陋屋

「おや、あんたが来るのは珍しいねえ」

 しわがれた声が、陋屋の中へぐわんと響いた。ばばさまの庵へ赴くたび、僕はいつも頭痛にも似た疲労に襲われる。

 此岸の中で、最高齢なのがばばさまだった。その住居も古びた木々でできていて、口さがなく言うならば、とても人が住むとは思えないおんぼろ屋敷だ。なにしろ、《化身》を待つ此岸の人々は、押しなべてひとまわりもふたまわりもばばさまより若く、昔を知る人がないために、世代がいくつ違うのかさえ杳として知れなかった。

 囲炉裏にはほとんど真っ白になった炭が燻り、薬缶から湯気が細くたなびいて煙出し窓へと吸い込まれていく。ばばさまは開かなくなった右の眼と、くすんだ緑色の瞳とで、それを見つめていた。

「えっと、報告しないといけないことがあって」

「ああ、そうだろうとも」

 僕の言葉へ、ばばさまは言わんでもわかるとばかりに頷いた。その拍子に、薄青に透き通った髪がひと房、鬼火のように揺れる。他にも、繋がって離れなくなった左手の中指と薬指だとか、陶器みたいにつるつるになった肩口だとか、《化身》し損なった名残なのだと言っていた。どういうわけか、ばばさまは齢十六で迎える渡りを経ずに、こちらへ残り続けているのだ。

「久々の授かり物だねえ。あっちまでよく見わたせるのような霧の晴れた日は、だいたいそうなのさ。あんたがこっちへ来たのも、今日みたく季節外れに暑い日だった」

 僕らにとっての一大事も、ばばさまにとっては繰り返す出来事のひとつでしかなかった。しかし、ばばさまはそのひとつひとつを鮮明に覚えているらしい。もっとも、確かめようのないことも多かったが。

「あんたは赤子の世話するのは好きじゃないだろうが、よくおやりよ。おなごひとりじゃできることも少ないだろうて。それに、あんたらふたりもそうだったが、続けてやってくることがほとんどだからねえ」

「はい、もとよりそのつもりです」

 とはいえ、こと僕自身についてこうも覚えがいいのだから、きっと確かなのだろう。体が弱って外に出ることこそ少ないが、誰よりも此岸の世について承知しているのは間違いなかった。

「まあ、わしから注意しておくことは、夜でも昼でも、誰かがそばにいなくちゃいけないってことさね。それと、ひとりでなんでもやろうとしないこと。まあ、言うまでもないだろうけどね」

 ばばさまは大きな口をぐにゃりと曲げて、独特の笑い声を漏らした。幼子の間ではたいそう不気味がられているが、何度も目にすると、これはこれで愛嬌があるかもしれないと思えるのだから不思議だ。

「あと一年でお勤めだろう? あんたらにとって、児童舎での最後の大仕事だね。忙しいだろうけど、それにかまけて引継ぎを忘れるんじゃないよ」

「はい。では、失礼します」

「ああ、待っておくれ、もうひとつ。赤子のこととは関係なかろうが、ついでにな」

 腰を浮かした僕を、ばばさまはそう言って呼びとめた。白湯を啜って一息ついてから、ばばさまは口を開いた。

「あんたは灯篭職人をやるんだったな。そしたら悪いけど、児童舎を出てからはここへはもう来ないでおくれよ。手に職つける前だったらいいんだけどね」

 意外な言葉に、僕はちらりと眉を上げた。それを目ざとく見つけてか、あるいはその疑問を見越してか、ばばさまは続けた。

「香り灯篭は《化身》を促し、こちらの人をあちらへ送るための道具だろう。わしのような半端物にとっちゃあ、その香は毒なのさ。こっちに居られなくなってしまうし、今更あっちへ行ったって、くたばっちまうだろうからね」

 少し、背筋が伸びたかもしれない。はっとして、僕は問いかけた。

「くたばるって、ばばさまは向こうのことを知っているの? ティル・ナ・ヌォーグは、どんな場所なの?」

 ばばさまはちらりと僕の方へ目をくれて、すまなそうに言った。

「少し脅かしてしまったかい、悪かったね。そんなこたぁない。ただ、わしがちょっとばかし普通じゃないってだけのことさね」

「でも、ばばさまは向こうへ行っちゃいけないんでしょ?」

 どうしてこんなに気がかりなのかと考えて、彼女との会話が胸をよぎった。彼岸へと向ける思いを誰にも教えたくないと、彼女はそう言っていた。

「ああ、わしにもよくわからんがね。そして、たぶんわしには良くないところなんだろうよ。だけど、お前たちにとってはそうじゃない。ちゃあんと《化身》して、あちらへ渡れる日が来るだろうさ」

 うつむく僕を覗き込むようにして、ばばさまは続けた。

「あんたも向こうが気になるのかい? そりゃあ、精霊になってみなけりゃわからないことさね。でも、毎日のようにあんたらへ施しをくれるし、今日みたいに赤ん坊を連れてきてくれるんだ。精霊たちは向こうでよろしくやっているよ。何も心配することはないだろうさ」

 かっかっか、と声を上げる。豪胆な笑い声は頼もしい一方で、こんな人が何を怖がるのだろうとも思ってしまう。

「ちょっと違う、のかな。僕は知りたい。向こう岸にはどんな風が吹いているのか、どんな景色が見えるのか、どんな歌を歌って暮らすのか」

 ばばさまは考え込むように首を傾げて、それから目を細めて頷いた。

「そうか、すると、残念ながらしばらくはお預けだろうねえ。しかし、そしたら《化身》が楽しみだろう。それはいいことだよ。とってもね」

 遠くを見るように、ばばさまは言った。その視線の先に何があるのか、僕にはわからなかった。

 今度は引き止められることなく、僕はばばさまの庵を後にした。日差しは傾いて、ティル・ナ・ヌォーグにそびえる山々の稜線に幻想的な光を投げかけている。それを遠巻きに眺めながら、僕は児童舎へと足を向けた。

 結局、それきりばばさまには会うことなく、僕は職人小屋へ入ることとなった。もっと聞くことがあったのではないかと考えて、未だに何も思いつかないでいる。

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