施し

 朝の庵は飯の香りに唆された稚児たちの声でかしましく、毎日のことながら、僕も彼女も大きな声でなだめるばかりだった。物心ついてしばらく、童子の中では年長となった僕と彼女にとって、こうして年下の面倒を見るのが日課であり、役割であった。

「ほら、こぼさないの」

 まだ言葉もままならない赤子に微笑みかけながら、彼女は粥をすくって飲ませていた。多少むずかりながらも、大人しく飲み込んでいるのを見ながら、僕では無理だろうなんて思う。肩口で短く切りそろえた黒髪、愛嬌のある笑みに、丸っこい頬の形、それでいて、意志の強さを示すように通った鼻。幼いながらも、成長の兆しが窺える容姿といい、本人の溌溂とした態度といい、幼子からしたら安心できるらしく、よく懐かれている。代わって、僕は年がら年じゅうつまらなさそうな顔をしているということもあって、年下からの覚えはまるでよくなかった。とはいえ、得手不得手はよくよく承知していたので、腐ることもない。掃除に洗濯、配膳や片付け、あるいはその指示など、児童舎ですべきことは数え切れないほどにあるのだ。

「こっちはやっといたよ」

「ありがとう、ちょっと待ってね、寝かしつけたら行こう」

「うん」

 ぶっきらぼうな返事をして、その様子を見守る。少しばかり、普段より元気がないように見えて、気のせいかと考える。

「お待たせ、行こうか」

 今度は頷くだけにして、支度をする。朝餉と昼餉の間、太陽が此岸にある間に精霊樹へと行き来するのも、僕らの大切な習慣のひとつだ。あちらの世界よりもたらされる《精霊の施し》なくしては、自らのことも含めて、童子を育てることはかなわない。施しには食料や生活品はもちろんのこと、時として悪戯とか気紛れとしか思えないようなものまで混じっていたりする。

 ふたりして連れ立ち、いつものように歩く小路はふさふさとした下草に覆われ、水気と日の光を一緒にした甘じょっぱい夏の香りに満ち満ちている。青空が目に染みて、思わず手をかざす。それを見た彼女が、隣でくすくすと笑った。

「暑いねー。まだ、そんな時期じゃないと思っていたけど」

「うん。施しの中に、飲み水が多いといいけど」

「また、そんなしみったれたこと言って」

「なに、子どもたちが喉乾いたって騒ぐのは嫌でしょ」

「……退屈そうでいて、やっぱり君って面倒見はいいよね」

「そりゃ、役目だし」

「なんだかんだ、お兄ちゃんだなあ」

 言って、彼女はまた可笑しそうに笑う。僕は気恥ずかしくなって、また空を見上げる。群青のそれはどこまでも澄み渡り、ところどころ思い出したように白い雲を浮かべていた。汗が、つうっと肌をつたう。

「こんなに遠くまで見えるのに、精霊の姿なんて、まるで見えないよな」

 河の向こう、精霊の棲まうという山々には、普段なら深い霧に覆われているところ、一足早い夏の日差しにあてられたのか、青々とした木立のひとつまで瞭然としていた。

「そりゃあ、そうだよ」

 人が感傷に浸っていたところへ、呆れた声を返される。

「あたしたちも、精霊たちも、毎日のように精霊樹へ通っているけれど、一度も顔を合わせたことはないじゃない。やり取りできるのは《施し》だけだよ。《化身》してあちらへ渡った精霊たちは、あたしたちには決して見ることができないって、ばばさまも言ってたし」

