蜂蜜色のないしょごと
八枝ひいろ
《化身》
秘密とか、隠し事とか、僕にはよくわからない。
最後の言祝ぎを受けて、彼女が硝子細工のように透きとおった翅をふるりと揺らしたときにさえ、彼女がどうしてそんなことを書き残したのか、どうして僕にだけ伝えようとしたのか、なにひとつわからずじまいだった。僕の手中で青い煙となって立ち昇った彼女の言葉は、みずみずしい朝日の中へ溶けていく彼女自身の姿と同じく、此岸の世にいくらの未練もないみたいに見えた。
朝露に濡れた陶色の肌に、香り灯篭の炎が映える。ゆらめく朱の光芒が、少しずつ、彼女という存在を拭い取っていく。目も口も失くした、それでも彼女とわかる真っ白なかんばせを上げて、きらめく水面の向こうを臨んでいる。
《化身》した彼女が、彼岸へと渡る。
精霊となり、かの世へと去る人たちのことを、僕らが知る術はない。いずれ彼女は知れず親となり、この地に子をもたらすことになる。しかしその赤子さえ彼女のよすがを保つことはない。誰しも等しく辿る道であり、繰り返すまでもなく当たり前の出来事が、今はひどく不可思議なことに感じられてならなかった。
しゃんしゃらと鳴る鈴音に寄せて、餞たる巫女の舞いはたけなわに、冷ややかな風はかえって清澄さを増している。こちらとあちらを隔てる清水は滔々と流れ、濃密で、かどわかすかのような甘い水の香が立ち込めている。その影をおぼろにし、四肢を光へと透かしながら、彼女は霧へと紛れていく。厳かな儀式の場にあって、さらさらと柳のさざめく音だけが、後に残された全てだった。
彼女は去り、その残り香さえわずかな風に散らされていく。彼女がいた証は失われ、三々五々帰路につく見送りの人々でさえ、いずれ忘れてしまうのだろうと思った。彼女は齢満ちて精霊となり、子を成すという、生きとし生けるものとしての性を果たすべく河を渡った。そのことをして彼女は消えたのだと、いなくなってしまったのだと、どうしてか直観されてならなかった。
遣る瀬ない、哀愁とも思慕ともつかない虚ろさを抱えながら、僕は未練がましく佇んでいる。
その間じゅう、《化身》して透きとおっていくいかにも儚げな彼女の美しさが、胸に迫ってやまないのだった。
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