伝えるべきか……というかマナは伝えていないのか?

 『あの、ね、とりあえず聞いてほしいのだけれど……』

 さっきより声の震えがひどいので、俺は身構える。けどそれは次の瞬間には全く無意味なものになった。


 『——マナが、死んだの』




 「はぁっ、はぁっ、はぁっ……ここかっ……」

 俺はマナの家の近くにある少し大きな病院まで来ていた。マナのお母さんとの電話の後はもう何が何だかわからなくて、気づけば病院に到着していた。マナは本当に、ここにいるのだろうか……。

 戸惑いながら病院に入ると、ロビーのソファにマナのご両親が座っているのが見えた。なんて声をかけたらいいかわからないけれど、とりあえず二人に近づく。

 「やあ、カイトくん。こんばんは」

 「こ、こんばんは」

 マナのお父さんの目が充血している。マナのお母さんは、ハンカチで顔を隠したまま、ソファに座って体を震わせていた。俺は、まだマナが死んだことを信じられなくて、信じたくなくて、どうすればいいかわからずにただ下を向いていた。

 「せっかくここまで来てくれたんだし、マナに会うかい?」

 マナのお父さんが、いつも通りの優しい顔で尋ねる。

 「……はい。会いたいです」

 俺はマナのお父さんの目をまっすぐ見て答えた。

 『和子はどうする? ここに残るか?』

 和子さん——マナのお母さんはただ首を縦に動かした。

 「一人で大丈夫か?」

 マナのお母さんはこくん、と頷くと、「絶対帰ってきて」と呟いた。

 「あぁ、絶対帰ってくるよ。よし、カイトくん。じゃあ行こうか」

 「はい」

 そうして俺たちはマナの元へ向かうことにした。




 二人で静かに歩いていると、マナのお父さんが唐突に口を開いた。

 「こんな時間に、ごめんね」

 「いえ、気にしないでください」

 あ。そういえば別れたことをご両親は知らないのだろうか。

 「あ、あの、実は……」

 「どうかしたのかい?」

 マナと別れたと伝えたら、会えなくなってしまうだろうか。

 「こんな時にお伝えするのも申し訳ないのですが、実は、マナと別れたんです」

 お父さんの顔が、固まる。

 「……その、理由を聞かせてくれないかな?」

 理由は俺が一番知りたかった。

 「理由は、よくわかりません」

 「よければ、詳しく聞かせてくれないかな? ごめんね」

 「いや、お父さんが謝ることじゃないんです。実は——」

 俺はあの電話のことを全て話すことにした。俺が話している間、お父さんは真剣に、そして優しく話を聞いてくれた。少しずつ、俺も落ち着きを取り戻しつつあった。

 「——ということなんです」

 「そっか。そんなことがあったんだね」

 そう頷くお父さんの顔には、まだ疑問が残っている気がした。

 「なぁカイトくん。電話がかかってきたのって何時頃かな?」

 「えっと……夜の七時過ぎだったと思います」

 「七時過ぎ?」

 お父さんの顔が、曇る。

 「七時何分かわかる?」

 「えっと……」

 俺は急いでケータイを取り出し、着信履歴を見る。

 「あれ? 履歴がない?」

 いくら探しても電話の履歴は残ってなかった。

 「履歴、消してしまったのかい?」

 「いやそんなことはないはずです。電話の後ケータイを触ってないので」

 どうして? 俺は確かに今日マナと電話したんだ。ここに来るまでにケータイが壊れてしまったんだろうか?

 「とりあえずそのことは後にしよう。着いたよ」

 ケータイから顔を上げると、目の前にドアが佇んでいた。急にドアが自分の何倍も大きく見えて、またドクンドクンと脈が大きくなってくる。

 俺はとりあえずケータイをしまった。

 「入るよ」

 「はい」

 お父さんはドアノブに手をかけ重たい扉を開けた。扉の向こうは真っ暗で、お父さんがすぐに電気をつけてくれた。

 電気がつくと、そこにはベッドで寝ているナニカがあった。それに俺はそっと近づく。顔には布が被さっていて、誰かわからない。本当はマナじゃない知らない誰かで、この布をどけた途端にドアからマナが入ってきて、ドッキリ大成功!って、別れ話も嘘だよって、いつもの笑顔で笑ってくれたらいいのに。

 「マナの顔、見たいかい?」

 俺はただ小さく頷くことしかできなかった。

 お父さんがそっと、顔に被さっている布を取る。そこには俺の大好きなマナの顔があった。でもそれは人形のように真っ白で、一ミリも動くことはない。

 俺はマナの頬へそっと手を伸ばす。

 触れてみたマナの肌は氷のように冷たく、ドクンドクンと熱く脈打っていた俺の心臓を冷やしていく。

 「なぁカイトくん」

 「はい、なんでしょうか?」

 お父さんはすごく真剣な顔で、

 「カイトくんは、奇跡を信じるかい?」

 俺に尋ねた。

 「奇跡、ですか。……俺は信じませんよ」

 「理由は?」

 「だって、奇跡があるなら、マナは死んでませんから」

 マナの顔を見つめる。その顔は、死んでいるとは思わせないほど綺麗だった。

 「実はマナが事故にあったのは、午後六時半くらいなんだよ」

 体が、固まる。

 「カイトくんのケータイにも、着信履歴は残ってなかったんだよね?」

 カイトくんのケータイに、も?

 無言の俺に構わず、お父さんは話を続ける。

 「実は僕たちの所にも、マナから電話があったんだよね。午後七時前くらいだったかな? お父さん、お母さん。いつもありがとう。ずっと仲良しで長生きしてね、産んでくれてありがとうって」

 奇跡は、あるはずがない——。

 「事故の連絡があった時、和子と二人でおかしいって話したんだ。だってついさっきマナと電話で話したからね。証拠の着信履歴を確認したら、僕たちのにも残ってなかったんだよ」

 気づけば、マナの頬に雫が一粒落ちていた。

 「それにマナがカイトくんのことを嫌うはずがないよ。いつもカイトくんのことを楽しそうに話していたし、今朝だって君の期末テストのことを心配してたんだから」

 雫が二粒、三粒と落ちていく。

 「マナは、本当に優しい子に育ってくれた。最期に、素晴らしい奇跡まで起こしてくれて……」

 奇跡なんて、あるはずが——

 「今までマナと付き合ってくれてありがとう。カイトくんが、マナの彼女で本当に良かった」

 「うっ……うぅ、マナぁ……うわぁぁああああ」

 泣いた。ただただ泣いた。

 ただただ悔しくて。ただただ嬉しくて。もっと一緒に笑いたかった。もっと一緒に泣きたかった。もっと一緒にどこかへ行きたかった。もっと一緒に勉強したかった。もっと一緒に生きたかった。

 マナ、今までありがとう。一生忘れない。

 ——知っていますか。奇跡は身近に溢れているということを。




                                      


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