「しみったれたこと言うのは、どっちだって」

 思いのほか強くやり込められて、小さくため息をついた。ひょっとしたら、ちょっと拗ねていたかもしれない。自分の方が大人びていると思っていた。

「ティル・ナ・ヌォーグは、どんな景色なんだろう。精霊たちは、何をして暮らしているのかな」

 彼岸は色々な名で呼ばれていて、僕はそのひとつを口にした。常若の国とか、そういう意味だった筈だ。

「精霊は飲まず食わずでいいって言うし、言葉も必要ないらしいけど、どうやって生活するんだろうか。ねえ、どう思う?」

 何の気なしに水を向けると、返ってきたのは意外な言葉だった。

「秘密」

 あまりに素っ気なく言うので、僕が聞き違えたのかと逡巡する羽目になった。

「え、秘密ってどういうこと」

「秘密は秘密だよー。話すつもりないってこと」

 言って、彼女は意味深長な笑みを浮かべる。しかし、精霊たちの暮らしなんて、此岸の誰も知らないんだから、わざわざ隠し立てするようなこともない筈だ。

「まさか、知ってるの? 向こうでのこと」

「そんなわけないじゃん。ばばさまだって知らないのに。ただ、なんて言うのかな、あたしは向こうでのことをどう思っているか、誰にも言いたくないんだ」

 変なの、と思った。けど口には出さなかった。あんまり、彼女が泣きそうな顔をしている気がしたから。でも、瞬きひとつした瞬間に、どうしてそう思ったのかと首をひねるくらい、彼女はいつも通りの表情だった。僕たちは、黙々と精霊樹への坂を登った。その間、ほとんど口をきかなかった。

 精霊樹は、化粧した巫女の肌みたいに真っ白な幹をして、透きとおった葉を風にそよがしていた。それに散らされた日差しは優しい萌黄色をして、心温まるような、独特の木漏れ日を成している。

「……あれ、何か変じゃないかな」

 先に気がついたのは僕だった。精霊からの施しは太陽と共にやってきて、精霊樹の根元、暖かい日だまりの中へ贈られる。それは普段と変わりなかったけれど、その中身はいくらか特別だった。

「赤ちゃんじゃない!」

 彼女は色めき立って、その体を優しく抱き上げた。目も開かない、生まれたばかりの赤ん坊は、その拍子に産声を上げて、しばらく泣き止まなかった。

「そうか、ちょっと前に《化身》があったから……」

 赤子はこうして精霊よりもたらされると話には聞いていたけれど、自分たちが精霊樹へと通うようになってからしばらく、こうして目の当たりにするのは初めてのことだった。こういう時にどうするべきか、先輩に言われたことを思い出す。

「お世話に必要な道具も、ある程度贈ってくれているみたい。今日は荷物がいっぱいだね。ちょっと重そうだけど、任せるから」

「うん。代わりに、赤ん坊の方は頼むよ」

 大切そうに赤子を胸に抱く彼女へそう言って、僕は施しの中身をあらため、籐かごの中へ入れていく。少し溢れてしまうので、空いた手で運べそうなものをより分ける。

「とりあえず児童舎へ連れていって、落ち着いたらばばさまに報告だよね。僕が行ってこようか?」

「お願い。午後は忙しくなりそうね」

「午後だけじゃきかない気がするな」

「そうかも」

 彼女は微笑んで、まだ髪の少ない小さな頭を撫でながら、しみじみと言う。

「それにしても、ついにこの日が来るなんてね。もう少しでお勤めが始まるし、赤ちゃんの世話をすることないまま、児童舎を出ていくものとばかり思ってた」

「僕は、それでも良かったけど」

「もう、正直すぎるのも良くないんじゃないの?」

「まあ、こうなったらこうなったでちゃんとやるから、大丈夫だよ」

「それはあんまり心配してないけど……まあ、よろしくね」

 そういったやりとりのうちに、僕は荷物をまとめて担ぎ上げる。彼女へと視線を送って、ふたりして坂を下っていく。荷物は多かったけど、一陣の風と共に暑さが和らいで、さほど苦労はしなかった。これも、施しのひとつだろうかと考えた。

 春も盛りの、齢にして十を数えた頃。彼女から秘密という言葉を聞いたのは、僕の記憶の限り、この時が最初で最後の筈だった。

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