蜂蜜酒

 薄暗がりに沈んだ職人小屋には煙の香が立ち込めて、静かに揺れる炎の朱色が、飴色の木肌をぼんやりと照らし出している。埃はなく、空気は澄んでいるが、足先をじわりと暖めるような火の粉の熱を感じる。やや汗ばんだ額を拭い、息をついたところを見計らってか、僕を呼びとめる声があった。

「おうい、そろそろキリついたか? 閉めるぞ」

「はい、もう出ます」

 先輩に言われて、道具類を片付ける。革製の鞄へしまい込んでから、肩に掛けた。

「どうだ、このあと飯でも。俺ぁ蜂蜜酒が飲みたくてよ」

「行きましょう。でも、お酒はいいかな」

「苦手なのか? 飲めない歳でもないだろ」

「お酒の方はいいんですけど、蜂蜜はあまり好かないんですよ。後に引く甘味がちょっとね」

「ふうん、旨いと思うんだけどな。まあいいや」

 気のいい先輩は、指先で職人小屋の鍵を弄びながら、僕が出てくるのを待ってくれている。いそいそと扉をくぐると、先輩は閂をかけて、鍵をした。

「いつも思うんですけど、こんなところへ忍び込む人がいるんですかね?」

「いやな、何年か前に、がきんちょが興味本位で入ったことがあるんだよ。俺が見習いの頃だ。それから、一応鍵をかけるようになった」

「そうなんですか? 言われてみると、悪戯っ子には面白い場所かもしれませんね」

 取りとめもない話をして、口笛を吹いて歩く先輩の背中を追いかける。職人小屋から続く砂利道を行けば、食堂はすぐそこだった。

 仕事帰りの人々でざわつく食卓は、香草と澄んだ酒の香りを漂わせて、陽気な人肌の熱をたたえていた。先輩とふたりで丸テーブルにつくと、迷うことなく注文を入れる。通い慣れた場所ゆえのことだ。

 僕の頼んだのは野菜が溶けるまで煮込んだ汁物と、香草と共に甘辛く炒めた大豆と穀物。一方で、先輩は宣言通りの蜂蜜酒と、たっぷりと味噌をつけて炙った兎肉だ。食膳のお祈りを終えてから、僕は苦笑いをする。

「ちょっとは体に気を遣った方がいいんじゃないですか?」

「気にするかよ。俺ももう少しで《化身》なんだ。今のうちに食いたいもん食って、未練をなくしておかねぇとな」

「そうは言いますけど、確かまだ一年くらいはありますよね」

「そんなもんかな。ともかく、その間にお前には一人前になってもらうぞ。自分が作った香り灯篭で《化身》するのは嫌だからな」

 快活に笑って、先輩は肉の塊にかぶりつく。甘い脂と、焦げた味噌とがふわりと香った。僕も自分の料理に口をつける。

「実際、僕ひとりで作れるようになるために、何ができればいいんですか?」

「うーん? まあ正直、あらかたできるようにはなったよな。だけどアレだ、一番大事な香材の調合がまだだろ。頃合いだし、材料も集めないといけねぇし、そうだな、明日から始めるか」

「何が必要なんです?」

「おいおい、飯時に仕事の話をするなよ……って、振ったのは俺か。詳しくは明日話すけどよ、おおよそは香草や香木と植物油だ。薄荷、芥子、山椒の枝、菜種、胡麻、松……その他諸々、だな」

「確か、果物とか花はダメなんでしたよね。それこそ、蜂蜜とかも」

「ああ、理屈はよく知らねえけどよ、そういった華のあるものは、渡河には相応しくないんだと。そういうのは此岸の事物で、無垢な精霊には似合わねえんだってさ。だから、いくら蜂蜜酒が好きだからって、俺はこいつを職場に持ち込んだりしねえ」

「蜂蜜じゃなくとも、職場で酒はやめてくださいよ? 一応、火を扱うわけですし」

「冗談に決まってるだろ? 俺だって、そこまでちゃらんぽらんじゃねえよ」

 がっはっはと破顔する様子を見るに、いくらか酒が回っているらしい。顔を赤くした先輩は、もともとあっけらかんとしているものの、食堂の人いきれと釣り合ってきたように感じる。

「そんなことよりよ、お前んとこの幼馴染とは最近どうなんだ。口を開けば仕事ばかりだがよ、会ったりしてんのか?」

 たぶん、この話題は面倒臭いやつだ。いや、彼女の話をすることは別段嫌じゃないのだけれど、にやにや笑いを隠さない先輩相手だと、気苦労も絶えないというものだ。

「まあ、時々は。畑の方もよくやっているみたいですよ。もうじき初めての収穫があるそうで、いくらか渡してくれると言っていました」

「かーっ、澄ました顔してちゃっかりしてるなぁ。別嬪さんだって聞いたぜ?」

「いや、別にそんなんじゃありませんから。仲が悪いわけではないですけど、あくまで友人ですし、ともに児童舎で過ごした相棒ってだけですよ」

「お、なら、俺にも希望が……」

「……ありませんよ? 妹背の契りを交わして共に《化身》するとなると、年が離れすぎでしょう。無理ですって」

 変な方向へ行こうとする先輩へ、冷や水を浴びせかける。無粋な気もするけれど、これくらい言っておいた方がいい。良くも悪くも、酒が回ると歯止めがきかないのだ、この人は。

「そうは言っても、そもそも俺の代には女子がいねえんだよ。ったく、つまらん。精霊たちも、もう少し空気を読んで子を授けてくれればいいのによお」

「向こうでいくらでも探せばいいじゃないですか。先輩、気のいい人なんだから、好いてくれる人がきっといますよ」

「お、なんだ? 嬉しいこと言ってくれるじゃねえか」

 言って、大袈裟に僕の肩を叩く。なんというか、調子のいい人だと思う。とはいっても、僕はお世辞でもなんでもなく本心からそう思っている。正直、人付き合いは得意な方じゃないが、先輩とはこうやって話が弾むのだから、先輩と一緒に仕事ができて良かったと思うのだ。流石に恥ずかしいし、これ以上暴走されても困るので、口には出さないが。

「しかし、怪しいなあ。お前さんもそうだし、相方の方もそうだし、それこそ年の近い異性は何人かいるはずだけどよ、全然浮いた話を聞かねえぞ? となると、やっぱりそういうことなんじゃねえのか? 向こうさんのことは知らねえが、お前さんは堅物も堅物だからなあ。付き合いがあったとしても、絶対話さないクチだろ?」

「違いますって、本当に」

 酒の匂いに紛らして笑顔を繕いながら、僕は答える。

「彼女とは本当に何もないんですよ。お互いの近況を楽しく語って、たまに思い出話をして、それだけです」

 そう言うと、訝しんでいた先輩はけろりと納得して、目の前の食事を切り崩すことに意識を戻したようだった。僕はこっそりと、内心で安堵する。酒に酔った客たちの喧噪が、どこか遠い出来事のように聞こえた。

 本当に、何もない。それだけなのだ、彼女とは。

 なにせ、僕は何も知らなかった。かつては誰よりも長く一緒に居たけれど、それでいて、碌に彼女のことをわかっていなかったのだ。

 あの手紙を読んだ今でさえ、わかっていないのだから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る